3月10日 東日本大震災

東日本大震災が起きてから明日で12年が過ぎようとしています。現地の凄まじさには比べようもないのですがここ松戸での揺れは今でも鮮明に覚えています。店に用があり話していたら突然とんでもない揺れで机の上のチラシはみんな吹き飛び海外からの店員さんは泣き叫びながら机の下に潜り込みました。すぐに家に電話したら食器棚の扉が開き床に散乱、目につくところにあった物が恐ろしい状態になったとのこと。そして津波!!とてもこの世の出来事とは思えない地獄絵でした。逃げ切れなかった人、高台に逃げたのにそれ以上の高さで波が襲ってきた犠牲者。明日は分からないのが人の世とはいうものの何故こんな惨いことがと神仏を呪いたくなります。親を子供を孫をジジババを失くした、そしてつい今迄住んでいた家がなくなってしまった人たち。その心労はいかばかりか。それでも多分忘れることはあり得ない体験を乗り越え今を生き抜いている人たちを尊敬します。

3月11日 東日本大震災

もう9年になります。まだ9年しかたっていません。3時過ぎに妻から隣接する習志野市の防災無線で「黙とう」の呼びかけがあったとのラインが入りました。2011年2時46分私は初めてあんな大きな地震に会いました。現地から流れてくる報道はとても正視できませんでした。生活を破壊し多くの人命を奪った東日本大地震。生き残った人々に語り掛ける言葉を私は知りません。詩人和合亮一氏は「「廃炉まで四十年」(現時点) ところでわたしの言葉の 原子炉を廃炉にするには 何年かかる のだろう この地球を この虹を この雲を この指先の棘を 廃炉にするには どれくらいか エネルギーのささやきを耳にしながら惑うばかりだ ああ 今日の言葉を廃炉にするには 何十年かかるのだろうか、、、、」の詩を朗読した。詩人は言葉を紡げるが私にはただ祈るしかありません。亡くなった方々には「どうか生者に慈悲を」とそして生者には「亡くなった人の慈悲に応えよう」と。

3月13日 営業担当者の雑記

東日本大震災から6年目。12日の日経に若松英輔という作家がこう書いていました。人はつねに二つの時空を生きている。人生の試練に遭遇するとき、世が「時間」と呼ぶものとはまったく姿を異にする「時」という世界があることを、ある痛みとともにしるのである。時間は過ぎ行くが「時」はけっして過ぎ行かない。時間的な記憶は、さまざまな要因で薄れることがあるかもしれないが「時」の記憶はけっして消えることがない。悲しみは、私達の心の中でいつしか一つの種になり、それが静かに花開いた時、他者の悲しみを感じ得る哀しみになるという。肉親を大事な人を目の前で一瞬にして失った人たちの悲しみを私は共有することは出来ない。氏は離別という悲痛の経験は、誰かと出会う事がなければ生まれない。別れとはけっして消えることのない新しき邂逅の合図なのではないだろうかと結ぶ。人間は忘れることで心が壊れることを防いできたがそれは決して忘れ去ることではない。「時」は終わりのない紙芝居。

 

3月11日 営業担当者の雑記

2011年3月11日14時46分,後に東日本大震災と名付けられたマグニチュード9.0、震度7の大地震が起きました。15,884人の方が亡くなられ2633人の方が未だに行方不明。松戸は震度5弱。亡くなった方たちの多くは大津波の被害者で乳飲み子であったり、可愛い盛りの子供達であったり、新婚間もない人たちであったり、両親、爺婆であったりで被害者の方々の悲痛の表情はとても正視できませんでした。一人ひとりにとってはみんな掛け替えのない命が一瞬にして奪われてしまったその悲しみは年と共に深く沈潜していくのでしょう。幸いにして直接の被害者ではない私が今できることはあの大震災を決して忘れないことと、亡くなった方のご冥福をお祈りすること位しかありませんが、それでも未だに身内と引き裂かれた被害者の心情を思うにつけ今朝も新聞を読みながら涙を拭いてしまいました。