3月16日 おバカな校則 

昨日の情報番組で、ある小学校に「体操服の下に肌着着用禁止」という校則があるということで話題になったとのこと。昔から校則にはくだらないもの、存在する理由がないものなどとても子供たちを教育する場所での決まり事とは思えないものが沢山ありいちいち取り上げるのもバカバカしいほどですが恐れ入りました。一応理由は「健康面や衛生管理面の配慮」だとか皮膚の鍛錬だとか訳の分からない「もっともらしい」くもない理由をいっていますがこの時代に信じられません。「担任が個別にチェックし二次性徴があった場合は着用を許可する」のだとも。これって「セクハラ」でしょう。透けて見えたら下着をつけてもいい。そんなアホナ!!今まで誰もこんな校則の存在を不思議に思わなかったのか、いうのが面倒くさいのか女性教師もいるだろうに。みんな一度は教育に情熱を持っていたのだろうに。まさか男性教師はニタニタしながら見ていることはないと思いますが?

3月15日 東大寺修二会

東大寺の修二会が今日で満行。一般にはお水取り、松明で有名ですが修二会は「十一面悔過」と言い、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味するのだとか。752年東大寺開山良弁僧正の高弟実忠が創始されて以来今年で1270回一度も絶えることなく引き継がれてきた法会で3月1日から2週間にわたって荒行が行われ12日深夜の「お水取り」と「籠松明」の儀式で最高潮に達する。この行を勤める練行衆の道明かりとして夜毎大きな松明に火がともされ毎年沢山の善男善女が集まるのだが今年はコロナ禍で信徒の集まりは中止になり練行衆も予防のため事前にPCR検査を受けるなどしたと報じられています。芭蕉もこの法会に参加し「水とりや氷の僧の沓の音」という句を残しています。私は一度も拝見したことはありませんが極寒の深夜「沓」の音が響くほどの荘厳の中行われる儀式のようです。

3月12日 震災の傷跡

「沈黙の心の海にうかまんとしてうかみあへずたゆたひてあり一つの言葉:窪田空穂」あの震災から10年が過ぎました。松戸で大きな揺れを感じただけの私は家族を亡くし家が壊れ故郷を喪失しひたすら耐えて生きている方々に掛ける言葉は思いつきません。彼らに心の滓となって沈殿している大きな塊はきっといつまで経っても消えることはないのでしょう。人は忘れることで生きています。しかしどうしても残っている得体のしれないものがきっと心の奥底に留まりもしかしたらそのことが彼らを黙らせているのかもしれません。彼らの沈黙の深さがいかほどなのか、そしていつになったら滓がほぐれてくるのか私には知りようもありません。出来ることは唯彼らが何とか重いものを背負いながらでも、心の奥底に横たわる深く長い沈黙が少しでも早く溶け流れ言葉になって出てくる日を待ち望むばかりです。そしてそのときになってようやく彼らと言葉が交わせるのでしょう。

 

3月11日 東京大空襲

昨日3月10日は76年前にアメリカ軍による東京大空襲があった日です。報道によるとこの日を忘れないための活動を長年続けている海老名香葉子さんにアメリカ大使館のヤング臨時代理大使からメッセージが届いたということです。内容は第二次大戦で亡くなられた方に対する追悼の言葉で私信とはいえアメリカからこのような手紙が届くのは珍しいようです。海老名さんは一世を風靡した林家三平さんの奥様になった方で12歳の時に空襲で一家6人を失い学校にもほとんど行けず孤児となり食うや食わずの生活の中で成長したと伝え聞きます。後年海老名さんは東京大空襲の追悼活動を今に至るまで続けています。いくら戦争中とはいえ日本に厭戦気分を起こすのには十分過ぎる徹底した空襲の事は忘れてはいけないと思います。しかしそれまでアメリカを憎んでいた彼女は真珠湾を見て被害者も加害者も苦しんでいる戦争の悲惨さを訴え始めるようになったとも。重い言葉です。

3月10日 塾経営も大変

今日は久し振りに時間が出来たので新規顧客開拓をしました。その中で配られたチラシを見ていると見覚えのある名前の塾がありました。正確に言うと横文字で「パーソナル」といのが追加されていますが住所も電話番号も同じです。以前ここの社長と話をしたことがあったので担当者に聞くと社長は変わり大阪の別会社が運営しているとの返事でした。経営者が変わったのですね。懇意にしている塾の責任者とよく業界の話をするのですが実はここも二つあるうちの一つの教室がさる大手塾のフランチャイズになっています。人口がどんどん減っておりさらに塾もその特徴を活かした内容を様々なメディアで訴え最近はSNSのフル活用もあり競争が非常に激しくなっているようです。進学専門の塾は進学率や有名講師陣を誇り、授業に追いつくことに特化している塾は個別指導などでの丁寧さ、偏差率のアップを売りにと熾烈な競争があるようです。受験競争は塾も大変なんですね。

 

3月9日 ♪もうすぐ春ですね

今日は天気が良かったからではありませんが久しぶりに寝る間も惜しんで駆けずり回っていました。どちらかというと大手の競合がしないようなサービスをすることでかろうじて注文が取れているということもあるのですが何しろ足で稼いでいるといったところです。あちこち車で走っていると見慣れた風景の中に季節の移ろいを感じます。毎年今時分になると楽しみにしている光ヶ丘団地のハクモクレンがいつのまにか7・8分咲きになっています。またよく通る新京成上本郷駅のそばにあるマンションの庭にミツマタやカワズザクラが咲いています。よそ様の庭にも雪柳がしなやかに枝を伸ばし小さな花をいっぱいつけ始めています。会社のシンボルツリー(私が勝手にそう思っているだけですが)のナツツバキにも柔らかな葉が芽を出し始めました。三寒四温を繰り返しながら段々と陽気がよくなっていくのが植物の成長を見ながら実感できます。もうそこまで春が来ています。

3月8日 新入社員お出迎え式

コロナ禍で今年も卒業式、入学式、入社式がないところもあるようです。去年入学したが一度も学校に行かずずっとオン・ライン授業の学生さんもいるようですしまた入社後ずっとテレワークという人もいると聞きます。やはり大学はキャンパスに魅力があり会社はその空気を吸ってみて初めて社員になれるのだと思います。今日の日経夕刊に伊藤忠会長の岡藤氏が去年初出社の日に「お出迎え」を企画したと書いていました。入社式は中止、出社後は在宅勤務となれば社会人になったという実感が持てないだろうというのが発端だとか。この「お出迎え」には本社のロビーに桜の木を飾ってライトアップし玄関からカーペットを敷き彼自身も社員も盛大な拍手をもって迎えたのだとか。さて今年は何をしようかと思案中だというのだがさぞか新入社員は感動したことでしょう。岡藤語録「稼ぐ・削る・防ぐ」でこれから苦難と楽しみが待っている彼らにも覚悟が湧いてきたことでしょう。

3月5日 ミャンマーでの出来事

ミャンマーで治安部隊がデモ隊に加えている動画がテレビに出ていますがとても信じられない光景です。私はよその国で起きていることをに中身をよく知らないで批判することは出来ないし、また大昔学生と機動隊が衝突した時の新聞報道が片方の側からの目で随分実景と違っていることを知っていますので直ちにメディア報道を鵜呑みにすることはありませんがそれにしてもこの光景はあまりに酷すぎます。ヘルメットを被っているだけで丸腰の救護隊員を治安部隊が寄ってたかって銃座で思い切り憎しみをもって打ちのめしたり軍靴で蹴り上げています。さらに銃を水平にし明らかにデモ隊を狙って発砲しています。軍人は訓練で殺人に対しある程度の免疫を付けているとは思いますが敵でもない、武器を持っていない、自身が死の恐怖に直面しているわけでもない「普通の人(だった)」があのような蛮行が出来るとは。人間はどこまで落ちていけるのか空恐ろしくなりました。

3月4日 子供の命

またおぞましい事件が報道されていました。5歳の男の子を実の母親とそのママ友が餓死させたというものです。この事件分からないことが多いので勝手な憶測はしないようにしますがどうも母親はこのママ友から暴力、うそでマインドコントロールされていたようです。生活保護で得たお金、自分の貯金までをこの知人に渡し自分たちは毎日の生活にも事欠く状態だったとも伝えられており、どうも今までの子育て放棄事件とは少し違うようです。気が弱いのか、自分で考えることができないのか、あるいはひたすらこの知人を恐れていたのかいずれにしても「どうしてそこまでおバカさんなの」、そして当たり前ですがもう決して戻ることのない自分の腹を痛めて生んだ子供の命。これから何十年も自分の人生が開けているのになんで「お前たち」がそれを潰してしまうのか。自分で選ぶことの出来ないこんな家庭に生まれたばっかりに命を奪われた子供が本当に哀れでなりません。

3月3日 桃の節句

今日はお雛様。ついでに奥方の誕生日でもあるのですが。我が家では娘が家を出てからはお雛様の顔を見なくなりました。ところで3月3日は別名桃の節句とも言いますが桃の花はさすがに今の時期咲きませんよね。精々今月末からなのでどうして桃の花とお雛様が結びついたのか不思議でしたが「節句」が味噌なんですね。もともと中国からの輸入催事で旧暦の3月3日というと丁度一月遅れの4月になるのですが、新暦になってから催事と季節が合わなくなりました。菊の花を飾る9月9日の重陽も時期がズレています。旧暦を使っている俳句の世界はまさにそうで季語をそのまま解釈してしまうと雰囲気が出ないのが沢山あります。「五月雨を集めて早し最上川」の五月雨は梅雨のことだし五月晴れはいわゆる梅雨の晴れ間として使うのが本来の意味のようです。まあ言葉が時代とともにだんだん変わっていくのは当たり前なので「本来は」などと気色ばむこともないのですが。