6月10日 寂聴庵の蛍から

朝日新聞に時々掲載されている寂聴さんのエッセイ。今日は「残された日々」という題でした。寂聴庵で今年初めて蛍を見た。毎年この時期になると現れ、時には知人と連れ立ち清滝まで蛍狩りに行くこともある。体が弱った今はもう清滝に行くこともないだろう、今いるのがこの世なのか彼岸なのか境目も分からないほど長生きしてしまった。もう数えで100歳。と綴る。パートナーを次々に取り換える男の話も出て来ますが、私は彼女の蛍から「其子等に捕らへられむと母が魂蛍となりて夜をきたるらし」という窪田空穂の歌を思い出しました。こちらの方は若くして亡くなった子供たちの母親が蛍に姿を変えその様子を見にきているのですね。それを父親がじっと見ながら子供たちの成長と優しかった妻のことを思い出しています。寂聴さんはもう未練などないこの世ともうすぐ行けるあの世の間のことを語り空穂はこちら側から「生」を感じ片方でそれを眺めているのでしょう。

6月9日 同窓会嫌い

毎度話のタネに取り上げる日経夕刊「あすへの話題」。今日は南木佳士という医者出身の作家。彼は40代の頃(年齢からすると30年近く前か)「うつ病にからめとられているあいだに心身が生きのびることを最優先するべく変容した。:原文のまま」つまり自分史がそこで断ち切られ、過去はいつでも都合よく上書きや修正が可能なものになったという。うつ病はどんなに嘆いても過去には戻れないのだという冷徹な事実を不快な症状として身に染み込ませた。あるとき、それまで興味もなく欠席してきた高校の同窓会で幹事学年代表の短いスピーチを引き受けたのだが「開会式の会場で、ネットなどに老けた顔写真が晒されている身はすぐ認識されるのだが、分かりますか、と近づいてくる60代半ばの男女達に昔の面影を探すのは難しすぎやがてその作業に疲れ果てスピーチを終えると早々に場を去った。やはり過去は毫も懐かしくない。」と結ぶ。分かる気がします。

6月8日 漫画本

日経夕刊「こころの玉手箱」に紫門ふみさんが取り上げられていました。彼女は同年代の漫画家、というより恋愛指南家、人生相談回答者、評論家などマルチな活躍で知られています。彼女の名前の由来はご存じポール・サイモンですがその頃はサイモン&ガーファンクル派とビートルズ派に分かれており私は彼女と同じS&Gでした。彼女の旦那さんは弘兼憲史。世の中では「島耕作」シリーズが有名ですが私はビッグコミック連載の「黄昏流星群」が好きでした。ビッグコミックは創刊時からの愛読書で子供が出来てからも出張の度に持ち帰り彼らも読んでいました。どこまで喜んでくれたのかは分かりませんが多少色っぽい内容に惹かれて見ていたのかもしれません。私、漫画は白戸三平、小島剛夕といった貸本屋時代頃からの読者で小学校の頃に「少年サンデー」や「少年マガジン」といった週刊本が出たのを覚えています。紫門ふみさんの名前からすっかり昔が蘇りました。

6月7日 10秒の壁

昨日鳥取市で行われた「布勢スプリント」男子100m決勝で山県亮太選手が追い風2.0mの条件下で9秒95の日本新記録を樹立して優勝した。これまでサニブラウン・ハキムが持っていた記録を0秒02縮めた。山県は2017年に10秒00を出し壁を超えるのは時間の問題かともいわれていたがその後肺気腫、膝の故障で一時は走ることも大変だったようで今回の復活は本人は勿論応援していた私も非常にうれしく思います。昨今「10秒の壁」などという言葉は死語になりつつありますが世界では1960年に壁が破られるまで8年かかり日本でも1998年に伊藤浩司選手が10秒0を出してから19年後にようやく桐生選手によって9秒台が出ました。0.02秒の短縮は距離にするとおよそ20cmほどなんですがそれを克服するためにどれだけの選手が努力を重ね挫折してきたかを思うと「10秒の壁」はいまだに存在しておりやはり人類の夢なんでしょうね。

6月4日 北海道からの便り

今年も北海道の親せき宅で農業の手伝いをしている町田の住人から恒例の便りがありました。北海道は冬が長いのでどうしても季節のいい5月から10月位までとなるのでしょうが梅雨がない、涼しい北海道はいいでしょうね。雪をかぶった旭岳(多分)、ライラック、ジャガイモ畑(多分)の写真が添付されておりほんの観光でしか行ったことのない身には毒な景色です。富良野も遠くない距離のようなので一面のラベンダー畑あの黒板五郎一家が暮らしていた、田中邦衛が亡くなった今となっては切ない場所にも足を延ばせますね。義弟の手伝いとかでそば、じゃがいも、トウモロコシなどを作っているとのことですが、やれ渓流釣りだ温泉だというのを聞くと「違うだろう」と言いたくなります。鎌倉育ちのお坊ちゃまは「農作業って結構大変なんだよ」とかいいながら「そば打ちを習って自分で育てた蕎麦を食ったがやはりうまいね」などとほざいています。精々お楽しみを。

6月3日 雲仙普賢岳の大噴火

1991年6月3日雲仙普賢岳で大火砕流が発生し消防団員、警察官、報道関係者など43人の犠牲者が出ました。私は当時福岡で勤務していたので噴火する前(90年11月198年ぶりに噴火)家族で行ったことがありました。霧氷を見に行ったこともあり90年冬からの噴火が報道されるのを心配していました。まず5月20日の噴火で後に平成新山と名付けられた溶岩ドームが出来それから火砕流が度々起きていたが6月3日のはテレビで見ていてもぞっとする速さ、規模であっという間に山を下って行きました。それまで火砕流という言葉は知りませんでしたが高熱の火山灰、溶岩の破片、ガスなどが高速で斜面を流れていき山麓にいた人々をあっという間に飲み込んでしまいました。被害者には消防団など住民の救助活動の中で亡くなった方が多く「消防で何かあって死ねたら本望たい」「何ば言いよっと。残された人はどうすると」遺族の無念さはいつまでも消えません。

6月2日 コロナ禍に思う

我が家では一回目のワクチン接種が8月21日に取れていたのですが何回かトライし昨日ようやく6月12日に早まりました。自治体の体制が整ってきたのでしょう2か月以上短縮できたことを喜んでいます。ところで昨晩テレビを見ていたらホームレスの方が取り上げられていました。彼はそれまでの仕事がなくなり2年前から路上生活をしているのですが「いわゆるニュースソース」を何も持っていないため今何が起きているのか全く知らなかったそうです。マスクをしている人が急に増え始め繁華街の人通りが減り「何かおかしいぞ」と気づいたそうです。訪ねてきたボランティアの人からコロナのこと、ワクチン接種のことを聞いたがそんな恩恵は受けられずに死んでしまうのかなと不安になったが援護団体の仲介で住民票がないホームレスの人達にも救いの手が差し伸べられそうだということです。日本では生きていく権利はどんな人にも皆等しくある筈です。よかった。

6月1日 カエルの登山

先日福岡に住む登山家の先輩から「宝満山を登るカエルのことが地元で話題になっとうバイ」とメールがありました。大宰府のそばにある標高829mの名山「宝満山」の麓の池で孵化した1万~10万匹のカエルが標高差600m、山頂まで2.5kmの長く天敵の多い危険な道を1か月かけて100~1000匹程が制覇するのだとか。この話地元では結構有名なようで昨年秋には太宰府市が市民遺産に認定したのだとか。調べると2018年には「宝満山のヒキガエルを守る会」がカエルが無事山頂にたどり着けるように「ヒキガエルのための宝満山ガイドブック」なるものを発行し便宜を図っているとのこと。カエルがこのガイドブックを使っているかどうかは不明ですが。大学の先生は「他の山でこのような話は聞かない、大昔から修験道の山として知られており登山者も多く彼等が靴に付けたカエルの臭いを辿っているのかも」というのだが確かな理由は未だ不明とのこと。

 

5月31日 旬のズレ

昨日は父親の墓参ただ我が家のバラは既に散っているし花菖蒲より遅くに咲くアジサイが近所では見事に咲いているしという我が家のバラは既に散っているし花菖蒲より遅くに咲くアジサイが近所では見事に咲いているしという事で大くは期待していなかったのですがまったく予想通り。バラはもう既にほとんどが散っておりわずかにオールドローズがへばりつているだけ。早々に退散し次の佐倉城址。ここの花菖蒲園はかなり広く花も非常に多いので場所により程度は違いますがボチボチ。上手にフレーミングすれば写真も可。最後のラベンダーはアウト。数年前の天候不順の時に大被害を受け只今再生の真っ最中というわけで花はなし。今年は総じて花の旬が前倒ししておりバラ園の管理人によると2週間位は早かったようだ。花は自然に従って子孫を残すために咲いているだけでしょうが旬を待っている人間にしてみれば寂しいものがあります。これもコロナ禍?ではないですよね。

5月28日 サラリーマン川柳

恒例の第一生命サラリーマン川柳のTOP10が発表されました。第一位は「会社へは来るなと上司行けと妻」。これを見てびっくりしました。私は、怖い上司なのかはたまた出来の悪い部下なのか上司から「出社に及ばず」と言われたサラリーマンのことかと思いました。行く場所がない朝妻から「早く会社に行きなさいよ」といわれもしかしたら公園で過ごしている可哀そうな男のことかと思ったのです。選評を見るとどうも考えすぎのようでコロナ禍でテレワークをする事になった男が日中家に馴染まず妻から会社に行けと言われている場面とのこと。私の読み方だとコロナではない理由で命の危険もありそうです。また第100位の「寝ているの?返事がないよWeb会議」に若い頃の大失態がよみがえりました。私の場合は対面会議の場で完璧に睡魔に襲われたのです。今は好々爺になっている当時の上司から「いくらくだらない会議でも目の前で寝るな!」と𠮟られたのです。