10月30日 ボケの始まり?

私は通勤時の睡眠導入剤として毎日本を読んでいるのですが、昨日結構分厚い本を読み終えたので次の候補を探していたら確かに見たことのある本が家にあります。よく考えたら今会社に置いてある本と目の前にある本が同じものなのです。同じものを2冊買っているのですね。本は大概アマゾンで買っており家着にしているので間違えて2冊頼んだのならそこで気が付くはず。ということは既に買っている本を再度注文したということになります。多分同じ本を買ったのはこれで2回目ですが前のケースは数年経ち本屋で良さそうだと思って買った本が家にもあったということですが今回はどうしたのでしょう。欲しいので買おうとの思いが強くて再購入したのでしょう。つらつら失敗談を書いていますが本当に単純なミスならいいのですが。最近「ボケ」が始まっているので気をつけなくちゃ。昨日の晩飯は?女房の名前は?子供の名前は?住所電話番号は?よしみんな覚えているぞ。

10月29日 松戸のネギ

私が働いている会社は松戸の中でも外れなのでまだ農耕地が結構残っています。東松戸周辺はここ数年で宅地が増えてきましたがまだ畑は随分あります。二十世紀が丘にもまだ残っています。この時期はやはりネギですね。「矢切ネギ」の産地に近いせいなのでしょう全部いわゆる白ネギです。畝を高く取り陽の当らない部分を大きく育てるのですね。鍋でもいいし焼いてもいいし外側を押すと中からツルンと柔らかい甘い実と汁がまたいいのです。そして松戸にはもう一つブランドネギがあります。市内北部小金辺りで産する「アジサイネギ」です。江戸時代からあるようですがこちらは関東では珍しく白ネギで葉の部分を食べる「ワケネギ:私の故郷ではワケギといってましたが」のですね。鍋の出汁、うどんの薬味として欠かせません。「アジサイネギ」の名前の由来は近所にある名刹本土寺が紫陽花寺ともいわれていることから取ったとのことです。是非一度お試しあれ。

10月28日 母親の死

昨日10月27日は俳人飯田龍太の母、蛇笏の妻菊野の命日です。子供にとって多分特に大概の男の子にとっての母親は特別な存在だと思います。小さい時からそばにはいつも母親がおり大人になってからも何くれとなく自分のことを案じてくれる存在。父親が静かに見守ってくれているのに対し母親ははるかに近しく時に鬱陶しくなることもあるほどです。私の場合はそうでした。亡くなって13年。これまでほとんど話題にしなかった母親のことが最近になって時々出始めました。ほんの些細な癖や物言いや動作を思い出し子供たちが似ているとかいないとか。龍太に「落ち葉踏む足音いづこにもあらず」もう振り返ってもそこにはいない喪失感。ほんの足音だけでもそれとわかる母の存在がいないさみしさ。また「生前も死後もつめたき箒の柄」というのもあります。彼の母親に対する愛情とそしてその存在が無くなった心の空白を箒に見立てているのでしょう。偉大な母の死。

10月27日 姓は丹下

今日の日経夕刊「プロムナード」にとり・みきというマンガ家の書いた文章に痛く共感しました。内容は既に亡くなっており実際には目にしたことのない俳優の物まねを、モノマネ芸人(当時は声帯模写)の真似をして周囲を面白がらせていた。その俳優たちが大河内伝次郎であり長谷川一夫だというのだがまったく私も同じ経験をしています。大河内伝次郎の本物を聞いたことがないので似ているのかは不明ですがあの独特の「姓は丹下名は左膳」という言い回しあるいは長谷川一夫が忠臣蔵で大石内蔵助に扮し「おのおのがた」と家来衆に呼びかける口調は、実際そんなセリフが存在するのかどうかも怪しい位なのだが如何にも本当らしいのです。この方はさらに「本人はもう死去しているにもかかわらず、その仕事や魅力というものはモノマネされ続ける間は現役性を保ち、次世代にも認識され芸能史のなかに普遍的評価として定着する」漫画界にも当てはまると続けています。

 

10月26日 ボチボチ紅葉

今日の松戸は随分暖かかったです。最高気温は25度位あったのではないでしょうか。車の中は少々暑い感じで窓を開けたり時にクーラーを入れたりしました。今日のようなあったかい日を「小夏日和」とでもいうのでしょうか??奥日光や赤城山辺りではもうすっかり紅葉の季節になっているとのこと。新聞には中禅寺湖の紅葉が出ており「いろは坂」も混雑が始まったようです。毎年あちこちの山、渓谷の紅葉狩りを楽しんでいますが今年はどこにしようかな。毎年取り上げる常盤平駅前のケヤキ通りも少しづつ紅葉を始めまだらになっています。車で抜けていくとグリーン、薄いブラウンが混じり陽が差し込むと一層鮮やかになります。窓を開けると枯れ葉の匂いが漂ってくるような気がします。本格的な紅葉はこれからですがそれでも大分落ち葉が散りいつものようにお掃除のおじさん達が竹箒で掃いたり風で飛ばし一か所に集めたりしています。冬が来る前の風物詩。

10月23日 いい童話に出会った

今日の今日の日経夕刊「あすへの話題」で美術家の森村泰昌氏がいい文章を書いていました。彼が庭のハナミズキの木を葉刈りしていたら近所の男子小学生が来て「木を切ったらアカン。かわいそうや」と大きな声を出した。黙って作業を続けていたらさらに「切られた葉っぱが死んでいきよる」と声を荒げた。かつてチェーンソーで一斉に刈り込まれ丸裸になった街路樹が何十本と並ぶ様を見るのが辛かった、新芽が育つために必要な作業だと分ってはいても世帯交代の為の強引なリストラめいて気が滅入った。が少年には「これは散髪や」髪の毛ぼうぼうはいややろそれと同じやというと少年は「木の散髪か」とそれなりに納得した様子。「ちゃんとやったってや。けったいな形になってるで」と言い放ち立ち去った。しかし葉刈はホントに散髪なんだろうか心中ではなお少年とのバトルが続いていると結ぶ。少年の反発とその対応に?を持った作者。いい童話に出会った感じです。

 

 

10月22日 終電

昨晩ニュースでJR東日本が来春の新ダイヤ案で首都圏の多くの路線で終電が繰り上がると発表しました。例えばここ松戸だと現行上野発0時51分松戸着1時10分が新ダイヤだと上野0時33分発松戸着0時52分になるのだとか。夜遅くまで飲むこともマージャンをすることもなくなったので今の私にはほとんど関係ない話ですが飲んべと飲み屋さんは痛いことのようです。20分ほど切り上げるのが早いのですからそれだけメートルも上がらないということなのでしょう。このことは理解できます。ただインタビューの中で仕事が片付かなくなるとか、最終電車に乗れなくなる恐れがあるというのには「恐れ入りました」。私遊びでは最終を結構気にしていたしそれでも乗り遅れることはありましたが仕事で最終電車を気にしたことは一度しかありません。私がおかしいのか日常的にそんな遅くまで仕事をしているのがおかしいのか分かりませんが私とは違った生き方です。

 

10月21日 秋の装い

今日は久しぶりの秋晴れだったので会社の近所にある公園で昼食を取りました。車の中だと窓越しに入る秋の日差しはかなり暖かく外に出ると心地いい風で秋ムードに浸れます。車を止めると駐車場の目の前の植栽が大分秋の装いになっています。サルスベリは花のイメージとはまるで違う少し角ばった薄緑の実をつけています。ここのハナミズキはすっかり葉を落とした枝に直径1cm程度の真っ赤な実を3,4個づつ付けています。昔あれほど目の敵にされたセイタカアワダチソウも黄色い花を付け目いっぱい空に向かっています。昼食はコンビニ弁当ですがなんだか野原で食べているような気持になりおいしく頂きました。私がいる事務所の植栽にキンポウジュ(ボトルブラシュ)が名残の赤い花を3,4輪つけています。急に寒くなったり暖かくなったりして着るものに迷う季節ですが少しづつ上物を羽織り段々冬に向かっていきます。自然界も冬の準備をしているのですね。

10月20日 キリギリス

朝晩めっきり涼しくなり帰宅時には虫の声が聞こえてきます。私は虫はあまり好きではないのでその種類もよく知らないのですが「キリギリス」というと思い出すのが芭蕉の「むざんやな甲の下のきりぎりす」です。奥の細道も後半石川県の小松多太神社に祀ってある齋藤実盛の兜と錦の直垂の切れ端を見たときに詠んだ句ですね。私は熊谷に行った時この地で善政を施し崇めらえていた熊谷実盛が開いたという妻沼聖天山にある碑で初めて彼のことを知りました。謡曲「実盛」などで知るぞ知る話のようですが実盛は幼少時にその命を救った木曽義仲と加賀篠原の合戦で老骨を隠すため白髪を黒く染め平家方として戦い討ち死にした。その首級から実盛だと分かった義仲が多太神社に兜などを奉納したのですね。そういった歴史的背景を芭蕉は当然心得ており兜の下に見つけたキリギリス(今のこおろぎ)に実盛を思い浮かべたのですがほんの17文字の中に生きる情景ですね。

10月19日 赤とんぼの歌

昨日突然「赤とんぼ」の童謡を思い出しその歌詞がいまいち理解できずモヤモヤが残ってしまいました。この童謡は三木露風作詞山田耕筰作曲の一昔前には誰でもが知っている歌だったと思います。この歌詞は「①夕焼、小焼の、赤とんぼ、負われてみたのはいつの日か。②山の畑の桑の実を、小籠に摘んだは、まぼろしか。③十五でねえやは嫁に行き、お里の便りも絶え果てた。④夕焼、小焼の、赤とんぼ、止まっているよ、竿の先」というものです。赤とんぼを見た作者が昔のことを思い出しているのは分かるのですが唐突に③でねえやは十五で嫁に行きお里の便りも絶え果てたというところが引っ掛かるのです。識者によると「ねえや」とは子守をしていたお姉さんのことで彼女が15歳でお嫁にいってしまい、それまで来ていた彼女の実家からの便りも来なくなったという意味なんですね。赤とんぼを見て幼いころの淡い切ない思い出がよみがってきたんですね。納得。