9月30日 営業担当者の雑記

昨日久しぶりで「ともき君」の甲高い声が家の中から聞こえてきました。彼は小学校2年生で少し小太りのとても快活な子です。小さめの愛車で何処にでも出かけ路地で友達とふざけ合いけらけら笑いながら遊んでいます。最近は少し大人びてきたのか話しかけると照れ笑いします。彼はお父さん、おばあちゃん、お姉ちゃんの4人暮らしで、おばあちゃんのことを「お母さん」と呼んでいます。彼が3歳のころ母親は二人の子供を置いて家を出て行きました。母親にどんな理由があったのかはよくわかりません。「ともき君」は連れて行ったようですがすぐに父親が連れ戻したとの事。両親に思い切り可愛がられて育った私には母親が突然自分を棄てていなくなるという状況が想像出来ず彼の事がとても気になります。「みどり児のわれを捨てにし母の行方尋め来てむなしわれすでに老ゆ:中西悟堂」幼いころに父親が夭折、母親にも捨てられた「日本野鳥の会」の創設者中西悟堂の悲痛なうめきです。涼しくなってくるとふっとこんなことが気になります。

9月29日 営業担当者の雑記

あちこちで金木犀が香り始めました。全くいつの間にかですがこの木、香りが強いのですぐに分かってしまいます。会社の駐車場はその場所が不明ですが何処からか匂いが漂ってきます。ご近所には毎年楽しみにしている木があります。今年も順調です。しっかり手入れしているようでもないのにここのは樹高、拡がりが丁度いい塩梅です。駅のそばには3、4mはあろうかという大きな木がありますが流石に夜傍を通ると香りに溺れそうになります。家のは銀木犀ですが結構白い花をつけ始めました。昨晩辺りは風の流れ具合なのでしょうかそれほど強い香りではありませんでした。トイレの消臭用に化学合成された匂いはある香り要素だけが強調されており鼻を刺すので好きにはなれませんが、自然のは強い香りの中にも柔らかさ甘さのバランスがよく遠くからでも近くでも其々の良さがあります。私は遠くから漂ってくる方が好きです。風で散った花も風情があります。いよいよ本格的な秋到来ですね。

9月28日 営業担当者の雑記

昨日は日中忙しく個人用の携帯を見ていなかったので帰宅途中の電車の中でチェックしたところ友達から1本入っていました。21日に少し胸が痛いので自分で車を運転し病院に行ったら「急性心筋梗塞」と診断され即入院緊急手術。カテーテル手術は2時間くらいで終わったが3日間ICUに入り今は一般棟に移ったと言う内容。以前にも同じような症状があったので念の為のチェックの気持ちがまさかの病名。完全に閉塞する前に対応できてラッキーだとは医者の弁。彼は定年退職後年間半年くらい北海道に住んでいる義弟の農業を手伝いながらのんびりとした生活を送っており、先日北海道を襲った台風にも大きな被害が出なかったと喜んでいたのですが何と自分の身に大異変です。容態が落ち着き「北海道の秋が楽しめず残念、農業はカミさんにピンチヒッターになって貰い彼女も実家の秋が楽しめると喜んでいる」などと呑気なことを言っています。自分の体のちょっとした異変に気付いたので大事にならなくて済んだようです。他山の石。

9月27日 営業担当者の雑記

今日の朝刊に「沖縄遺跡から古代ローマ硬貨」という記事が出ています。沖縄県うるま市の勝連城跡(国史跡、12~15世紀)で3~4世紀の古代ローマ帝国のコインとみられる銅貨4点が見つかったという内容です。勝連城が海外交易によって栄えた14~15世紀の地層から発掘されており東アジアを経由して持ち込まれた可能性があるとのこと。14,5世紀というと倭寇が活躍していた時代で海外交易が盛んだったのでしょうがこの銅貨がどんなルートで沖縄に入ってきたのか興味シンシンです。この当時の沖縄は独立国でまだ日本の干渉はそれほど強くなくむしろ東南アジア、中国と内地との貿易中継点としての役割を果たしていたのでしょう。今回の銅貨もそういった交易によって入ってきたものでしょうが往時の船がどんなものだったのか、何が取引されていたのかその対価は何だったのか、人々はこの銅貨を何に使ったのか、文化交流はなどなどこれから更に発掘が進みその謎が明らかになるのが楽しみです。

9月26日 営業担当者の雑記

先週の土曜日会社の帰り電車の中での出来事。津田沼駅で電車を乗り換えて吊革に捕まっていましたら目の前に座っていた妙齢の女性(多分20代中頃位か)が突然立ち上がり「私すぐ降りますのでどうぞ」と席を譲って下さいます。私は「私もまもなく降りますから結構です」とお断りしたのですが以降彼女は再度座りませんでした。私は2,3年前膝を悪くした時杖を使っておりそのころは何度か席を譲られたことがありましたがそれ以降そんなことはなかったので突然のことに驚いてしまいました。帰ってから女房に事の経過を話したら「よほど疲れて見えたんじゃない!」といわれましたがちょっとショックでした。少々髪の毛は白く少なくもなっていますが毎週速足散歩をしているし毎日柔軟体操は欠かしませんので体力はあるほうだと自惚れていましたので。背筋を伸ばし顔にも多少の緊張感を持ち若ぶるのかそれともこの際お言葉に甘え席を譲られるのか それが問題です。

9月23日 営業担当者の雑記

今朝通勤途中の電車の窓から線路わきの崖に彼岸花が咲いているのを見つけました。読んで字のごとく彼岸のころに咲くこの花実に奇妙な形をしています。葉が全くないのにどうやって光合成をしているのでしょうか。5,60cmほどの茎の先に不思議な形をした赤い花を付けています。昨今は白だとか黄色だとかもありますが。もう随分前になりますが嘗て佐賀県嬉野温泉の方面に営業に行った帰り田んぼの脇に彼岸花が咲いていたのを鮮明に覚えています。それまでも多分見たことはあったと思うのですが夕方仕事が終わり宿に向かっている時突然赤い花が現れたのが印象に残っています。昨今は白だとか黄色だとかの花もありますがやはり「赤い」花が木の間に咲いているのはとても風情があります。私のイメージは墓とは繋がらず、少し日陰で密生はしていないが木が生えている下の方に本当に花だけが群生しどちらかというと派手な花です。ぼちぼちあちこちで花の便りが聞こえてきました。

9月21日 営業担当者の雑記

台風16号は昨晩温帯低気圧になったようですが、久しぶりに教科書通りというかよくある鹿児島県枕崎、宮崎、四国、和歌山というコースを通りましたが各地で大変な被害がでているようです。最近は気象台開設以来とか50年ぶりとか雨にしても風にしても非常に大きくなっており困ったものです。先頃の台風は八丈島付近で発生し南西に一旦行き北上しましたがこんなルートは聞いたこともありませんでした。テレビで何故こんなルートを通るのか、何故台風に先駆け離れたところで雨が降るのかそして台風が去った後も雨が降るのはどうしてなど事細かに説明してくれるので何となく天気図を見るとどんな天気になるのか大凡分かるようになりました。お彼岸の中日に合わせたわけでもないでしょうが台風が去ってからめっきり涼しくなり昨日今日は長袖のシャツを着ています。明日の予報もあまりよろしくありませんがさてどうしましょうか、行楽の計画はあるのですが。

9月20日 営業担当者の雑記

昨日は正岡子規の「糸瓜忌」でした。「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」死にいたる7年間を結核で苦しみながらの人生は35年という極短いものでしたがその中で彼が為した文学に関る仕事は芭蕉、蕪村への評価、ホトトギスの創刊、アンソロジストとしてなどなど膨大のものだったようです。また彼と夏目漱石との友情はなんとも羨ましいものです。子規が病中にあるときには敢えて毎日俳句の添削を頼んだりあるいはイギリス留学に立つ際のエピソードなどその友情は終生続きます。子規が亡くなったことをロンドンで聞きその悲しみを子規の弟子である高浜虚子に送った五つの句は彼の心痛がよく伝わってきます。「手向くべき線香もなくて秋の暮」「霧黄なる市に動くや影法師」「筒袖や秋の柩にしたがわず」彼自身が留学に疲れ身心が弱っていたこともあるのでしょうが生涯の友を亡くした悲痛さがよく伝わってくる句ばかりです。

9月16日 営業担当者の雑記

昨日テレビを見ていたら新潟、石川の満月が出ていました。中秋の名月というやつですね。私も即外に出たのですが雲に覆われほんの一瞬見えたかなといった程度でした。テレビのお月さんをみると陰があまりにはっきり映りなんだか風情がないように思えました。「月見する座に美しき顔もなし:芭蕉」芭蕉さんえらく辛辣でして我が家の昨晩は芋はおろかお団子もなければもちろん美しき顔もありませんでした。まあそれでも今晩は中秋の名月だと教えてくれる人がいてまたそれを見に行く人がいてなんだ結局見えないねなどといいながら話題に出来るのはきっといいことなのでしょう。同じ月でも「俤や姥ひとり泣く月の友:芭蕉」となると深沢七郎の楢山節考になってしまい何とも悲しいことになってしまいます。月見る月はこの月の月ではあるのでしょうが毎日空を見上げればお月さんが拝める幸せに感謝です。

9月15日 営業担当者の雑記

今日松戸商工会議所が発行している「ブリッジ」という小冊子を見ていたら市教育委員会所蔵という「板倉鼎」の絵が見開きに紹介されていました。といっても私は彼を全く知らないのですが彼の紹介文の中に松戸市古ヶ崎の水郷地帯がお気に入りの写生場所だったとかよく通った坂川での釣りが縁で奥様と知り合ったとかなどと書かれていました。大正時代の話なのでなるほどとは思いましたが何と地元出身の人に聞くとかれこれ4,5十年前まで古ヶ崎周辺、八柱周辺、東松戸周辺は田圃ばかりだったこと、今の松戸駅西口辺りは少し雨が降るとすぐ水が溜り大変だったこと、更に古ヶ崎の農家には洪水用に小さなボートが用意してあったことなどを聞きました。その昔東京湾は今よりはるか北側まで入り込んでおり松戸も随分貝塚が残っているようなのであり得る話ではありますがそれにして今の様子からは信じられない事でとても驚きました。