12月25日 営業担当者の雑記

クリスマスも終わりお正月まであと1週間。当事務所は28日が仕事納め。新聞屋さんは元旦の配達という大きな仕事がありますが私達は一足先に休みに入ります。最近お餅は自分では搗かないしおせちも出来合いのものを買っているし掃除もまあおざなりで済ましており本当に年末の慌ただしさというのがなくなってきました。年齢もみんな誕生日が来なければ増えませんので御正月が来ても「また一つ年を食いましたね」等というのは死語になりました。虚子は「去年今年貫く棒の如きもの」と詠みましたが一年の区切りというのも随分あいまいになってきました。テレビはもう年末モードに入り特番ばかりですが小さい頃にあったいくつかの「行事」がほとんどなくなった今、年末の実感はありません。家の中のカレンダーを取り換え、窓ガラスを拭き車を洗うといった私の受け持ち仕事を始めるともう少し年末気分になってくるのでしょう。今年一年駄文にお付き合いして頂いた方がいましたらよいお年をお迎え下さいませ。

12月24日 営業担当者の雑記

今日はクリスマスイブ。子供たちが皆成人した今家族そろってのイベントはありません。毎年当日かイブ前に皆で行っていたお食事会も今年は夫婦二人きりで昨日行ってきました。ところで今年家を離れた娘が中学生に成る頃まで毎年フィンランドのサンタ協会から彼女宛にクリスマスカードが届いていました。低学年の時は日本語で少し大きくなると英語で。小さい頃は「サンタさんはどうして私の名前を知っているのかしら」等と言いながらも手紙が来たことを喜んでいましたが大きくなるにつれ黙って受け取っていたように記憶しています。先日妻に本当の所娘はクリスマスカードのことをどう思っていたのだろうかと問うと「知らぬが花よ」と言われました。確かにそうです。何となくあやふやに「そういえば毎年クリスマスカードがフィンランドから来ていたな」位の記憶にとどめておくのが想い出としてはいいのだと思います。娘が結婚して子供が出来たらきっとその子にもフィンランドのサンタ協会からクリスマスカードが届くのでしょう。MERRY CHRISTMAS!

12月22日 営業担当者の雑記

今朝は会社に早く行く必要がありいつもより早起きしたのですが、6時ちょっと前でしょうか新聞を取りに行ったらほとんど明るくなった東の空に一つだけはっきりと見える星がありました。多分明けの明星だと思います。今まで全く気が付きませんでした。結構冷たい空気と白々と明けゆく空。なぜか「長からむ心も知らずくろ髪のみだれて今朝はものをこそ思へ」と何とも色っぽい歌を思いだしました。百人一首で名高い待賢門院堀川の作です。この歌は題詠ではありますがいかにもしっとりとした女性の心を表現していますよね。妹の兵衛と共にいわくつきのそして悲劇の帝祟徳院の母親である待賢門院に仕えたこの時代きっての聡明で歌の上手です。待賢門院のもとには本当に歌が上手な女御が大勢いたようですがなかでもこの姉妹はいい歌を沢山残しています。特に私は西行とこの姉妹の機知にとんだ掛け合いがとても好きです。時代も才能も環境も何もかもが違い過ぎるのを承知で憧れたりしています。前述の歌は三日月あたりが見合うのでしょうが明けの明星もありかも。

12月21日 営業担当者の雑記

昨日いつもの花見川周辺でお散歩をしたのですがここの池は早朝薄氷が張っていました。公園内には水仙もちらほら咲いており天気も良かったのでサイクリスト、ウオーキングの人たちが結構いました。いいペースで歩き川から離れたとあるお宅にアロエの花が咲いているのを見つけました。時期としてはおかしくはないようですが他には見ないのでちょっと驚きました。この花勿論日本原産ではありませんがそれにしても変わった形です。色もオレンジで背が高いので緑の厚い葉と組み合わさるととても派手です。去年伊豆下田に水仙を見に行った時海辺で自生アロエが沢山咲いていたのを思い出しました。寒さの中いかにも南国風の色形のアロエをみるのは少し奇妙な感じではありました。

 

12月18日 営業担当者の雑記

今朝の朝刊に内閣府の検討会が南海トラフ巨大地震で発生する「長周期地震動」で、東京、大阪、名古屋の三大都市圏の超高層ビルがどれくらい横揺れするかを初めて推計した結果を公表したと出ていました。それによると東京23区で最大約3mの揺れが生じ大阪市湾岸部では最大6mに達するとの事。長周期地震動とは1往復するのに約2秒以上かかる周期の長い揺れで遠くまで伝わり東日本大震災では新宿区の超高層ビルが1m以上揺れ、震源から約770kmも離れた大阪府の咲洲庁舎でも約2.7mの揺れを記録した由。都心で大きなビル同士が3mも揺れあったらぶつかる恐れはないのでしょうか。上層階に住んでいる人たちは激しい揺れ、物が飛び交う部屋から逃れる方法は用意されているのでしょうか。我が家ではタンスなどにはつっかい棒をしていますがそれだって天井を突き破ったら役に立ちません。背の高い家具のある部屋には寝るなともいいますが狭い我が家ではそうもいきません。東日本大震災の教訓をまとめて巨大地震対策をきちんと出して欲しいものです。

12月17日 営業担当者の雑記

昨日等々力渓谷は静嘉堂文庫、五島美術館の出直しだと書きましたが、実はその静嘉堂文庫美術館で大変なものに遭ったのです。元々今はやりの琳派「宗達・光琳・抱一をめぐる美の世界」と称し宗達の国宝「源氏物語関屋・澪標図屏風」が修理されて戻ってきたと言うので行ったのですが何と入口に曜変天目が展示されているではありませんか。今年の夏サントリー美術館で藤田美術館所蔵の曜変天目を見てこんなに広く大きく深い焼き物があるのかと驚いたのですが世界に三つあると言われている内のもう一つを偶然見てしまいました。何ともだらしない話ですが本当に偶々なのです。こちらの方は稲葉天目とも言われ春日の局が家光から貰ったものを嫁ぎ先の稲葉家に伝えたものだとか。藤田美術館のものが外側にも斑紋があり華やかなのに対しこちらのは内側だけでそれだけに一層宇宙の暗黒とそこに輝く星という感覚が増します。焼き物のど素人にもその素晴らしさは伝わってきます。こうなったら是非とも大徳寺龍光院にあるという三つ目の曜変天目も拝みたいものです。

 

12月16日 営業担当者の雑記

先週「等々力渓谷」に行ってきました。その前に静嘉堂文庫美術館、五島美術館と車で行ったのですが夕方暗くなってしまい渓谷には行けなかったので仕切り直しということです。駅を降りて2,3分歩くと渓谷入り口となっており階段を下って行くと遊歩道にでます。見上げると真っ赤なゴルフ橋がありますがここが出発点で1kmほどの散歩開始。かなり下りましたので左右は森、眼下には小川という都内とは思えない景色が広がります。赤や黄に色づいた紅葉を見上げながら歩を進めると足元が随分濡れてきます。湧水があちこちにあります。暫くすると左手に滝(といえるか少々疑問ですが)がありそこから等々力不動尊に繋がります。境内からは見事な紅葉が眼下に広がります。お団子を頂いて次は日本庭園。お不動さんと反対側の崖を登って行くと大きな岩とそこに沢山散らばる色づいた葉が見事なコントラストです。ゆっくり歩いても往復30分ほどの距離をぐだぐだしゃべりながら2時間くらいかけて完走です。水の透明度は致し方ありませんがしばし雑踏から離れのんびりできるところです。

12月15日 営業担当者の雑記

今週の日曜日は恒例の年賀状版画作りをしました。もう三十数年に成るでしょうか記憶が定かなら結婚以来毎年版画を彫っているように思います。絵はからきし描けないので人様の図案を拝借して私はもっぱら彫りと刷りだけです。昨今パソコン用の図案は本屋に一杯並んでいますが木版用のものはごく僅かしかありません。その中から干支に絡む出来るだけ可愛いもの(これは女房のリクエスト)、近況を書く余白があること、二色程度のものを選び一気に彫ります。ジャズを聞きながら「いけねェ」とか「やっちゃった」などと独り言をいいながら根を詰めて頑張ります。一通り出来上がると試し刷りをして細部を手直しするのですが酷い時は目を片方削ってしまったりしますがこれはもうどうしようもありませんので刷った後筆で修正などと随分いい加減な仕事です。前職時代は枚数も多く刷るのも一苦労でしたが今は随分減り女房の分と合わせ90枚程で今週土曜日に住所名前の㊞をついて出来上がり。そこから全部手書きで近況等を添えて完成という段取りです。実は結構楽しんでいます。

12月14日 営業担当者の雑記

両国橋のたもと。「年の瀬や水の流れと人の身は」と問うた其角に身を煤竹売りにやつした大高源吾が「明日またるるその宝船」と応じる。翌日其角は俳諧仲間で吉良上野介の隣に居を構える松浦候にそれを伝えたところ事の重大さを悟った候。と聞こえてくる太鼓の音。oh!あれは山鹿流の陣太鼓。さては浅野家の浪士達がとうとう討ち入ったかと助太刀に馳せ参じようとするとそこに大高源吾が仇討の報告にやってくる。「山を抜く刀も折れて松の雪」辞世の句を残し浪士達は主君の墓前に上野介の首級をそなえ切腹する覚悟だと明かす。有名な歌舞伎「松浦の太鼓」の場面ですね。実は私はこの場面を歌舞伎で見たことがありません。ただ亡くなった婆さまがこの時期になると毎度毎度「、、、明日またるるその宝船」とその場面を説明してくれました。きっと役者の名前も教えてくれたのでしょうが幼い私に分かるわけはありません。後年宝井其角が芭蕉の高弟であること。大高源吾は浅野家の浪士であること。そして何より12月14日が討ち入りの日であることを知りました。

12月11日 営業担当者の雑記

野坂昭如逝去85歳。また一人戦争を知っているその悲惨さを腹に持ちながら文学に政治活動に突き抜けた人が亡くなった。戦争を知らない、頭でしかその何たるかを知らない私達の世代からみれば一言一言、一語一語がとても重く本物だった。今さら言うまでもないが「火垂るの墓」はその深い悲しみと怒りの体験を乗り越えようやく言葉に出していえるようになった彼のもしかしたら懺悔の詩かもしれません。今朝の日経に大好きな寂聴さんの追悼文があります。彼女の思いがこもった素敵な内容です。悲しみばかりが、称賛ばかりが亡くなった人へのお悔やみではありません。寂聴さんが、脳梗塞で倒れ療養中の野坂昭如と対談した後編集者が瀬戸内さんをどう思われますかと聞いた時「や、さ、し、い」と答えて下さったと書いています。しかし実は彼こそ、その本質はやさしさだと思います。深い所にある優しさなのだろうと思います。才能があり勇気があり腹が据わり決して媚びたり言い繕ったりすることなくしっかりと人間の本質を見据えたそんな人が亡くなった。