11月9日 営業担当者の雑記

気象庁は今日去年よ16日遅い東京地方の「木枯し1号」を発表しました。木枯らし1号は東京と大坂でしか発表されていずその定義は「西高東低の季節配置になり風速8m以上の北寄りの風が最初に吹いた時」ということのようです。今日は風速15.5mで目出度く(?)この条件をクリアしたのですね。このところの関東地方は朝晩随分冷え込んで来ましたし特に風が冷たくなってきました。私は寒いのも暑いのもあまり苦にならなかったのですがそれでも年のせいなのでしょうかもう薄手のコートを着て出勤しています。やはり今年のように短くても秋がきて冬が来てお正月になるという日本の季節の移り変わりとそれに伴った自然界の動きは日本人であることを実感します。「海に出て木枯らし帰るところなし:山口誓子」吹きさらしが私達を通り過ぎずっと果てまで行ってしまいその後どうなるのでしょうか、世界中随分きな臭い風が吹き荒れていますがこの動きは一体どちらに向かっているのでしょうか。

11月8日 営業担当者の雑記

今日新聞折り込みの受注したお客さんと松戸駅前ロ-ターリーで待ち合わせてチラシと代金等を頂いたのですが、この場所は以前一旦停止違反(私は停めたつもりだったので警察官ともめた)で捕まった所で、待ち合わせ場所としては好きではありませんがお客様の指定だったのでそうしました。ところが約束の時間になってもいらっしゃいません。電話をすると近所にいるのだが駐車場がないのでしばらく待ってくれとのこと。初めての御客様なので目印に読売のジャンバーを着て車の横に立ち待ちましたら漸くおみえになりました。最終確認と代金、チラシを受け取ったのですがこの方オーケストラの指揮者。きっとまだ名前が売れていないオーケストラなのでしょう本当にまだ学生さんみたいに若い指揮者自ら呼び込用のチラシを持ってこられたのでした。どんなお客様でもお客様は同じだと言いながらこういった人達には何とかチラシの効果が出て聴衆を集められるといいなと肩入れをしてしまいます。

11月7日 営業担当者の雑記

このところ朝晩の気温が随分さがってきました。今年は夏の気候がいつまでも続きどうなることかと思っていましたら今度は一足飛びに冬模様です。秋が短く山々も紅葉の時期をいつにするのか迷っているのではないでしょうか。昨日塩原渓谷に行ったのですが本格的な紅葉シーズンはもう少し先のようです。そうはいっても地元松戸では新京成の常盤平駅から子和清水に至る1kmほどの通称けやき通りが大分色づいてきました。夕方この道を車で通ったのですが車道の両側に植わっている5mを超すほどに大きくなったけやきが枝を道の両側から伸ばし頭上で重なっています。その葉に夕日が当たると山紅葉ほど派手ではありませんが薄い緑からオレンジ色までのグラジュエーションそして木漏れ日は何ともいえずしっとりしています。写真等でこれでもかというほど赤いもみじが宣伝されますが私はこういう薄ぼったい色も結構好きです。

11月4日 営業担当者の雑記

昨日「第18回秋の江戸川カッパ市」が開催されました。前日夜から早朝までの雨で江戸川の河原が濡れ足元が大変かなと思いながら会場準備に出かけたら何と空はど快晴、下も気にするほどではなく、時間が経つにつれ秋の日差しが照りつけ絶好のイベント日和になりました。メイン会場では素人の三線、街角のギタリスト、本格的なギター演奏、そろいのコスチュームできれいな女性達のハワイアンダンス、おじさんダンサーズ、キッズダンス、アラフォーアイドルと盛りだくさん。会場には竹製の大きなブランコ、Eボートの試乗そして幸せの国ブータン出身者のお国料理、新潟魚沼からのおコメ料理、フリーマーケットさらにさらに河原を登ったサイクリング道路には「痛車」の展示ともうどこもかしこもお祭りだらけ。こういった催しにありがちな官制臭は一切なくすべてがボランティアの人達による運営。確かに18回ともなると慣れているのかもしれないがよどみない進行、飽きさせない趣向、何とも気持ちのいいイベントでした。

11月2日 営業担当者の雑記

夏の終わりにいつまでも薄汚れた紫陽花が咲いているのも侘しいものですがこの時期に残っているコスモスも寂しく感じます。会社に通う道の空き地に何本かのコスモスがまだ咲いています。今朝などは冬物の服装でカーディガンまで着こんで出勤したのですがこんな気候の中で寒風に揺れている姿はやはりこの花にはそぐわないように思います。「コスモスなどやさしく吹けばしねないよ:鈴木しづ子」という句があります。この句私は甚だ勝手な解釈でコスモスがあんなにやさしく揺れているのを見ると死ぬこと等できない、折れてしまいそうなほど大きく揺らぎながらそれでも立っている姿に自分の境遇を重ね合わせ、辛さ切なさが一層募る、でもやはり負けてなんかいられないそと自分に言い聞かせているのだと感じています。きっと随分辛い時期の句だろうなと思いました。今朝のコスモスを見た時にすぐこの句が思い浮かんできたのです。この時期のコスモスは好きではありません。

11月1日 営業担当者の雑記

さて11月。今朝は雨。会社に着くまでに靴がすっかり濡れてしまい暫く新聞紙を丸めて入れ乾かしました。天気予報通り昼からは晴れ。真っ青な空に筋雲が浮かぶ秋晴れ。そんな中に小鳥が4,50羽でしょうか一斉に輪を書くように飛んでいます。鳥の名前も生態も全く知らないわたしですがもしかしたらムクドリ。よく駅前の木に鈴なりになり糞害、騒音を引き起こすあれかも。ところであの鳥たちはなんであんな飛び方をするのでしょう?前列と後列のものが互いにぶつからないように付かず離れずそして全体的にはかなり大きな円を描きながら上へ下へと飛んでいます。おりて餌をついばむでもなくただただ飛んでいるように見えます。遊んでいるのでしょうかそれとも何か意味のある行動なのでしょうか?まさか一羽のボスがいて「俺に付いてこい」などという訳でもないでしょうがなんだか気になります。

10月31日 営業担当者の雑記

先日日経朝刊「現代ことば考」という小欄に言語学者の井上史雄氏が西日本、方言の発達と題し記していました。私にはとても面白い内容でした。古語で使い分けていた助動詞が近世以降色んな動詞をつけて、伝わりやすく発達させ、細かい使いわけをしたがその変化・発達の仕方に東西差が生じたというのです。特に西日本では時間に関する表現がきめ細かくなる傾向があり例えば「花が散りよる」と「花が散っとる」は英語の進形と過完了形の違いに似ているとする。私達夫婦はどちらも福岡県出身で上記の表現は日常的に使っていますが関東の人には違和感があるのでしょうね。あるいは別な例「今現実にあっていること」を「ありよる」なども至極普通の用法です。主題とは少しそれた例でおもしろおかしくいわれているのが「取っとと?」「スースーす」などです。前者は「取っているの?」後者は「体が冷えてしまった」という意味です。私達の子供は全くの千葉っこですが友達からどこの出身かと聞かれるそうです。いつの間にか見に付いてしまったのですね。

10月27日 営業担当者の雑記

今朝朝刊を取りに行ったら水仙が十数本芽を出しているのに気が付きました。10月末。いつもこんな時期だったかな少し早い気がするのだが。それにしてもこの花毎年芽は出してくれるのですが花芽がなかなかついてくれません。今年はそれでも少し花を付けたので来年も期待しています。季節が巡ればそれに伴って自然界は移って行きます。毎年毎年。この移り変わりに付いては古来多くの文人が様々な言い方をしています。「年年歳歳花相似」の詩はどうも人間の限られた命、年を取っていくというどうにもならない節理を嘆いたもののようですが和歌にもこんなのがあります。「いのちある木草のあはれ季来れば追はるるごとくつぎて花もつ:大岡博氏」人間は自然界の移ろいに法則を超えた何かを感じ取ります。あるいは芽を付け開く花に自分を重ね合わせます。一木一草に精一杯の命を見ます。そして季節の流れに気が付くことに生きている証を見ることがあります。

10月27日 営業担当者の雑記

昨日東日本大震災で宮城県石巻市立大川小の生徒らが津波に巻きこまれ多大な被害者を出し被害者の父母らが学校側の責任を問うていた裁判で、学校側に注意義務違反があったことを認める判決があった。学校側は津波は予見できなかったと反論していたが判決は裏山に逃げることが出来たのに不適当な避難場所に向けて移動したのは過失があるという内容。市の広報車が高台への避難を呼びかけていたり児童、教員の中にも裏山に逃げようと進言した人もいたが退けられ70人を超す生徒10人の教職員が亡くなり助かったのは4人の生徒と一人の先生だけだった。防災行政無線が大津波警報の発令を伝えてから津波が襲来するまで40分程あったのにその間適切な指示がなされなかったこと。裏山まで走れば1、2分で着き津波から逃れらる高さにまで数分で行けたことなど遺族は悔やんでも悔やみきれないことだろう。切羽詰まった時にどこまで冷静な判断が出来るか難しい所もあるがやはり日頃からの訓練が大事だったと今更ながら感じます。

10月26日 営業担当者の雑記

今日営業で市川行徳の方に行く機会があったので、先日テレビでチョコレートがおいしいと評判だというケーキ屋さんが通り道にあるのを思い出し帰りに覗いてみました。中は4人掛けのテーブルが三つほどと持ち帰りのケーキが収まった陳列棚です。でショーウインドーを見るとチョコレートの上に「見本」と書いてあり、今注文すると11月1日以降お渡しできますと書いています。店員さんに「今日の分はないのですか?」と聞いたところ「先日のテレビ放映以降お客さんが増えちゃって生産が間に合わないのよごめんなさいね」とのこと。ネット社会といえどまだまだテレビの力は健在なのですね。ずっと以前テレビで取り上げられた商品がスーパーで品切れになると言った話がよくありしまいにはどんな商品が出るのか予め情報を取り仕入れを増やしたといったこともあったようですが。結局次いつこちら方面にこられるか分からないので注文は止めましたがなんだか余計に食べたくなりました。