8月24日 オオカミの知恵

先週の土曜日日経夕刊の「あすへの話題」に山下洋輔が執筆した内容をご紹介します。大抵の動物は強い子孫を残すためにメスを争ってオス同士が戦う。オオカミの例では戦っているうちにどちらかが「負けた」と分かるらしい。すると負けた方は地面に横たわって自分の喉首を相手に差し出す。勿論そこを狙われたら終わりなのだがそうはならず、そのポーズをとられた途端に勝った方はそれ以上の攻撃をせず勝利のオシッコの儀式などをしているうちに負けた方は退散するのだという。別な場所で新たな可能性を追求できるわけだ。動物行動学者の日高敏隆さんによるとこういった行動様式はほとんどの動物に刷り込まれており遺伝的にそのような仕組みが備わっているようだという。同じ種族同士で殺し合いをすれば当然種の保存が出来なくなるからなのだろう。翻って人間はというと。極限の武器を手にした人間は今滅亡の淵に立っている。オオカミさん助けてくれと結ぶ。

8月21日 モーリシャスの重油流出事故

モーリシャスで貨物船「わかしお」が座礁し大量の重油を流出させてからほどなく一か月が立ちます。インド洋の西に浮かぶモーリシャスは英ブライトン大学のコリーナ・チョカン博士曰く「これだけ豊かな生物多様性のある海はもうほとんど地球上に残っていない」という国でヨーロッパからの観光客が沢山長期滞在する楽園として有名です。原因はまだ究明中ですがこの被害がどれほどのものになるのか空恐ろしく思います。1989年エクソン社のタンカーがアラスカ プリンス・ウィリアム湾で起こした石油流出事故は湾内に生息する海鳥、魚、海洋哺乳類に多大な被害を与え北米2,400kmに及ぶ海岸を汚染し結局3年の歳月と25億ドルの金を費やし何とか終息しました。当時べったりと油がついた海鳥や海洋生物の死骸、分厚く溜まった重油の報道を見るにつけその被害の甚大さに胸が痛くなった記憶があります。今回も希少な動植物にどれだけの被害が出るのやら。

8月20日 8月のカレンダー

私の机の前は壁ですがそこに某飲料会社作成のカレンダーが貼ってあります。自社の美術館でコレクションしている作品群の中から毎年異なったテーマで12か月を飾っているのですが今年は浮世絵、屏風など富士山を描いたものです。8月は歌川広重の「東海道五十三次<隷書版>のうち原」です。「原宿」は日本橋から13番目沼津と吉原の間の宿。東海道の中でも、最も近くで富士山を眺望できた場所だとか。富士山が作品の中央、縦6割、横7割くらいを占め頂上は画面に入り切れていません。近距離から見上げるとこうなるのでしょうか何とも大胆な構図です。ごく手前には馬に乗った米粒大の旅人が3人、そこから正面の富士山迄田んぼ、山が続きます。53次の中で10枚近く富士山が描かれていますがいづれも広重のアイデア一杯の構図です。富士山の大きさだったり雄大な形だったり季節ごとにその表現は一つとして同じものはなく独創的なものばかりです。

8月19日 平和の句

日経夕刊に作家の川上弘美氏が戦時の俳句を取り上げていたので私もいくつかご紹介します。「戦争が廊下の奥に立ってゐた:渡辺白泉」これは昭和14年の作。心ある人たちはそして冷静に世の動きを見ていた人は見通していたのですね。「いっせいに柱の燃ゆる都かな:三橋敏夫」昭和20年3月20日の東京大空襲。この夜だけで死者は10万人、罹災者は100万人を超すという。アメリカ軍の綿密な殺人計画が大成功した瞬間だった。木と紙でできた家々をいかに効率的に燃やすかという実験を重ねて遂行された作戦はものの見事に大東京を焼き尽くした。「おそるべき君等の乳房夏来る:西東三鬼」昭和21年の作。すっからかんになった東京にようやく生活の動きが出始め戦争で多くの男達が亡くなった今、これからの世の中を立ち上げるのは私達だ!とでもいうようにそしてそれまでおしゃれをすることもままならなかった女性達が誇らかに歩いている。平和の喜び。

 

8月18日 NO ART,NO LIFE

昨晩表題のテレビ番組がありました。友人の娘婿がプロデュースしているので見てくれとのことでした。このプロデューサーはフリーのようですが時々「イタリアの小さな村」といった番組も作っているなかなか骨のある方のようです。今回は知的障害者の方々が描く絵を紹介しておりそれら独創的な作品は世界中で非常に注目されているとのことです。とても考えさせられました。人間は何のために「絵」を描くのだろうか。もちろん描きたいから描くのだろうがたいていの画家には自分を認められたいとか評価されたいとかといった気持ちもあるのだろうと思います。そして売れればもっといいという気持ちも。ただ今回彼らの作品群を見ているとそんなこととは無関係に本当に何のけれんもなく、ひたすら何かを描かずにはいられない気落ちが溢れています。まるで健常者が言葉を発するように絵で発信しているのです。自分の感性のままに本能的に色で形で何のてらいもなく。

8月17日 盆明け

あっという間の盆休みが終わりました。息子の会社では8月は1日だけの出勤で基本テレワークとか言っていました。大きなお世話ですが、うっとおしいのが毎日家にいると奥さんとけんかするのではないかと心配になります。相変わらず暑さは続き浜松では歴代最高気温タイの41度超えだとか。考えただけで卒倒しそうな高さです。そんな中毎年梅雨頃から秋口まで北海道で義弟の農業を手伝っている友人から便りがありました。何とも結構な身分なのですが調べてみると今日の旭川は29度。イメージよりは少し高いのですがそれでも冷房を使うかどうかくらいですね。うらやましい。ついでにもう結構大きくなっているトウモロコシ畑と渓流釣りの釣果とかいってイワナ(多分)が30匹ほど写真に納まっていました。実際には暑い最中の農作業でしょうからそんなに楽な商売ではないのでしょう。秋口に戻ってきたら土産話を聞きながら一緒にゴルフをしようと思っています。

 

8月12日 お盆

私の会社は明日から16日まで盆休みです。先日妻とバカ話をしているとき実は私の母も彼女の母親も長崎に原爆が落ちた時二人とも北九州小倉の兵器工廠で働いていたことがわかりました。義母は博多の出身ですから何かの縁で働くことになったのでしょう。天気が良ければ長崎ではなく予定通り小倉に原爆は投下されており私も妻もこの世には存在していませんでした。私の父親は落下傘部隊で名をはせたインドネシアのパレンバンで終戦を迎え数年の捕虜生活を経て日本に戻ったと聞きました。彼は戦争体験をあまり子供には話しませんでした。その父親も今は鬼籍に入っています。盂蘭盆会の由来はお釈迦さんの弟子目連の「親孝行」が起源だと聞きます。戦後の大変だった時期ひたすら子供の成長だけを生きがいにしてきた両親に対し感謝の気持ちも表さず親孝行もしなかった私としてはせめて盆中だけでも彼らのことを思い出しそして併せ8月15日を迎えようと思います。

 

 

 

8月11日 夏本番

一昨日いつものサイクリングで午前中に稲毛浜まで行ってきました。行は海風で少々きつかったのですが快適でした。ここはいつも海のレジャー満載ですがシーズンの割には人手は多くありませんでした。やはりコロナの影響で混雑を避けたのでしょうか。それでも夏休みのせいでしょうかヨットが沢山出て練習していました。真近で見ると二人乗りの小さい艇で風で帆がパンパンに膨らんでおり波に浮き沈みしながら進んでいきます。人は海に落ちるほど艇の外に身体を突っ張りながら操船しています。沖のヨットもきっと大忙しで船を操っているのでしょうが岸から見るといかにも悠然と自然と戯れているように見えます。かつて住んでいた福岡でも博多湾に浮かぶ能古島付近で沢山のヨットが練習していたのを思い出しました。青い空、白い雲、海と灼熱の太陽と白い帆のヨット。何とも見事な千両役者の豪華そろい踏みといったところでしょうか。気分はすっかり「若大将」です。

8月7日 セミのお土産

昨日の夕食時女房から報告がありました。「洗濯物を取り込もうとしたら物干竿にアブラゼミが止まっていたので追い払おうと思ったが、飛び立つ時にお土産を洗濯物に引っ掛けられると困るのでそのままにしておいた」とのこと。正解ですね。それでなくとも水だけではなかなか落ちない鳥の白い落し物が時折車につぃていますのでさらに身に着けるものにセミのお土産は結構です。ついでに私は「セミは長い間地中におりようやくこの時期に出てきて繁殖を済ませたら間もなくその短い生涯を閉じるのだから束の間の自由を好きにさせてあげて下さい」と申し添えました。というわけでようやくセミの鳴き声も聞こえ始め夏らしくなってきました。ところでセミもやはり県外への外出は控えごく近場で用を足しているのでしょうか。彼女(彼氏)もご近所で調達ということなんでしょうかね。人間の場合は半径数メートルで知り合った人を伴侶にするケースが一番多いようですが。

8月6日 ノーモア ヒロシマ

75年前の今日8時15分人類が経験したことのない惨劇がもたらされました。私は原爆ドームを見たこともないし被爆者の方と話したこともありませんが、それがどんなに酷いものであったかは知っています。幸いにしてその後も生を全うされた方々が自分の言葉で書きしゃべってくれているからです。一瞬にして人間の尊厳を失わせるそしてその後も精神的肉体的に追いかけてくる恐怖と闘いながら生きてきた被害者の方々にただただ畏敬の念しかありません。長崎では資料館に行きそこにまだ漂っているであろう無念の魂が発する無言の叫びに耳がおかしくなった真夏の日を思い出しました。人間はどこまで残酷になれるのか。「戦争とはそんなものだ」と戦場に立っていた父は言いました。私は「よくそんなことが言えるな殺し合いをしてきた男が」と反発しました訳もわからず。広島も長崎も民間人です。戦争の末期になって何故!とも思いました。なぜ「REMEMBER」でなく「ノーモア」とも思いました。しかし原爆は人類の永遠の問題であればやはり「ノーモアヒロシマ」でいいのかもしれません。