昭和から平成へ【66】
中学卒業とともに終わった暴力の風
昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(66)
昭和の森博物館 理事
根本圭助
(前号より)
今でもあの時のことを思い出すと、全身鳥肌がたつ思いがする。私は蛇が大の苦手だった。学校では悪童の一人としてあばれていたが、下校して夜にかけて私は2年生の時の担任渡辺先生―「辺さん」の所へ通って、真面目に受験勉強をしていた。そんな二面性の生活態度をクラスの悪童一派は苦々しく思っていたようで、放課後私を待ち伏せして、私は山の中へ引きずりこまれた。
4人がかりで押さえこまれ、鼻を押さえられて苦しいので口を開けざるを得ないところへ、一人が青大将の鎌首をつかんで私の口へ押し込もうとした。
火事場の何とか力という言葉があるが、私は無我夢中で4人をはね飛ばし、投げ出されてあった自分の鞄に飛びついた。
鞄の底には、国民学校(小学校)の頃から護身用として持ちつづけたドスが忍ばせてあった。実はこの刃物は疎開してすぐに、父の実家の納屋で見つけたものだった。
埃(ほこり)だらけの短刀だったが、中は割に切れそうな刃が出て来た。私は鎌を研ぐ砥石をひそかに持ち出して、丁寧にその刃を研いだ。暴力に明け暮れた国民学校時代、護身用として常に鞄の底に入れて持ち歩いていた。何度か取り出さざるを得ない場面に遭遇することはあったが、幸いにして取り出したことはなかった。
しかし、この護身用のドスが鞄の中に入っていることが、どれだけ心強かったかしれない。そしてこの私刑(りんち)の時は遂にこの刃物を取り出さざるを得なくなり、私はドスを抜いてこの4人と近くで眺めていたボスを含め、5人に立ち向かった。
5人は私の思いがけぬ逆襲に驚いて青大将も放り投げたまま逃げ出した。
その夜、辺さんのところから帰った頃、昼間の私刑の首謀者であるクラスのボスが私を迎えに来た。何しろ6畳一間きりのアパートなので、カーテンの隙間から家中が見渡せられてしまう。居留守は使えなかった。
私は初めてボスの自宅へ連れて行かれた。
大柄で凶暴な面もあったボスのY君が、実は一人っ子で両親に溺愛されていて、大変な甘えっ子であったことに驚かされた。別棟の風呂場に案内され、湯上りに飲んだこともないサイダーを振舞われた。
妙なことになり、それ以来彼は何かと私に頼るようになった。クラスの男生徒を横に一列に並べ、一人ずつに煙草を喫わせる。煙草を口にしない生徒は、その場で袋叩きにした。
私は殴る側にまわされたが、これは殴られるよりつらかった。授業中にクラスの代表者ということで名指しで呼びに来られた。
いつも迎えに来るメッセンジャーボーイは一度私が殴り倒したことのある奴だったので、私には逆らって来なかった。授業中こっそり抜け出して、彼の案内に従いながらあちこち目印になる木や草を見つけ、その場所にポケットにある物を隠して出向いた。
林の中には町で見かけるチンピラ連中が数人集っていて服装検査をされる。私はそれを見越して隠して行ったので、いつも被害から逃れることが出来た。
友人のM君の家にはポータブル蓄音機があった。私達は授業中に抜け出して林の中で夢中になってレコードを聴いた。昭和24年―岡晴夫の全盛時で、封切られた映画の主題歌「男の涙」とB面の「涙の小花」をレコード盤がすりきれるほどかけて聴きほれた。
秋の修学旅行は各駅停車の夜行列車で、京都、奈良の関西旅行だった。食事の回数分一食につき米一合持参の旅だった。
京都での夜は騒いでいる友人達と別行動して、親しい友と、たしか公園劇場といったか、デビューしたばかりの京まち子の実演を見に出かけた。京まち子のダイナミックなブギの踊りを今もはっきり覚えている。
この旅行中にもいろいろな出来事があったが、学校の話が長くなったので、割愛させていただく。
昭和24年、まだまだ戦後の生活からは抜けきらないきびしい毎日が続いていた。
それでも8月にロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会で古橋廣之進が1500m自由形予選で18分19秒0の世界新記録を出し、「フジヤマのトビウオ」と騒がれ、10月にはフランク・オドール監督ひきいる「サンフランシスコ=シールズ」が来日し、大リーグにつぐ3Aのチームだったが、戦後初の本場アメリカ野球チームの来日とあって、各試合は超満員の人気を呼んだ。
神宮球場での試合は、当時としては珍しいナイターということもあり、6万人の大観衆を集めたという。
因みに対全日本軍戦3試合、巨人軍とは3試合対戦したが、シールズの全勝。全日本軍が1点差の接戦を2回演じて終わっている。
11月3日、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞。自信を失っていた敗戦後の日本人に大きな希望を与えた。
そうした中で私達も卒業式を迎える日が近づいて来た。式が終わったら、校長はじめ、数人の先生をターゲットにし、ひと騒ぎするという一団が居た。
卒業式の前夜、私の家へも当時のPTA会長と副会長が訪れて、何とか騒ぎが起きないように協力してほしいと言って来た。「立つ鳥跡を濁さず―だよ根本君」。PTA会長の最後の言葉が今もはっきり耳に残っている。
校舎は一棟きりなので、正面玄関を入った所に演壇が設けられ、生徒は廊下に左右一列に並ばされた。私の所からは演壇が見えないので、「来賓祝辞」という声だけが聞こえて来た。式はそそくさと終わり、先生方は職員室にこもって誰も出て来なかった。
表で暴れる心算で騒いでいた生徒の一群も待ちくたびれて一人帰り、二人帰り、結果として卒業式は何事もなく無事に終わった。
時節柄、卒業アルバムは制作されなかった。
私はその後近くの東葛高校へ進学する訳だが、ここでも卒業アルバムは制作されていない。とにかく当時の写真はクラス毎に写した写真が一枚ずつあるだけである。
中学2年の「辺さん」を中心の写真。3年の時の担任は増田英吉先生で、流山市の中学校長を最後に定年を迎えた。実は光風会所属の画家でもあり、この先生の前では私は頭が上がらなかった。その後私の会等へもよく出席してくれて「私のクラスのキュウチョウさん」と言って出席者を笑わせた。
写真に写った顔を見ると、皆「よそ行きの顔」で、あんなに吹き荒れた暴力の風はどこへ行ったのかと不思議に思われる。
最後尾向かって左端が黒沢明君(その下が私)、のちに「ラヴユー東京」を大ヒットさせたロス・プリモスのリーダーだったあの黒沢明君である。
「ラヴユー東京」の大ヒットの直後、病で倒れた不運の友である。松戸市の矢切近くにお住まいだった筈だが、しばらく消息を聞かない。何年か前八柱駅近くで奥さんと出会い、立ち話をした事があった。おとなしい真面目な友で、ロス・プリモス結成の前は、よく私の家へ近所で親しかった(のちの)ドリフターズの高木ブーちゃんとよく二人で終電の後お茶を飲みに寄ってくれた。
長々と軍国少年時代からのことを書き綴って来たが、思い出すとよく五体そろってあの時代を歩きぬいて来たものと思う。
護身用として鞄に忍ばせていたドスはその後どうしたことだろう。吹き荒れた暴力の風も高校生になった頃はぴたりと吹き止んでいた。中学時代あまりにもいじめられて、近くの高校へ進むのを恐れて、都内の高校へ進んだ友が数人居る。
それにしても恐ろしい時代をタフに生きぬいてきたものとしみじみ戦後の日々を思い出している。紙一重で事件になるような事を何回も経験して来た。
中学を卒業した春休みに父が思い出深い柏中の近くに建てかけの一軒家を求めて私達一家はその未完成の家へ移ることになった。昭和25年、桜の蕾もそろそろふくらみはじめた頃だった。 (つづく)