松戸の地名の由来⑥
地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるだろうか。
馬橋(まばし)
長津川にかかる「馬橋」という橋が地名の由来。昔はこの橋を多くの旅人が往来したが、大雨の度に流された。そこで、鎌倉時代に萬満寺の前身の大日寺を開基した忍性(良観上人)が馬の鞍(くら)の形をした橋を架けたところ、流されることがなくなったという。以後、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになったと伝えられている。
松飛台(まつひだい)
昭和14年正月、逓信省航空局所管の松戸飛行場中央航空機乗員養成所起工式が挙行された。県下の中学校、青年学校、警防団の生徒・団員が動員され、勤労奉仕により、翌年6月に、総面積132万3000平方メートル、東西・南北それぞれ1・2キロメートルのL字形滑走路を持つ飛行場が完成した。
この松戸飛行場の設置の目的は民間パイロットの養成だったが、所長が陸軍少将であるなど要職は軍人が占め、時局がら、いざという時には軍事基地に代わるという性格を持っていた。実際に戦時下では帝都防空を担う陸軍の飛行場となっていた。
戦後は当時東洋一を誇った格納庫など中枢施設を保安隊松戸駐屯部隊(現在の自衛隊)が使用し、そのほかは旧軍関係者などの開墾地となった。
昭和36年、37年ごろには工業団地が造成され、旧松戸飛行場の名称を残して松飛台工業団地と呼ばれるようになった。
三ヶ月(みこぜ)
鎌倉時代の終わりに馬橋の萬満寺の前身となる大日寺を千葉介頼胤という豪族が建立したという。頼胤の居城は小金城といい、三ヶ月にあった(戦国時代の高城氏の小金城とは違う城である)。頼胤は佐賀県と鹿児島県にも所領があり、蒙古襲来に備えて九州に赴任していたが、文永の役(1274年)が起こり、負傷して所領地の肥前国小城郡(小城町の晴気城とも)で没した。
この時から九州千葉氏が生まれ、所領地には三日月という土地があり、「千葉城」という城跡がある。
松戸の三ヶ月(三日月)は千葉家の家紋の月星からきているのではないか、との説もある。
矢切(やきり)
南北朝時代以降のことを記した本土寺大過去帳に「ヤキレ」と何か所か出てくるので、戦国時代の国府台合戦で安房の里見軍の矢が切れた(なくなった)から、という地名の由来は怪しい。矢切が上、中、下の3つの村になったのは江戸時代から。元禄8年(1695)の検地帳には、「下矢喰村」とあるので、「やきれ」と呼称しない時期もあったらしい。今は開発でよくわからなくなったが、かつては三矢切台地中央の県道西側に沿って、北から南へ約800メートルにわたって一直線に走る大きな谷があった。この「谷切れ」が地名になったのではないかという。
土地の人は「やきれ」「やきり」とにごらない呼び方をしていたが、昭和に流行った歌謡曲のせいで、最近は「やぎり」とにごって呼ぶ人も多い。
六高台(ろっこうだい)
昭和47年、六実高柳土地区画整理組合が新しい地名を公募。186通の応募があり、「六高台」と命名された。
主水新田(もんとしんでん)
新田開発者の名前によるという。
横須賀(よこすか)
北西から南東へ長い砂州上に集落が発達していることによる。
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※参考文献=「あきら」(グループ モモ企画、足利谷久子編集)、「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「ふるさと常盤平」(常盤平団地自治会編集、常盤平団地30周年記念事業実行委員会発行)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「二十世紀が丘区画整理誌」(都市部開発課編集・松戸市発行)、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「わがまち新生への歩み」(松戸市六実高柳土地区画整理組合)