巳年に蛇ゆかりの寺社へ

池田弁財天

 市庁舎の裏、教育委員会が入っている京葉ガスビルの隣にひっそりとある池田弁財天。昔は、一面の田んぼで、水が出ると池のようになったので、池田という地名があるという。
 鳥居を入ると左側に馬頭観世音の小さな祠がある。入口から50もの鳥居がトンネルのように連なり、信仰の篤さをうかがわせる。俗説かもしれないが、鳥居のトンネルは女性の産道をあらわしていると聞いたことがある。弁天は女性神でもある。吉祥寺で鳥居の奉納を受け付けている。
 中に入ると、池とお堂がある。お堂には線香とロウソクが供えてあり、これをいただいて火をともす。「おん そらそば てい えいそわか」という言葉をとなえつつ祈願する。
 境内には、蛇の置物がたくさん奉納されている。首のないものもある。願かけに首を取って持ち帰り、願いがかなうと新しい置物を奉納する習わしがあったのだという。
 お堂の周辺にも小さな祠が3か所あり、蛇の像が祀られている。
 平潟遊郭があった時代には、巳(み)の日に遊女がそろって参拝し、下の病気にならないように、お客がよく来るように祈願したという。ちなみに、平潟神社(水神社)とその隣の来迎寺も遊女たちの信仰を集めていた。
 弁財天(弁才天)は、もともと仏教の守護神「天」の一つで、七福神の紅一点として親しまれている。しかし、日本に伝わってからは、神道や民間信仰と習合し、神社として祀られることも多い。したがって、七福神の一つとして市内の寺院に弁天堂がある場合もあるし、神社の境内に祀られたり、弁天社として独立して存在している場合もある。
 弁財天は、水神と結びつきがあり、境内に池がある場合が多い。音が同じため「財」とも「才」とも書き、財宝神、芸能の神様としても信仰されている。
 弁天様は女性の神様で、アベックでお参りすると焼き餅を焼いて、あまり良いことはないとされている。

池田弁財天のお堂

池田弁財天の鳥居

池田弁財天に祀られている蛇の置物

池田弁財天境内にある祠

 

小僧弁天

 古ヶ崎五差路の近く、坂川と新松戸へ向かう市道に挟まれた細長い敷地に小僧弁天がある。小僧弁天の石碑は2021年8月に齋藤崇成さんという方が奉納したもので、「義真弁財天 小僧弁天」と刻まれている。以前はここが小僧弁天であることを示すものは、入り口にあるバス停の名前ぐらいしかなかった。
 坂川を挟んで小僧弁天の反対側には、2007年に閉鎖された古ヶ崎浄水場がある。
 「松戸の歴史案内」(松下邦夫)によると、享保のころ、萬満寺住職12代安禅和尚の時、谷口村の豪農、篠田家の二男が弟子入りした。義真坊というその小僧は利発で、和尚には可愛がられたが、大変ないたずら者で憎まれっ子だった。
 13歳の時にいたずらが過ぎて、銭一貫文を与えられて寺を追い出された。寺男2人が、日頃の恨みを晴らすのはこの時と、義真を捕らえて米俵に詰め、長津下の添堀に投げ込んでしまった。義真は「この恨みは必ず子孫にたたってみせるぞ」と叫んで死んだ。
 死体は古ヶ崎村に流れ着き、享保16年(1731)6月20日、円勝寺住職によってねんごろに葬られた。
 その後、古ヶ崎の用水堀には白蛇が現れるようになった。
 ある夜、村人の枕元に立って「われは萬満寺の小僧義真の化身ぞ。弁天にまつり、供養せよ」と告げたので、坂川のほとりに小さな祠を建ててまつり、小僧弁天と呼んだ。寺男たちは7日間熱病に苦しみもだえ死に、子どもたちにも災難が続いたという。
 また一説によると、10歳で得度した義真は2年間に経文数百巻を書き写したが、過度の勉学修行に身を壊し、寺を出て投身自殺した。死体は翌日古ヶ崎に流れ着き、村人によって葬られ、傍らに1本の松が植えられた。村人の浄財で、ここに祠が建てられた。
 義真の霊は白蛇となって折々姿を現した。これを見た人にはよい事があり、子を失った母が祠に詣でると、夢に愛児が出るとも言われた。
 昭和9年(1934)萬満寺境内にも池が掘られ、弁天の祠が建てられた。
 今も残る小僧弁天は小さなお堂の中にさらに小さな祠が収められている。

小僧弁天の石碑

小僧弁天境内

小僧弁天の前を流れる坂川

 

萬満寺和尚と大蛇

     

 萬満寺には、子どもの病気が治るとして始まった「仁王の股くぐり」や、「和尚と大蛇(おろち)」の伝説も伝わる。動物も人間と同じように大切にした和尚は、寺の裏の池に住む大蛇もかわいがっていた。ところが、食いしん坊の大蛇は寺に来た人を飲み込もうとした。それを見た和尚はカンカンに怒って、大蛇を江戸川に追っ払った。大蛇は和尚が恋しくて、いつも馬橋の方を見ていた。その後、江戸川の渡し船では馬橋の人が乗ると船が進まなくなった。馬橋の人が手ぬぐいなどを投げると、大蛇がうれしそうにくわえ、水にもぐり、再び船が進むようになったという。

萬満寺の弁天の祠

七面神社 黄門さまの大蛇退治

 小金原の七面神社には「水戸黄門の大蛇(おろち)退治」の伝説が伝わる。
 重要文化財・戸定邸は明治時代になってから最後の水戸藩主・徳川昭武が建て、移り住んだものだが、水戸徳川家と松戸とのかかわりは、江戸時代初期にまでさかのぼる。
 寛永年間か正保年間ごろ、幕府から小金領二百か村を与えられた水戸徳川家は、これを鷹場とし、西新田(現在の小金原二、三丁目)にお鷹場役所を設けた。このお鷹場役所には「黄門さま」こと徳川光圀も度々訪れ、鷹狩りを行ったという。
 そのためか、市内にはいくつかの黄門伝説が残されている。水戸と江戸を結ぶ主要道路・水戸街道が松戸市内を通っていることも、大いに関係したと思われる。光圀は寛文元年(1661)、31歳の時に水戸藩主となり、元禄3年(1690)10月14日に職を辞し、翌日に権中納言(黄門)に任じられた。
 「水戸黄門の大蛇(おろち)退治」の伝説は以下のようなお話。
 黄門さまは魚釣りが好きで、暇があればお供を連れて、いけす(池、沼)へ出かけていたという。あるとき、根木内の三反くらい(約30アール)の古いいけすに、釣り糸を垂らしていた。しかし、半時(1時間)たってもピクリともこない。そこに、どこからかヤマカガシ(水辺に生息する小さい毒蛇)が寄ってきて、指をピロピロとなめた。お供の侍が「天下の黄門さまに対し、ふとどきな」とヤマカガシの首を切り落とし、いけすに投げ込んでしまった。その途端、みるみるうちに、いけすの底から沸き立った泥が天まで吹き上がる。ヤマカガシはいけすの主の子で、「おのれ黄門、よくもせがれの命を奪ったな。このままでは済まぬぞ」と、いけすの主の声が聞こえた。
 その夜、黄門さま一行は、いけすの主の復讐を警戒して、ろうそくを煌々(こうこう)とともしていた。丑三つ時(午前2時~2時半)に泊まっていた宿がギシギシと揺れだし、目覚めた黄門さまが天井を見ると、いけすの主の大蛇が火を吹きながら迫ってきた。

小金原の七面神社

七面神社の御神体。中に本土寺の日栄上人の書が入っている

 なんと、大蛇は七つのおもて(顔)を持ち、七つの口から火を吹くので侍たちも苦戦。そこで、黄門さまの機転で生の木に火をつけ、いぶりたてると大蛇はふらふらになったので、大きい瓶(かめ)に閉じ込めてしまった。
 「子どもを切られたいけすの主はかわいそう」と思ったのか、黄門さまはそのいけすの真ん中にお宮を建て、瓶を祀ることにした。七つのおもての主ということから、そこは七面様と呼ばれるようになった。
 このような伝説を持つ七面神社には、黄門さまゆかりの品が伝わっている。神社の入り口には石碑があり、碑文によれば、この社のご神体は光圀の自作で、もともとは平賀本土寺に祀られていたものだという。中には同寺の日栄上人の書が入っている。台座部分に蛇が巻きつき、「七面大明神」の文字がある。境内の弁天様の末社に祀られる像も光圀と関係深いといわれる。
 以前に幣紙で、この七面神社の伝説を取り上げたところ、読者からお電話があり、次のようなお話しがあった。
 大正時代に二ツ木の蘇羽鷹(そばたか)神社の松の木の根元を掘ったところ、骨壺(こつつぼ)が出てきた。骨壺の中には大きな蛇の頭がい骨が入っていた。大きさは、手のひらと手のひらを合わせたほど。頭がい骨は、当時の小金町役場に欲しいという人がいて、あげたという。

二ツ木の蘇羽鷹神社

 ※参考文献=『松戸の歴史案内』(松下邦夫)、『松戸のむかし話』(岡崎柾男)、『神社の見方』(外山晴彦・『サライ』編集部編)。
 『松戸のむかし話』は1985年8月30日に単独舎から発行されたもので、脚本家、演出家の岡崎柾男さんが地元のご老人に話を聞き、絵本(井出文蔵・絵)という形でまとめられている。同書は、なるべく土地の言葉(方言)を生かす形で書かれているが、本文では分かりやすく話の筋だけをまとめた。【戸田 照朗】

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