松戸の散歩道⑥
続・小金城周辺
前回(9月22日発行・901号)に引き続き小金城周辺を歩く。
小金城を築城した高城胤吉は永禄8年(1565)2月12日に亡くなった。胤吉の妻(佐倉城主千葉昌胤の妹)は、髪を下ろし、月庵尼と号して小金城東側の達磨堂の南、鹿島神社の脇に庵を建立してこもった。そして、翌年の3月12日に亡くなった。
跡を継いだ胤辰は庵のあった場所に曹洞宗熊耳山(ゆうじさん)桂林禅寺を建立して母の霊をなぐさめた。
桂林寺が現在の慶林寺となるのは、天正19年(1591)の徳川家康の朱印状から。同寺にある月庵桂林尼の墓石は享保15年(1730)に高城清右衛門清胤が建立した。桂林尼の墓所の近くには綿貫夏右衛門の墓がある。綿貫氏は小金、佐倉両牧の野馬奉行を務めた。
また、同寺には天正12年(1584)の墨書銘(ぼくしょめい)がある太鼓(市指定文化財)がある。太鼓の胴の内側には、「天正十二年甲申四月十一日」等の墨書銘があり、黒漆塗(くろうるしぬ)りの胴には木葉の模様が施されており、張り皮には高城氏の裏家紋である「三つ巴(みつどもえ)」が描かれている。寸法は、直径が21㎝、厚さが13㎝。
慶林寺の前の道(県道280号)を西に向かうと左側に「小金大谷口城跡」の碑がある。昭和37年の発掘調査の後に建てられた碑で、馬橋から二ツ木の辺りに千葉頼胤の居館「小金城」があったと考えられるため、これと区別するために「大谷口」と入れたようだ。
この道はやがて坂を下り、台地下の流鉄流山線の踏切に突き当たる。踏切の手前右手には「いぼ弁天」(平戸弁天)がある。
いぼ弁天には伝説があり、境内にそのいわれを書いた掲示板がある。
小金宿には水戸徳川家の本陣、通称「小金御殿」があったが、これを管理していたのが高城氏の家臣だったとも言われる日暮玄蕃だった。玄蕃は苗字帯刀を許され、大金持ちであった。元禄7年(1694)、玄蕃にはお逢という一人娘がいた。お逢は絶世の美人だったが、目の下に一つの疣(いぼ)があり、悩みの種だった。広く医者にかかったが、治らず、お逢は気に病むあまり病に伏してしまった。心配した母親が小金の天主様(?)に願をかけたところ、「大谷口の大坂の下の弁天様の祠に頼むがいい」という夢のお告げがあった。21日間毎日参拝して、弁天様の湧き水で疣を洗ったところ、疣はだんだん小さくなり、ついにきれいになくなってしまった。玄蕃は大喜びで立派な弁天堂を建ててお礼をしたという。
高城氏は根木内城(根木内歴史公園)の居城から小金城に移ったとされる。大勝院は東漸寺と同じように高城氏の本拠が小金城へ移ったことで、根木内から移転したといわれる。もとは、柏市光が丘、廣池学園敷地の西端付近にあった。日暮の徳蔵院や二ツ木の光明寺など多くの末寺があった。
広徳寺は高城氏の菩提寺。根木内城に移る前、高城氏が松戸市域で最初に城館を構えたとされる栗ヶ沢から、小金城築城後に城の北方へ移転させた。江戸時代に旗本に取り立てられた高城氏は改めて先祖の墓所を同寺に設けた。田嶋刑部少輔時定ら家臣たちの墓もある。江戸時代には栗ヶ沢の萬福寺、小金の慶林寺、幸谷の福昌寺、八ヶ崎の金谷寺など多くの末寺があった。
また、同寺の弁財天には、だいだらぼうという大男の足跡の伝説が残っている。雲の上に顔があり、晴れた日だけ顔が見えるという大男で、足跡に水がボコボコと沸き上がり、干ばつで干上がっていた田んぼを水で満たした。村人たちは、祠を建てて、毎月1日と15日におこわ(赤飯)をお供えしたという。
※参考文献=「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「常設展示図録」(松戸市立博物館)、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)、「松戸市文化財マップ」(松戸市教育委員会)【戸田 照朗】