松戸の散歩道⑤
本土寺と小金城周辺を歩く

 前回(6月23日発行・898号)は、宿場町の風情が残る小金の街を歩いた。今回からは、北小金駅の反対側にある本土寺・小金城周辺を歩く。【戸田 照朗】

「あじさい寺」として有名な本土寺

本土寺周辺
 JR北小金駅北口を出て商店街の中の道を進むと、やがて本土寺の参道となる。駅の反対側(南口)には「本土寺道」の道標があるので、鉄道のないころは旧水戸街道から参道が延びていたのだろう。
 本土寺は「あじさい寺」として有名だが、紫陽花と同時期に咲く菖蒲もきれいだ。春の桜、秋の紅葉も美しい。紫陽花は5万本以上、菖蒲は5000本、桜は枝垂れ桜、ソメイヨシノ、八重桜など合わせて約100本が咲き誇り、紅葉は「山もみじ」「大盃」「秋山紅」と呼ばれる3種類のもみじ約1500本が色づく。
 長谷山(ちょうこくさん)本土寺は、建治3年(1277)豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の高弟日朗(にちろう)を導師として招き、開堂したのが起こりとされている。
 平賀六郷といわれ6つの村があった平賀は、中世には千葉氏一族の畠山祐昭が支配しており、平賀忠晴は弟ではなかったかといわれている。建治3年は忠晴が亡くなった年で、平賀村狩野(神野とも)にあった本土寺の前身となる草庵を忠晴の屋敷内に移した。一族は熱心な日蓮宗の信者で、忠晴の子孫からは日像、日輪などの高僧が出ている。
 開堂供養には日蓮上人の出席を願ったが、都合悪く実現できなかったため、弟子の日朗が導師を務めた。本土寺は下総国における日蓮宗の中心寺院の一つで、同じく日朗の開創した鎌倉長興山妙本寺、池上長栄山本門寺と共に「朗門の三長三本」と称された屈指の名刹だ。
 日蓮直筆の書状「大学三郎御書」、「諸人御返事」、県内で2番目に古い建治4年(1278年)の刻銘がある梵鐘が国の重要文化財に、日蓮直筆の書状「冨城殿御返事」、本土寺過去帳(天正本)附本土寺過去帳(明暦本)、銅透彫華籠(仏具の一種)が県の文化財に指定されている。特に本土寺過去帳(天正本)附本土寺過去帳(明暦本)は、中世(室町時代から戦国時代)の東葛地域の情勢を知るうえで貴重な史料となっている。
 本土寺自体が市の史跡として指定されているほか、「高城・原氏等判物」、「秋山夫人の墓所」も市の指定文化財だ。判物とは、室町時代から江戸時代にかけ、上位の者から下位の者へ発せられた命令書や許可書のうち、差出人の花押(かおう=サインのようなもの)のある書状形式のものをいう。
 「秋山夫人の墓所」は「順路」に沿って歩くと、本堂を過ぎて少し行くとある。
 秋山夫人は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、名を「お都摩(つま)」といった。武田家が滅んだ後、15歳で徳川家康の側室となり、後に小金3万石の領主となる信吉(のぶよし)を産んだ。
 お都摩の方は、天正19年(1591)に24歳の若さで病没し、本土寺の参道脇に葬られた。
 家康は新羅三郎義光以来37代続いた甲斐源氏の名門・武田氏が滅亡したことを惜しみ、お都摩の子・信吉(家康の5男)に武田を名乗らせて小金領を与えた。お都摩の死後、文禄元年(1592)に信吉は佐倉4万石に移封、さらに慶長7年(1602)に水戸15万石に移封されたが、翌年の9月に病死した。
 その後、水戸には信吉の弟で家康11男の頼房が入った。水戸黄門こと徳川光圀は頼房の3男である。後年、信吉の甥にあたる光圀は鷹狩りのため松戸地方を度々訪れていたが、その際にお都摩の墓といわれる「日上(にちじょう)の松」を発見した。日上はお都摩の法名で、墓石はなく、目印としての松の老木が生えているだけだった。光圀は遺骨を探させたが見つからず、墓土を新桶に納め手厚く供養し、本土寺の本堂脇に立派な墓石を建てた。「日上の松」のあった参道脇の私有地に、小さな碑がある(旧秋山都摩墓跡)。また本土寺には、お都摩の父・秋山虎康も葬られている。
 光圀はこの時、450メートルに及ぶ本土寺の参道を整備し、松杉の植樹を行ったという。松下邦夫氏の「松戸の歴史案内」には「今日僅かに残る古松、古杉の大樹はその時の名残の木です」とある。しかし、昭和30年代に参道が寺から市へ寄付され、舗装整備されてからは車両の交通が増え、老樹の立ち枯れが始まったという。同書は昭和44年(1969)に初版が出版された本であり、現在ではどの程度残っているのだろうか。
 本堂の前の石の階段の右横には松尾芭蕉の句碑がある。文化元年(1804)10月に建てられた。「御命講や油のやうな酒五升」と刻まれた句の下に、「翁」と大きく刻まれている。翁とは芭蕉のこと。その下には今日庵門人として、小金原の藤風庵可長、松朧庵深翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世の仙松斎一鄒と建立者の名前が刻まれている。今日庵は芭蕉の親友で俳人の山口素堂の茶道の庵号で、素堂は葛飾派という俳諧集団の祖とされる。建立した5人は今日庵二世の森田元夢の門人だった。句は貞享5年(1688)の『泊船集』の中の一句で、御命講(ごめいこう)とは日蓮上人の忌日のこと。
 北小金駅の東側線路沿いには東雷神社があるが、次のような伝説が伝わる。
 その昔、小金原が放牧場だったころ、雷が鳴って、東の方角から白馬に乗った白装束の若武者が現れ、森の木の上にとどまって輝いた。白糸縅(おどし)の鎧(よろい)が、若武者を美しく、恐ろしく空に輝かせ、その場にいた村人の瞳を射るようであったという。気が付くと、若武者の姿は消えて、ただ森のこずえがキラキラと輝いていた。
 村人は若武者を稲を実らせる稲妻様の化身だと信じ、この森の中に東雷神社を建てて、稲作の神として祀り、白い動物を飼ったり、食べたりいたしませんと、誓い合った。東平賀の村では、長い間、鶏でさえも白い動物であるとの理由で飼ったり食べたりしないといういましめが伝えられていたという。

本土寺参道

水戸光圀改葬以前の秋山夫人の墓跡に建てられた石碑

本土寺境内にある秋山夫人の墓所

本土寺境内にある松尾芭蕉の句碑

伝説が残る東雷神社

小金城周辺
 本土寺参道の西側一帯の台地上には、小金城と呼ばれる戦国時代最大級の城があった。東西800メートル、南北600メートルに及ぶ広大な城だった。昭和37年(1962)に前出の松下邦夫氏のもとに本城、中城、番場(いずれも小字)の9万平方メートルを造成したいと業者から連絡があり、市教委が発掘調査をした。45年(1970)に、「大谷口 松戸市大谷口小金城跡発掘調査報告書」にまとめられた。
 松下氏が書いた「松戸の歴史案内」によると、高城胤吉が家臣の阿彦丹後入道浄意に縄張り(設計工事)をさせたという。工事は享録3年(1530)に始まって天文6年(1537)9月に完成した。
 最初に小金城を本拠にしたのは、足利義明の攻撃で小弓城(千葉市)を追われた原氏(高城氏と同じく千葉氏一族といわれる)ではなかったかと思われる。天文7年(1538)の相模台合戦の勝利で、原氏が小弓城に戻り、高城氏が晴れて小金城主となった。
 北小金駅北口にある慶林寺付近に大手口、北東に達磨(だるま)口、北側に金杉口、西側に横須賀口、南側に大谷口があった。達磨口向かいの殿平賀台地に家老などの重臣たちを住まわせ、横須賀口西側城外にそのほかの家臣たちが住んでいたという。
 城の主要施設は南西部にあり、本城(主郭)、中城(第二郭)、外番場(第三郭)、馬屋敷などがあった。調査では、本城内から4棟の掘立柱建物を発見している。この周辺の空堀は深さ20メートル、幅30メートルもある大きなものだった。
 現在は金杉口付近のほんの一部が大谷口歴史公園として保存されている。平成9年4月に開園した当初は、「畝堀(うねぼり)」「障子堀」などの形状がよくわかったが、現在は風化により形がわからなくなってしまった。また、達磨口も篤志家の寄付により一部が残されている。達磨口には昼間は架け渡し、夜間は回転させる木橋が造られていたといわれる。
 小金城は、人々から「開花城」とも呼ばれたという。竣工祝いには佐倉城の千葉介昌胤が来城した。小金城主高城胤吉の妻(後の桂林尼)は、千葉介昌胤の妹だった。昌胤は本城内の賓館で9月28日までの一週間を過ごした。その間、昌胤は胤吉の案内で、野馬の放牧地・小金牧を訪問。平家物語に出てくる頼朝の家臣・佐々木四郎高綱(たかつな)が乗馬した名馬・生月(いけずき)、同じく梶原景季(かげすえ)が乗馬した名馬・摺墨(するすみ)を呼び寄せたという伝説がある柏市の呼塚(よばづか)、頼朝の鞍懸(くらかけ)の松の伝説が残る流山市の諏訪神社を巡り、10頭(別説では3頭)の馬を捕まえて小金城に帰った。また、茶会で遊んだ日もあったという。高城氏にとってはつかの間の繁栄と平和なひと時だったのだろう。

小金城の畝堀(開園当時)

小金城の障子堀

小金城の虎口門

小金城の達磨口

 ※参考文献=「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)、「まつど文学散歩」(総集編・第7集)(宮田正宏・編)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「常設展示図録」(松戸市立博物館)、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)、「松戸市文化財マップ」(松戸市教育委員会)

 

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