わたしのページ(読者投稿)
2024年8月25日

子どもや孫たちの役にたちたい
 私には子どもが3人、それぞれ2人の子ども達を持ち、孫が6人います。長男の子どもは大学生2人。長女の子どもは2人とも小学校高学年。そして次男の子どもは3歳半と1歳とバラエティに富んだ年齢です。
 私が子どもを最初に授かった半世紀も前は、小企業に勤めていたので結婚退社、出産退社は当たり前の事と何の疑問も持たずに退職。少しして金銭的に苦しく、また勤めに出ましたが出産と同時に退職し、その後は10年間専業主婦として過ごしました。下の子が小学校に上がってからはパート社員、中学に上がってからは正社員として定年まで勤めました。
 その頃は自分の年金とか生きがいとかには頭が回らず、ただ子ども達のお稽古代や学費の足しにとの思いばかりでした。
 そして今、子ども達の時代になり、働き方は選べる様になりつつあります。長男のお嫁さんはパート社員として、長女は子どもが小学校に上がったのを機に正社員として、また次男の連れ合いは3年余りの育休を終えて職場に戻りました。が、いつの時代でも母親が職場復帰するには周りの協力が必要だと痛感させられる出来事がありました。
 保育園では大分前から慣らし保育をしてもらい、いざ明日から出社という前日に下の子が発熱。急きょ、おばあちゃんの出番となりましたが普段慣れない二人の孫の世話は半日がやっとでした。父親も半休をとって見てくれましたが、次の日は2日目にして母親が休みを取りました。次の月も保育園で熱を出したので迎えに行って欲しいと連絡が入り、電車を乗り継ぎ40分かかってやっと着き、無事引き取れました。
 また、最近は保育園で流行っていた手足口病というのに家族全員で罹ってしまい、家に一週間缶詰めだったとか。
 小さい内は何時、何があるかわかりません。せいぜい自分の体力を蓄え、子どもや孫達の役にたちたいと後期高齢者直前の私が考えている事です。
 (根本・さほばーば 74)

社会問題になっているカスハラ
 わたしは分からないことは、人に聞くようにしている。なので、商品やサービスについて問い合わせの電話をすることがよくあるのだが、正直、対応してくれる人に当たり外れがある。
 親切丁寧かつ分かりやすい回答をくれる人、分かりにくい説明をする人、少し無愛想だなと感じる人。感じが良くなくてもちゃんと正しい答えをくれるのならまだよいのだが、そういった人は、間違ったことを言うことが多いと感じる。
 前にインターネットの月額料金を無料期間なのに間違って引かれていたことがあって、電話して説明したのだが、頭ごなしに否定され、電話が切れた。こっちも引き下がることができないので後日電話して、この間とは違う人に同じ説明をしたら、じっくりと話を聞いた上で、確認してミスを認め謝罪してくれた。
 昨今、カスハラ(カスタマーハラスメント)が社会問題になっている。カスハラとは顧客、消費者が企業や店などの従業員への理不尽な要求や暴言を吐くなどの嫌がらせなど、迷惑な行為を指す言葉である。
 全国のおよそ8割の自治体で、職員へカスハラの被害が確認されたと聞いたが、対応した職員にはなんの問題もなかったのだろうか。明らかに失礼な対応をされたら、苦情を伝えたつもりが、つい感情的になり、カスハラ扱いされてしまうこともあるのではないか。わたしも昔、市役所で受けた対応に辟易した記憶がある。
 この間、いつも行くスーパーで、いつも買っている商品が見当たらなくて店員さんに聞いたら、素敵な笑顔で一生懸命探してくれて、見つかった時は二人で喜び、おかげでとても楽しい買い物ができた。ここでは、きっとカスハラ被害なんて起きない気がする。(向日葵)

新京成線から京成松戸線に
 2025年(令和7年)4月、新京成線は「京成松戸線」と名前が変わる。
 1946年(昭和21年)10月23日、下総鉄道として誕生した新京成線。かつては、軍の演習用として引かれた鉄道であった。ヘビのようにくねくねとした路線である。
 私は1953年(昭和28年)頃、家族と共に松戸市稔台の地に移住してきた。小学校は、北部小学校。低学年の時はバス通学。高学年になって電車通学になった。まだ油の匂いのする床だった気がする。エアコンなどはなかった。冬休みは、母の実家の群馬の松井田へ行くのが恒例だった。お年玉を楽しみに、家族と一緒にみのり台駅より乗車。上野からは、煙を吐く汽車であった。
 そして、就職。父と二人で乗車。桜の花咲く車窓を、期待と不安を抱きつつ、房総の安房勝山へ向かった。3年で東京へ転勤。窓からの風を頼りに夏を痛勤。そして、結婚の申し込みのため、みのり台駅より乗車。不安しかなく、車内で挨拶の言葉などを練習した。そして退職の日を迎え、花束を持ってみのり台駅に帰ってきた時の感慨。人生と共に新京成線があった。
 来年(2025年)から、新京成線が生まれ変わる。単線の時代から複線へ、駅舎も素敵になり、名前も京成松戸線へ。新しい時代が始まる。
 私も生まれ変わり、次はどのような人生が始まるのか。とても楽しみである。(稔台・雑草愚人 67)

健康を享受してきた人生に異変
 私は今、厚生年金を国からいただき、生活に支障なく生きていられることに、朝な夕な感謝の念を捧げている。
 そんな私に今年異変が起きた。3月と5月に突然、意識不明の昏倒をして、道に倒れ、頭蓋骨を打ってしまった。どちらも外出先で周囲の人達に多大な迷惑をかけてしまった。「意識はある…」と耳元で救急隊員が話す声で目覚め、地面に大の字になっている自分に驚き、羞恥心を覚え、立ち上がる。その間、十数分と思われた。
 救急車に誘導され検査、認知テストなどを受け、異常なし。病院搬送を強く勧められたが断り、その後ピアノのレッスンの予定だったので楽譜を提示して納得してもらい、関門通過とあいなった。
 原因は何だったのだろう。思い当たるのは降圧剤、判で押したような日常生活のはずだ。
 7時30分起床、血圧測定。洗面後、自己流ストレッチ体操(ハードな30分)。その後、キッチンで数時間、朝食・夕食の準備(1日2食主義)。肉や魚、野菜と格闘する。午後は自室で読売新聞を読破? 疲れて時々、斜め読み。数時間後、寝落ちとなり、心地よい仮眠の世界へ。17時、夫の仏壇に一礼し、17時30分に録画予約してあるテレビを楽しみながら手作りの肴と一献を嗜む至福のとき。20時ピアノを弾く。初心者だが、苦しみと楽しみと脳トレの効果を期待しつつ…。21時入浴、23時就寝となる。
 病院嫌い、薬嫌い。服薬は降圧剤のみで、サプリ、栄養ドリンク、はたまた4年来のコロナワクチンなどとも無縁。手術経験なし、両手両足ピンピンで痛いところ無し。食欲モリモリで歯は丈夫。五臓六腑は毎日快調。
 まもなく傘寿を迎えるわたしの飽くなき「生」への願望はとどまるところ知らず。
 今まで、健康を享受してきた人生を覆された想いである。
 (仲井町 A・T 79)

寅さんは心の中生き続けている
 8月4日はフーテンの寅さんこと渥美清さんが亡くなって28回目の命日でした。
 代表作の「男はつらいよ」シリーズ全50作は、欠かさずに映画館に観に行った。顔で笑って心で泣いてというか、男は心だという寅さんが、しぐさを含めて好きだった。「信じることの大切さ」「いつも平常心でいること」を教えてくれた。
 当時、神奈川県鎌倉市の松竹大船撮影所で営まれた「お別れの会」に参列し、3万人のファンとともに旅立ちを見送ったことが、つい昨日のことのように思い出される。
 「男はつらいよ」シリーズが公開されて、55年の歳月が流れた。年に数回は「矢切の渡し」に乗船して、対岸の寅さんのふるさと葛飾柴又を訪れる。渥美さんは「風天」の俳号で俳句を詠まれた。〈赤とんぼ じっとしたまま 明日どうする〉は私の好きな一句だ。
 長女は日本人らしく優しく、寅さんの妹の名にもちなんで「さくら」と名付けた。うちのさくらは知名に近い年を重ねた。
 寅さんは、いつも私の心の中に生き続けている。
 (中矢切・矢切の寅さん 73)

アスリート達の重みのある名言
 パリオリンピックは17日間(7月26日~8月11日)、フランスのパリで行われました。アスリート達は、日々のトレーニングを通じて身体と精神を磨きあげ、そして大舞台で最大限の表現をしました。結果、金・銀・銅・入賞の受賞を果たし、重みのある名言を多く残しました。
 その中でも私は、2大会連続メダルのフェンシングの加納虹輝選手(男子エベ団体)の一言が琴線に触れました。
 それは「量より質と言うけれど、量も必要だ!」でした。また、バトミントン混合ワタガシペアは銅メダルを受賞しました。
 2選手ともに福島出身で、東日本大震災の当時を振り返り「競技を続けられるありがたみを、中学1・2年生なりに感じました」と話しました。
 我が松戸市出身のレスリング50キロの須﨑優衣選手は「痛恨のパリの銅メタルを、4年後・8年後の金メタルに繋げたい」と述べました。
 私は彼らの声を我が若き青春時代と重ね合わせながら、あれこれを思い浮かべ、楽しい17日間を過ごしました。(若さは一番)

古い一戸建てと地域猫ミミ
 私の家は築40年ほどの一戸建てだ。近所には次々と新築が建っている。その周辺を縄張りとしている地域猫が数匹いる。その中の耳の先をカットした印を持つ「ミミ」と呼んでいる猫がいる。
 よく箱の中や棚の上など心地よい場所を見つけて寝ている。寒い日にはひなたの暖かそうなところ、暑い時には日陰の風通しの良さそうなところという具合に。
 梅雨明け前の猛暑日が続いた日、こんな暑い日には室内に寝床などない地域猫達はどうしているのだろう。夏をのりきれるのだろうか、と少し気がかりであった。ちょうどそんな時、ミミがうちの通気口にお腹を向けて寝そべっている姿を見つけた。
 ミミが立ち去った後、そこへ手をかざしてみると冷気が出てくるのである。さすが野生の猫だ。生き延びるための知恵と賢さに感心するのと同時に、夏を乗り越えてくれるだろうと安堵した。
 最近の一戸建てには通気口はないと聞く。古いうちの家の通気口が地域猫の涼をとるのに役立っていたのは何よりである。
 野良猫も古い戸建てもなくなっていく。そんな狭間に、貴重な自然の生命の強さを見せてもらった。(小金きよしヶ丘・シゲ美 52)

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