松戸の散歩道④

 前回(5月26日発行・897号)は、国道6号線から旧小金宿に入り、一月寺跡まで歩いた。今回は宿場町の風情が残る小金の街を歩く。【戸田 照朗】

旧小金宿の面影
 小金宿の歴史は古く、「本土寺過去帳」に見られる表記から推測すると1500年代には「宿(しゅく)」として機能していたことがうかがえる。
 小金宿は本土寺の門前町、あるいは戦国時代になると、大谷口に小金城という、この地域では随一の大きな城が築かれたため、城下町という顔も持っていただろう。
 江戸時代になると、水戸街道の宿場町となる。松戸宿の記録によると、天明4年(1784)に14家、文政5年(1822)には23家の大名が参勤交代で通過したとあるので、小金宿も通過しただろう。徳川御三家の水戸家には参勤交代の義務はなく、藩主は常に江戸に住んでいたが、初代の頼房(よりふさ)と2代の光圀は生涯に11回も帰国している。光圀は鷹狩りが好きで、小金原に鷹狩りのための役所を設けていたため、小金を度々訪れている。他の藩主は生涯に1~2回、多くて4回程度。水戸家の出身で、最後の将軍となった慶喜も子どものころに一度、小金宿に宿泊している。戊辰戦争に敗れ、政権を朝廷に返上した慶喜は慶応4年(1868)にも、謹慎のため水戸に向かう途中で小金宿を通過している。
 宿場には大名など身分の高い人が泊まる本陣や脇本陣があったが、小金宿には本陣のほかに、水戸家専用の旅館があり、「水戸御殿」とも呼ばれていた。小金城主高城氏の家臣だったともいわれる日暮玄蕃が管理していた。
 また、宿場には一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)や木賃宿があった。玉屋(鈴木家住宅)は旧小金宿の旅籠で、その姿を現代に伝えている。2階があるが、参勤交代の際などに行列を見下ろすと非礼になるとの配慮から、街道からは平屋に見えるような作りになっている。2階に上る階段も隠すことができるように、引き戸のような天井板がついている。また、土間や屋根の忍びよけ(泥棒よけ)など、当時の風情を多く残している。玉屋は明治時代まで営業していたという。
 京屋(梅沢家住宅)は古い宿屋で本陣の部屋が足りないときは部屋を貸していた。明治天皇や渋沢栄一も来られたことがあるという。敷地内には、「明治天皇小金御小休所」と刻まれた碑が建っている(※玉屋も京屋も現在は一般住宅で、公開はしていません)。
 小金宿の東側にある妙典寺には、今日庵二世の森田元夢の門人だった松朧庵深翠が建てた芭蕉の句碑があり、「しばらくは花のうへなる月夜かな」という貞享5年(1688)作の句が刻まれている。建立したのは文政8年(1825)。今日庵は芭蕉の親友で俳人の山口素堂の茶道の庵号で、素堂は葛飾派という俳諧流派の祖とされる。松尾芭蕉が松戸を訪れたという記録も、松戸を詠んだ句もないが、この他にも市内にはいくつかの句碑が残されている。

玉屋

妙典寺の芭蕉の句碑

浄土宗佛法山東漸寺
 浄土宗佛法山東漸寺は長野県塩尻市洗馬の武士の家に生まれた経誉愚底運公によって開かれたという。愚底は、寛正年間の初め(1460年ごろ)柏市鷲野谷を訪れた。愚底は村人の協力のもと、この地に東光山安楽院医王寺を開いた。何年か後、薬師如来の霊像が現れて小金に移りたいというので、文明13年(1481)、薬師如来像を背負って根木内に移り、故郷の寺と同じ名前の佛法山一乗院東漸寺を建立した。場所は、根木内の字宮ノ後というところで、現在の根木内歴史公園の南方だった。
 その後、東漸寺は五世行誉元禿吟公の時に、小金の町の中に移転した。高城氏の本拠が根木内城から小金城に移ったことに伴う移転だといわれている。
小金の町は小金城ができる前から、平賀本土寺の門前町として発展してきた。その町中に広い土地を提供させて東漸寺を移転させたのだから、そこには高城氏の意図を感じる。高城氏の制札(禁制などを記した書類)を見ると、時には高城氏の陣所として鎧(よろい)武者が出入りしていたことがうかがわれる。小金移転後は、小金城の出城的役割も担っていたのだろう。
 また、小金移転後、五世行誉元禿吟公に教えを受けた空心諦公が全国各地に寺院を建立したり、六世団誉紫雲の教えを受けた北条家家臣が浅草聖天町に西方寺を建立するなど、浄土宗の布教を活発に行うようになった。
 七世照誉遊嶽了学は、小金城主高城胤吉の三男で、母は大八木氏。天文7年(1538)に武蔵国糀村(現在の千代田区麹町)で生まれ、13歳で東漸寺に入って出家した。後に上総国大多喜に良信寺を建立した。
 了学は、本多忠勝や土井利勝ら徳川家重臣の篤い帰依を受けた。徳川家康も本多氏の勧めで了学を駿府に招いて浄土宗に帰依したという。また、大阪城落城の折に助け出された豊臣秀頼の妻・千姫も帰依した。この徳川家との縁で、豊臣秀吉によって滅ぼされた高城氏の末裔・胤次(後に重胤)は2代将軍秀忠によって元和2年(1616)に700石の旗本として取り立てられた。
 東漸寺は徳川家の擁護の下、江戸時代に大きく発展した。敷地は3万平方mもあり、末寺は30か寺を超えた。関東十八檀林(学問所)の一つに数えられ、境内に結頭、結衆、学頭、真教、辯超、学典、祐玄、専住の8つの学寮を整備し、300人を超える学徒が修行した。
 東漸寺本堂前にある樹齢300年以上とも言われるしだれ桜は市の天然記念物に指定されている。樹高は約9m、根元の幹周りは6・57m。DNA解析の結果、エドヒガンザクラ系同士の雑種であることが確認されている。本来エドヒガンザクラの挿木は難しいことから、このしだれ桜は実生(みしょう)苗(種から発芽して育った苗)から育てられたものと考えられている。花時は3月下旬ごろ。
 旧水戸街道は北小金駅の入口の交差点で右に折れる。この交差点に「右 水戸道中」「右水戸海道」の道標と「本土寺道」の道標がある。鉄道がなかったころは、ここから本土寺の参道が始まっていたのだろう。また、ここには昭和48年まで八坂神社があった。八坂神社は西側のJR常磐線の線路沿いに移転している。

東漸寺

「右 水戸道中」「右 水戸海道」道標

「本土寺道」道標

 ※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会・「歴史読本こがね」編集委員会)、「まつど文学散歩」(宮田正宏)、「松戸市文化財マップ」(松戸市教育委員会)

あわせて読みたい