松戸の散歩道③
歴史の街、馬橋を歩く

 前回(3月24日発行・895号)は、馬橋の街を歩き、萬満寺まで来た。今回は馬橋の街から蘇羽鷹神社へ向かい、関さんの森、旧小金宿を歩く。【戸田 照朗】

江戸見坂と文化3年の道標
 萬満寺の門のところで道は直角に折れる。ここから、だらだら坂が続くが、この坂を「江戸見坂」という。昔はこの坂から江戸が見えたのだろう。江戸から来た旅人はここから江戸の空を望み別れを告げ、水戸方面から来た旅人は、やっと見えた江戸の空に思いを馳せたのだろう。
 坂の途中、右側には「子育て地蔵」や「馬橋弁財天」がある。
 坂を登り切ると、国道6号線に合流する。道の反対側には、「左水戸街道」「右印西道」という道標が建っている。「文化3年」の銘がある。
 この台地下には公園の端に「北竜房湧水」という湧水がある。
 国道6号線を小金方面に少し歩くと、右手に一里塚の跡がある。江戸幕府が街道を整備する時に1里(約4km)ごとに塚を作り、エノキなどを植えた。旅人の目印になるほか、夏は木陰を作った。

文化3年の水戸街道道標

江戸見坂

一里塚跡

馬橋城の鬼門にあった蘇羽鷹神社
 さらに進むと国道6号線の左側に蘇羽鷹神社がある。この神社は馬橋城の鬼門にあったとされる。馬橋城は文永年間(1264~75年)、千葉頼胤により築城されたという。別名・小金城。千葉氏の家紋である三日月がこの地の地名になっている。頼胤は肥前国に所領があったため1274年の文永の役(蒙古襲来)に出陣し、その時の傷がもとで37歳で亡くなった。九州千葉氏の祖である。
 蘇羽鷹神社には、岡椿舎一友という土地の有力者が建てた芭蕉の句碑がある。「月山坂東 湯殿山西国百番供養塔 羽黒山秩父」と刻まれた石碑の左面に「松杉をほめてや風のかほる音 はせお」と刻まれている。「はせお」とは芭蕉のこと。撰集『笈日記(おいにっき)』(1695年)に 収められた一句で、建立は天保11年(1840)4月。
 また、境内には、伝説の松ぼっくりが祀られている。戦国時代、小金城(大谷口)の高城氏には二人のかわいらしいお姫様がいた。高城氏は、豊臣秀吉の関東攻めの際、小田原の北条氏に味方していたため、滅ぼされた。
 一人のお姫様は下谷の芦原の中に逃げたが、差向の底なし沼に入ってしまい、力尽きた。もう一人のお姫様は二ツ木の山の中に逃げたが、大きな松の木の下で力尽きた。
 後の世、下谷の橋のそばでは、お姫様の幽霊が出るようになった。橋のそばに住んでいた綿屋さんがかわいそうに思って、自分の土地に祠を建てて供養すると幽霊も出なくなったという。二ツ木の松の木の下で力尽きたお姫様の松は枯れてしまった。枯れた松の根本に不思議な形をした松ぼっくりができた。それは、お姫様が二人座っているような形をしていた。この松ぼっくりを見つけた名主は、これは小金城のお姫様かもしれないと思い、祠を作った。この祠はその後、蘇羽鷹神社に祀りかえられて、今でも大切に供養されている。
 境内には二ツ木向台遺跡が残されている。縄文時代早期末から前期(約6000年前)の遺跡で台地北斜面に貝塚がある。二ツ木式土器と呼ばれる縄文土器をはじめ石器・骨角器などが出土している。

北竜房湧水

蘇羽鷹神社の祠に祀られている二人のお姫様の松ぼっくり

蘇羽鷹神社の芭蕉の句碑

関さんの森周辺と旧小金宿を歩く

光明寺と福昌寺
 二ツ木の国道6号線「小金消防署入口」の交差点。交差する都市計画道路3・3・7号線を新松戸方面に進めば、台地の上に「関さんの森」がある。
 交差点に向かって左側には台地に上る細い坂道がある。台地の縁に沿って歩くこの道をゆくと光明寺(こうみょうじ)という真言宗豊山派の寺院がある。同寺の阿弥陀如来立像は市指定文化財になっている。光明寺は江戸時代の延宝4年(1676)創立というが、この像は背面に刻まれた銘によって応永23年(1416)、室町時代の作であることが分かっている。青銅製で像高44・5㎝、台座14・5㎝。背面の刻銘には「道性、四十八体願」の文字と信者と思われる人々の法名も刻まれている。「四十八体願」の意味は不明だが、同種の仏像が他にある可能性もあるという。
 この台地はJR武蔵野線によって分断されており、道はやがて線路による切り通し沿いの道となる。線路の左側に福昌寺と福昌寺観音堂、右側に公園と墓地があり、墓地の中に「斬られ地蔵」がある。
 福昌寺には行基作と伝わる十一面観音像が安置されている。行基が東国に下り、船でこの地に来た時に海中に黒く光る木を見つけ、これを拾い上げて観音像を彫ったという。同寺は、天正5年(1577)開山の曹洞宗のお寺。黒観音は秘仏で、12年に1度、午の年の4月18日の大祭に御開帳がある。
 観音堂の「野馬捕りの献額」は市指定文化財。東葛地方には古代から続く「小金牧(こがねまき)」と呼ばれる広大な野馬の放牧場があった。6牧からなる放牧場のうち、松戸市は「中野牧」と呼ばれる放牧場に含まれていた。
 江戸時代、幕府は年1回、野馬捕りを実施して野馬の数や健康状態を確認し、幕府へ納める馬や農民に売り払う使役用の馬を捕獲した。この野馬捕りは庶民にも観覧が許され、当日はそば屋、飴屋、団子屋、甘酒屋等が店を出して賑わったという。この額は明治15年に描かれたもので、その風俗が描写されている。横136㎝、縦96㎝。観音堂が開かれる毎月18日の観音様の縁日に見ることができる。また、市立博物館の常設展示室にレプリカが展示されている。
 「斬られ地蔵」の伝説とは次のようなもの。ある晩、酒に酔った湯浅淳平という武士が妖怪出没のうわさがある同地にさしかかった時、怪しげな物音と人影に切り付けた。翌朝になってみると、お地蔵様の額に刀傷があった。驚いた武士は福昌寺住職に頼み、報恩供養の法要を盛大に行ったという。
 2020年4月には観音堂の境内にある「寛永二年銘庚申塔」が市指定文化財に指定された。経年劣化で碑面の摩滅が激しく、碑文を目で確認することはできないが、江戸時代に多く存在した板碑型(いたびがた)の形状をしており、寛永2年(1625)の紀年銘が刻まれている。現状では千葉県最古で、山王廿一社(さんのうにじゅういっさ=日吉大社に所属する21の神社の総称)信仰と庚申講の関わりを示す初期の例として歴史的資料として価値が高いという。
 境内には安永8年銘の「牛頭天王宮」を祀る石碑がある。牛頭天王は疫病を司る神ともされ、安永8年(1779)に天然痘が流行ったため、病平癒のために地元の酒井亦市という方が建てたものではないかという。もとは、近くの天王坂の上にあった。
 観音堂入口の右手には「四国四十五番」という地域のお遍路の札所を示す石碑と大師堂がある。
 石碑の足元には「左馬橋道」「右小金道」と刻まれている。福昌寺本堂と観音堂の間の道は昔の街道で、「馬橋道」側は現在は台地下に通じる階段となっているが、昔は山道だったという。

阿弥陀如来立像(写真提供=松戸市教育委員会)

福昌寺観音堂

幸谷観音野馬捕りの献額(写真提供=松戸市教育委員会)

斬られ地蔵

牛頭天王宮

四国四十五番札所の石碑

寛永二年銘庚申塔

関さんの森
 2007年から09年にかけて都市計画道路建設か緑の保全かで揺れた「関さんの森」だが、話し合いの結果、直線道路を曲線にして森へのダメージを軽減した新設市道を建設することで決着した。2019年8月には、都市計画が変更され、この市道が正式に都市計画道路となった。同時に旧都市計画道路用地を含む屋敷内の樹林地0・2ヘクタールが、都市緑地法に基づく「特別緑地保全地区」として指定されることも公示され、合わせて1・7ヘクタールが、「特別緑地保全地区」となった。
 特別緑地保全地区制度とは、都市における良好な自然的環境となる緑地において、建築行為など一定の行為の制限などにより現状凍結的に保全する制度。これにより豊かな緑を将来に継承することができる。現行法規では、緑地保全に最も効果のある制度だといわれている。松戸市では長らくこの制度の適用となる地区がなかったが、08年3月に栗山地区の0・8ヘクタールの斜面林が初めて指定された。「関さんの森」は市内では2例目になる。この道路沿いの梅林の中に「関さんの森」のシンボル的な樹木、ケンポナシの大木がある。
 1969年に初版が発行された松下邦夫氏の「松戸の歴史案内」にも「天然記念物級」として紹介されている珍しいケンポナシの大木で、関家が同地に屋敷を建てた江戸時代には既にあり、樹齢も「最低でも200年以上」ということしか分かっていない。幸谷小学校の校章はケンポナシの葉を図案化したもの。3本の主脈を幸谷、二ツ木、三ヶ月の3つの集落になぞらえているという。

ツバキと石碑

樹齢200年以上のケンポナシの大木

 関美智子さんが父の武夫さんから聞いた話によると、馬橋小学校6年生だった妹の睦美さんの担任・末次一男氏が家庭訪問に訪れた時に、このケンポナシに感銘を受け、後に新設された幸谷小学校の初代校長になった際にケンポナシを地域のシンボル的な木として校章に取り入れたという。
 2012年1月15日、都市計画道路3・3・7号線を通すための新設市道建設のために、16m移動して道路用地外に移植された。
 ケンポナシは以前に受けた落雷のため幹が空洞になっており、樹皮で生きている状態。クレーンで引き上げると壊れてしまう可能性があるため、「立曳き(たてびき)」という古来の方法で行われた。
 人力ウインチで曳く作業には、地元の小学生や住民なども参加した。子株となる若木も隣に移植された。移植により枯れてしまうのでは、と心配されたが、移植から12年がたち、親子とも青々とした葉をつけている。
 関家には江戸時代からの門や蔵があり、蔵からは当時の農民の生活を知るうえで貴重な資料なども見つかっている。
 庭には赤城神社、十一面観音、不動明王の石碑があり、その両脇にはツバキが植えられている。正門の近くにある熊野宮には、これも天然記念物級といわれる霧島ツツジがある。
 また、正門にあるソメイヨシノは樹齢100年だという。樹齢の短いソメイヨシノとしては珍しい大木だ。 庭の中には、市民でつくる支援団体、「関さんの森を育む会」や「関さんの森エコミュージアム」のイベントがある日などに入ることができる。また、毎月第3日曜日午前10時から12時まで、ガイド付きで庭を案内してくれる。
 関さん宅の裏山(屋敷林)は常時解放されており、いつでも散策が楽しめる。森の中には「幸谷熊ノ脇湧水」もある。

関さんの森「下の広場」

幸谷熊ノ脇湧水

普化宗一月寺跡
 「関さんの森」から旧小金宿を目指す。幾通りかの行き方があるが、1本はJR常磐線と東漸寺北側の間にある谷に沿った道で、こちらを歩くと、関さんの森を出てすぐ、坂を下り始めたあたりの右手の民家に立派なスダジイの大木が見られる。
 3・3・7号線の松戸市水道部の前の交差点を左に曲がって真っ直ぐ進むと旧小金宿の途中に出るが、今回は国道6号線から北小金駅に向けて旧水戸街道を歩いて旧小金宿を紹介する。
 国道からしばらく歩くと道の左側に普化宗金竜山一月寺跡を示す市が建てた白い標柱がある。同地には同名の寺院が建っているが、後に建てられた別宗派の寺院である。一月寺は虚無僧寺(こむそうでら)だった。普化宗は中国の唐の時代に普化禅師によって起こった。その修行は、鐸(たく=鈴)を振り、街を歩きながら呪文を唱え、行脚するという変わったものだった。この鐸を尺八に変えたのが弟子の張伯。普化宗には経典もなければ仏事も行わない。経文の代わりに尺八を吹く。日本には留学僧の覚心が伝えた。一月寺は覚心が連れ帰った宗人の宝伏と弟子で尺八をよくした金先古山(きんせんこざん)によって、鎌倉時代の正嘉2年(1258)に建立されたという。
 戦国時代の終盤、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めで小金城が落城した折に一月寺も破壊され、小金宿に移ったという。それまでは城内、あるいは城の近くにあったのかもしれない。江戸時代より前の普化宗についてはよくわかっていないが、虚無僧は「暮露(ぼろ)」とか「こも僧」といわれ、尺八を吹き、流浪、門付(かどづ)けをしていたという。門付けとは門口で技芸を行い、金品を受け取ること。百姓、町人、尺八遊芸人などがいたが、江戸時代になると、幕府はこれらの人たちを締め出し、増加する浪人の再士官までの一時的な生活手段として利用した。着流しに袈裟がけ、深編み笠をかぶって尺八を吹くという時代劇でおなじみの虚無僧の姿は江戸時代のものである。しかし、収入は茶筌(ちゃせん=尺八製作の残りの竹で作ったという茶道具)の売上金と托鉢(たくはつ)で得た金ぐらいであったから、生活は苦しかったと思われる。
 江戸時代には本末寺制度で幕府が寺院を支配した。普化宗寺院もこの制度の中に組み込まれ、安永6年(1777)には全国に7派67寺あり、一月寺は金先派の本山で、諸国普化宗門寺院諸派触頭という中心的な位置にあった。末寺が8、孫末寺が7、江戸府内に控番所が複数あった。
 普化宗一月寺は戦後になくなったが、市指定文化財の木造普化禅師立像、木造金先禅師坐像、木造不動明王坐像、虚無僧法器が松戸市立博物館に展示されている。また、開山塔、遺墨墳など一月寺遺石は馬橋の萬満寺境内に移された。

上から虚無僧法器、木造普化禅師立像、木造金先禅師坐像(松戸市立博物館で展示、写真提供=松戸市教育委員会)

※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会・「歴史読本こがね」編集委員会)、「まつど文学散歩」(宮田正宏)、「松戸市文化財マップ」(松戸市教育委員会)

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