松戸の散歩道②
上本郷の七不思議
前号では、池田弁財天や金山神社のある根本を歩き、雷電神社から旧水戸街道を上本郷方面に歩いた。国道6号線の右側の丘の上が上本郷で、この地域に伝わる7つの伝説(上本郷の七不思議)を紹介する(「七不思議」のうち、「ゆるぎの松」と本福寺の「斬られ地蔵」は前号で紹介。残る5つの伝説の紹介から始める)。【戸田 照朗】
富士見の松
本覚寺の南に松の老木があった。この松は上へ枝を伸ばすのではなく、西へ西へと横に枝を伸ばしていた。同寺は高台にあり、今でも空気が澄んだ日には富士山が見える。松が枝を伸ばしている先には富士山が見え、だれ言うことなく、この松を「富士見の松」と呼ぶようになった。
富士見の松があったのは、本覚寺境内の墓地のあたり。50年前頃までは見事な枝ぶりを見せていたが、マツクイムシにやられて枯れてしまった。切り株は数年残っていたが、昭和58年、崖崩れを防止する工事を行った際になくなったという。
二つ井戸
北松戸駅前の上本郷の坂を明治神社の方に登っていくと、道の左側に「七不思議ノ一ツ二ツ井戸趾」と記した石碑が建っている。
ここには2つ並んで井戸があり、一方が澄んでいると一方は必ず濁っていたという。また、理由はわからないが、この辺では二つ井戸があるので、他に井戸を掘ってはいけないと伝えられていたという。戦後の区画整理で二つ井戸は姿を消したという。
風早神社の大杉
むかし、風早神社の境内に周囲3メートルもある大杉があった。その影は長く伸び、二ツ木まで達していた。二ツ木村では、この杉の陰になる田は実りが悪く、巫女にお伺いをたてたところ、風早神社に収穫した米を奉納するように、とのお告げが出た。そこで米を奉納したところ、米がよく採れるようになった。以来、米の奉納は毎年行われるようになったが、ある年奉納を怠ったところ、米の出来が悪くなり、再び奉納を続けるようになったという。
二ツ木ではこの話は少し違った形で伝わっている。大杉の影になった田は「大杉のお蔭」で実りが良く、その米を神社に奉納していた。ある年、奉納をしなかったら、風早神社が大火事に遭ったので、これはいけない、とまた奉納を続けるようになった。
大杉は慶応年間(江戸時代末)に枯れ、明治30年頃までそのまま立っていた。鳥居の左側、水準点のあたりに立っていたらしい。社殿の裏に個人が奉納した標柱があり、杉の若木が植えられている。
八百比丘尼
むかし、風早神社の前の六軒新田(現在の上本郷駅あたり)に住む6人が、長者屋敷の庚申講に呼ばれた。どんな料理が出るのか気になった1人が先に行って屋敷の台所をのぞくと、なんと人魚を料理していることが分かった。6人は相談して、料理には手をつけず、帰りに捨ててしまおうということになった。ところがその中の1人は、耳が遠く肝心なところを理解しておらず、人魚の肉を持ち帰り、娘に食べさせてしまった。
娘はいつまでも年を取らず若いままで、周囲から気味悪がられた。地元に居辛くなった娘は比丘尼(びくに)となって各地を転々とし、若狭の国にたどりついた。後にこの地方を旅した千駄堀の人が800歳になった年老いたこの比丘尼に出会ったという。
官女の化けもの
むかし、雷(いかずち)神社が祀られていたいかずち山に官女の化けものが出て人々を驚かせたという。
官女の化けものは緋(ひ)の袴(平安時代に宮中で女性が下衣として着用した赤い袴。現在でも巫女装束として用いられる)をはいていた。
いかずち山の位置ははっきりしないが、龍善寺の付近だったらしい。この山を所有した人は家運が傾いたと伝えられる。
雷神社と刻んだ石が明治神社に奉納されている。
歴史の街、馬橋を歩く
中根城跡と妙見神社
中根の妙見神社は中根城の跡とも言われている。文永年間(1264~75)、千葉頼胤により築城されたという。
1348年正月、頼胤の孫・貞胤は北朝方について楠木正行と河内で戦い、その暮れに小金城(大谷口の小金城とは別の城)に戻ったところ、城が住めないほど荒廃していた。この城主の痛ましい姿に同情した農夫が傍らの枝を3本折って城主の憩う場所を作ってあげた。貞胤は農夫に助けられて守護神妙見菩薩を背負って千葉の館まで帰り、その跡に建てられたのが中根の妙見神社だという。
妙見神社は中根城内にあった。農夫はこのことから「三枝松」の姓をもらい、千葉妙見社の祭礼の際には開扉は馬橋の三枝松氏が務めるようになり、明治の初めまで続いたという。
北極星、北斗七星を神格化した妙見菩薩を祭神とした妙見信仰は、千葉氏の信仰があつかったほか、法華経と結びついて日蓮宗と関係が深かったことから、妙見神社は千葉県に多い。
馬橋
国道6号線中根立体入口の信号を馬橋側に渡ると馬橋の地名の由来になった小さな橋、「馬橋」がある。昔は長津川にかかるこの橋を多くの旅人が往来したが、大雨のたびに流された。そこで、鎌倉時代に萬満寺の前身の大日寺を開基した忍性(良観上人)が馬の鞍(くら)の形をした橋を架けたところ、流されることがなくなったという。以後、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになったと伝えられている。
小林一茶と大川立砂
東京ベイ信用金庫馬橋支店の前には「栢日庵立砂の居宅跡」という標柱がある。
馬橋で油屋を営んでいた大川立砂は通称を平右衛門、また栢日庵とも号し、葛飾派の俳人であった。
芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代の俳人・小林一茶は、立砂を爺(じじ)と呼んで親しみ、馬橋の立砂の許を足しげく訪れていたという。当時の一茶の経済状態は厳しく、立砂や流山の秋元双樹、布川の馬泉(ばせん)、守谷の西林寺住職鶴老などの同門俳人のところを訪れ、句会などを指導して、その謝礼で暮らしを立てていた。
安永6年(1777)、15歳の一茶は、故郷の信濃を出て江戸で生活を始めるが、「一茶」として頭角を現すまでの10年間は記録がない。そこで、地元では一茶は立砂のところで奉公していたという馬橋居住説が根強いが、確証がない。
立砂が没し、一茶が信濃柏原に定住した後も、立砂の息子・斗囿との親交は続いたという。
大川立砂の墓は萬満寺にあったが、無縁となったため戦前に整理された。しかし、今は元の場所に分家の大川家が先祖代々之墓を建立し、合同供養している。
山下清が住んだ街
馬橋は山下清も住んだことがある街だ。
色鮮やかな色彩の貼り絵から「日本のゴッホ」と呼ばれ、今も多くの人に愛されている放浪の天才画家・山下清。
大正11年に浅草に生まれ、3歳の時に重度の消化不良が原因で高熱を出し、軽い言語障害と知的障害を持つようになった。昭和9年、12歳の時に市川の養護施設「八幡学園」に入園したが、昭和15年に学園を抜け出した。
生涯を通じ、北は北海道、南は鹿児島まで放浪の旅を続けた清が最初に着いた先が馬橋だった。旧水戸街道沿いを一軒一軒雇ってもらえるように頼んで歩き、現在のバス停(馬橋支所跡)の近くにあった「とんやのしんたく」(とんや=研屋=屋号、しんたく=新宅)で雇ってもらうことになった。
20年前に「とんやのしんたく」(大川家)の家人の方に取材しているが、離れで寝起きをしていた清が忽然と姿を消し、警察に捜索を頼み大騒ぎになったというエピソードなどを話している。
清は2、3か月後にひょっこり姿を現した。その間、同じく馬橋にあった加藤商店という魚屋や我孫子の「やよい軒」という弁当屋に身を寄せていたらしい、という。
当時の馬橋での様子は清自身が書いた「裸の大将放浪記」でも垣間見ることができる。同書の中で清は馬橋のことを「馬橋の大通りはにぎやかでもなく さびしくもなく 中位です 大通りからはなれると田や畠が有ります」と書いている。同書を原作にした映画やテレビドラマもよく知られている。
清はものすごい記憶力で旅で出会った印象的な風景を記憶し、八幡学園に帰ってから一気に切り絵を仕上げたという。
萬満寺と王子神社
萬満寺には国の重要文化財に指定されている木造金剛力士立像〈阿(あ)像、吽(うん)像〉2体と市指定文化財の阿弥陀如来坐像、鋳造魚藍観音立像、木造不動明王立像がある。
文化11年(1814)には仁王様2体と不動明王、そのほかの寺宝が現在の墨田区の回向院に運ばれ、江戸出開帳が行われた。江戸出開帳は、江戸市民がわざわざ馬橋まで参詣するかわりに、お寺の方から江戸の寺に出かけ、仏様を公開することで、広く一般にご利益を得てもらう、という行事。大きな仁王様は松戸宿から本所1丁目まで船で運び、ほかは大八車で運んだという。
臨済宗大徳寺派法王山萬満寺の前身となる真言律宗大日寺は鎌倉時代、千葉頼胤によって創建された。頼胤は忍性(にんしょう=良観上人)を招き、源頼朝から代々の将軍と千葉一門の菩提を弔った。忍性は病人や貧者の救済、社会福祉事業に尽くした高僧である。
大日寺は頼胤の孫の貞胤の時に千葉へ移されたが、忍性が自ら作られたという大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩の大日五仏は馬橋に残ったので、その後も小金城にいた貞胤と子の氏胤が足利尊氏の菩提を弔うために臨済宗の禅僧・無窓疎石(むそうそせき)の弟子、古天周誓(こてんしゅうせい)を招いて、中興開山として萬満寺を開基させたという(氏胤の子の満胤の時代との説もある)。
境内には小金にあった普化宗一月寺(虚無僧寺)の享保16年(1731)の開山塔などの遺石がある。
隣接する王子神社は萬満寺の守り神として創立されたが、明治時代の神仏分離政策で独立した。
王子神社の境内にある寛文元年銘道祖神は、市の指定文化財。寛文元年は1661年で石祠(せきし)型としては県内最古のもの。安山岩製、高さ72センチある。
萬満寺の伝説
小僧弁天
享保の頃(1716~35年)に義真坊という6歳の子どもが馬橋の萬満寺に弟子入りした。利発な少年で、和尚に可愛がられたが、いたずら好きで寺男には恨みをかっていた。13歳の時にいたずらが過ぎて寺を追われ、実家への帰路、2人の寺男に捕えられて、米俵につめられて
川に投げ込まれてしまった。義真は「この恨みは必ず子孫にたたってやる」と叫んで死んだ。死体は古ヶ崎村に流れ着き、享保16年(1731)6月20日、円勝寺住職によってねんごろに葬られた。
その後、古ヶ崎の村人の夢枕に義真が立ち、「弁天にまつり供養せよ」と告げたので、坂川のほとりに祠を建てて祀り、「小僧弁天」と呼ばれるようになった。2人の寺男は7日間熱病に苦しんで悶え死に、子孫にも災難が続いたという。
一説には、義真は過度の勉学修業で心身をこわし、川に身を投げた、という。古ヶ崎に流れ着いた死体は村人によって葬られ、傍らに1本の松が植えられた。村人の浄財で建てられた祠が小僧弁天で義真の霊は時折白蛇となってあらわれた。これを見た人には良いことがあり、また子を失った母が祠に詣でると、夢に生前のわが子があらわれるという。
また別の説には、和尚が言った冗談の一言を寺男が悪用し、義真を米俵につめて川に投げ込んだ、という。義真は女の子のようにかわいらしかったので、「小僧弁天」として祀られたという。
古ヶ崎五差路の近くの坂川のほとりに小僧弁天はある。昭和9年には萬満寺境内にも池が掘られ、弁天の祠が祀られた。
和尚と大蛇
萬満寺には、子どもの病気が治るとして始まった「仁王の股くぐり」や、「和尚と大蛇(おろち)」の伝説も伝わる。
動物も人間と同じように大切にした和尚は、寺の裏の池に住む大蛇もかわいがっていた。ところが、食いしん坊の大蛇は寺に来た人を飲み込もうとした。それを見た和尚はカンカンに怒って、大蛇を江戸川に追っ払った。大蛇は和尚が恋しくて、いつも馬橋の方を見ていた。
その後、江戸川の渡し船では馬橋の人が乗ると船が進まなくなった。馬橋の人が手ぬぐいなどを投げると、大蛇がうれしそうにくわえ、水にもぐり、再び船が進むようになったという。
参考文献=「法王山 万満寺史」「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「松戸の文学散歩・私家版」(宮田正宏)、「文化財マップ」(松戸市)、「わがまちブック 松戸1」(NPO法人まちづくりNPOセレガ)、「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「松戸のむかし話」(岡崎柾男)
写真提供=萬満寺(仁王の股くぐり)、松戸市教育委員会(寛文元年銘道祖神)