松戸の平安時代

 今年のNHK大河ドラマは「源氏物語」(5面の「本よみ松よみ堂」で関連本を紹介)の著者、紫式部を主人公にした「光る君へ」。平安時代中期に朝廷で権力を手にした藤原道長の時代を描いている。平安時代は延暦3年(784)の長岡京遷都、あるいは、延暦13年(794)の平安京遷都から鎌倉幕府が成立し、政権が貴族から武士へと移るまでの約400年間を指す。江戸時代が約260年間だったことを考えると、かなり長い時代だ。平安時代の松戸はどんな様子だったのだろうか。【戸田 照朗】

「源氏物語」とほぼ同時期に書かれた「更級日記」
 「更級日記(さらしなにっき)」は、松戸が「まつさと」という名で初めて文学に登場した作品として有名だ。著者の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は寛弘5年(1008年)に生まれた。実に、「源氏物語」の文献初出の年である。「更級日記」は、50歳を過ぎてから自分の人生を振り返って書いた自伝的物語とも言える。
 著者は、10歳から13歳までを上総国(かずさのくに)で過ごした。当時の千葉県は房総半島の突端に安房国(あわのくに)があり、房総半島の大部分を上総国が占め、現在の松戸市など東葛地域は下総国(しもうさのくに)に含まれていた。
 父・菅原孝標は、上総国の国司(こくし=地方長官)として赴任中で、著者は姉や継母(けいぼ)から様々な物語や光源氏(ひかるげんじ)のことなどを話してもらうのが唯一の楽しみだった。等身大の薬師仏を作ってもらい、1日でも早く都に帰って、物語の本を思う存分読めるように祈っていた。
 念願かなって、13歳の秋に父の任期が終わり、都に帰ることになった。
 出発は寛仁4年(1020年)9月3日。準備に手間取り、夕方になってから、願いを聞いてくれた薬師仏に心を残しつつ、牛車(ぎっしゃ)に乗り込んだ。この日は「いまたち」というところに急ごしらえの茅葺(かやぶき)の家をつくって泊まった。この「いまたち」に10日ほど滞在し、9月15日に下総国に入り、「いかた」に泊まった。17日早朝に「いかた」を出発。「まのの長者」という大金持ちの屋敷があったあたりが今は深い川になっており、門の名残だという4本の太い柱を見ながら船で川を渡った。その夜は「くろとの浜」というところに宿泊。
 18日の早朝に出発し、下総国と武蔵国(東京都)の国境を流れる太井川(ふといがわ=江戸川)の船着場、「まつさと(松戸)」に着いた。「まつさと」に一晩泊まり、夜のうちに荷物を向こう岸に渡した。
 一行の中には著者の乳母(うば)がいて、妊娠していたが、「まつさと」に来てから出産した。乳母の夫は最近亡くなっている。著者は、乳母が寝ている粗末な小屋を見舞うが、やつれて、月にうつる顔色は透き通るほど青ざめていた。産後すぐの旅は無理ということで、乳母は「まつさと」にとどまって養生することになった。
 翌19日にはここまで一緒に来てくれた上総からの見送りの人たちも引き返し、涙、涙の別れとなった。
 様々なことがありながら京の都に着いたのは出発から3か月後の12月2日だった。
 京に着いた著者は早速いろんな手を使って、様々な物語や源氏物語全巻を手に入れて物語の世界に没頭する。
 しかし、一方で悲しい出来事も続いた。著者の実母は京に残っていたが、上総国で優しくしてくれ、物語の世界にいざなってくれた継母が父と別れて家を出て行った。また、この年(1021年)は伝染病が流行しており、「まつさと」の渡りで別れた乳母が3月1日に亡くなった。「まつさと」に建てた粗末な小屋を見舞ったのが最期の別れとなってしまった。
 著者の菅原孝標女は、学問の神様・菅原道真の血を引く家に生まれ、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」を書いた藤原倫寧女(ふじわらのともやすのむすめ)が叔母にあたるという名門の出だが、豊かな貴族ではなかった。

下矢切東台遺跡の古代の道らしい跡(1998年撮影)

古代の大型道路跡
 菅原孝標女の一行は、上総国から下総国に入った。
 松戸市に隣接する市川市国府台はその名が示すとおり、奈良時代から平安時代にかけて、下総国の国府があったと考えられている。国府の場所は特定されていないが、各国に一つずつ置かれたと言われる、国分寺と国分尼寺跡が近くにある。
 国府台の周辺の遺跡からは、「古代の道」跡と思われる遺構がいくつか発掘されている。
 1998年には、東京外郭環状道路の建設工事に伴い発掘調査が行われ、下矢切東台遺跡から古代の道らしい跡が二条見つかった。道はほぼ真っすぐ南北に延びていた。道の両側に溝が掘られているのが特徴で、溝の幅は80センチから1・4メートル。深さは最大で50センチほど。路面の幅は2~4メートルほどだった(上写真参照)。
 道が造られた年代は特定されなかったが、矢切駅の北東にある新山遺跡と、和洋学園国府台キャンパス内遺跡からも大きな道の跡が見つかっており、古代東海道の可能性も指摘された。ここで言う「東海道」は「大化の改新」(645年)以降に形成された律令国家の行政区画「五畿七道」の1つで、太平洋沿いにある14か国からなる地域。それらの国々を結ぶ街道も「東海道」と呼ばれた。
 2017年には市川市国府台の県営住宅建て替え工事に伴う発掘調査で古代の大型道路跡が発見された。道路幅は約9メートル。やはり、両側に側溝があり、南北の長さは45メートル。東の側溝は深さ0・7メートル、西の側溝は一番深いところで1・8メートルあった。東西の溝の深さがアンバランスに大きく違う。特に西側は深く、雨水を流すためだけの溝とは考えにくいが、その用途についてはまだ分かっていない。
 溝の中からは奈良時代から平安時代にかけての土器(土師器、須恵器)や瓦が出土した。なかには郡名や施設名を表す「葛」「厨(くりや)」「市」と書かれた墨書土器もあった。
 見つかった道路跡は、規模が大きく、延長線上には国府の中心施設となる国庁(こくちょう)の推定地がある。この道路は国衙(こくが・今で言う官庁街)の西側を南北に走る古代東海道から別れ、国府の中を進んで国庁に至る当時のメインストリートではなかったかと考えられている(地図参照)。


「國厨」と書かれた墨書土器
 1961年2月に紙敷字坂花で農家の方が天地返しをしていた時に、土の中から2つの土器を発見した。甕型の土師器は骨蔵器(こつぞうき)として使われており、指頭大の大人の火葬骨が3分の2程詰まっていた。もう1つは、蓋の代わりに使われた赤彩された土師器の高杯(たかつき)という土器で、脚部に墨で「國厨(くにのくりや)」という文字が書かれていた。「国府の施設である厨家(くりや)」の意味で、ほど近い市川市国府台には下総国府があったことから、国府に関係する人のものではないかと推測されている。ただ、甕は骨蔵器として製作されたものではなく、日常使いの甕の転用のようなので、国府に関係した人であったとしても、地位はあまり高くはなかったのではないかと思われる。この土器は2015年9月25日に松戸市指定文化財(有形文化財)に指定された。
 関東地方、特に千葉県は墨書土器の出土が多く、200遺跡を超える。市内でもほかに、胡録台にある小野遺跡から「得」「八万」「石世(いわせ)」の墨書土器が発見されている。「得」は「得度」など仏教用語に関連するものかもしれない。また、「石世」は、この遺跡が旧岩瀬村に位置することに関係があるかもしれない。

革ベルトの飾り金具
 小野遺跡からは、銅製銙帯金具(かたいかなぐ)、鉄鎌(てつがま)、燧鉄(ひうちがね)、刀子(とうす)、鉄鏃(てつぞく)、軸付紡錘車(じくつき ぼうすいしゃ)など多くの金属製品が出土している。
 小野遺跡は1992年の発掘調査で平安時代の竪穴住居跡8軒、掘立柱建物跡3棟などが確認された。竪穴住居跡からは、銙帯と呼ばれる律令時代に官人の身分を表す革のベルトにつける銅製の飾り金具がバックルの部分から先端まで15個まとまって出土した。住居跡から出土したものとしては全国でも稀な例だという。また、燧鉄は祭祀遺跡や経塚などに多く、宗教行為に関連するものだと思われる。銙帯金具は2015年に市指定文化財(有形文化財)に指定された。

武士を育んだ名馬の産地
 松戸市には小金や小金原といった地名があるが、それは平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。
 延長5年(927)に完成した延喜式は律令の施行細則で、武蔵国など4か国に32の勅使牧を設けて左馬寮(さめりょう・さまりょう)、右馬寮(うめりょう・うまりょう)に管理させ、軍馬を養成することが書かれている。これが小金原の始まりだと思われる。
 この時は、下総国に高津馬牧(たかつうままき)、大結(おほひ)馬牧、本島馬牧、長州馬牧、浮島牛牧の5牧が開設されたが、具体的な場所は分からない。
 馬が5~6歳になると体中に飾りをつけて馬寮に貢がれた。下総牧からは、毎年11頭の馬が大量のまぐさとともに伊勢神宮の祭馬として送られた。
 天慶2年(940)に起きた平将門(たいらのまさかど)の乱は、朝廷の貴族たちを大いに驚かせた。関東で武士勢力が勃興したことは、小金原の軍馬と無関係ではないだろう。
 平氏に敗れたため、伊豆に配流となっていた源頼朝は、ついに挙兵したが、あまり戦上手とは言えず、治承4年(1180)に緒戦の石橋山の戦いで敗れてしまう。頼朝は平将門の末えいの千葉常胤(つねたね)や上総介広常を頼って房総半島へ逃れた。この時、常胤を通して下総牧の軍馬が提供された。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれた通り、これ以降、千葉常胤と上総介広常は鎌倉幕府成立のために尽力することになる。
 頼朝と同じく平氏追討の兵を挙げた木曾義仲は京都に入ったが、治安維持に失敗し、皇位継承問題に介入して朝廷の不興をかった。後白河法皇、さらに頼朝とも不和となり、頼朝は弟の義経を義仲追討に差し向けた。
 決戦の場となった宇治川の合戦で、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたという「平家物語」の有名な一節がある。佐々木は生月(いけずき・生数奇)、梶原は摺墨(するすみ)という名馬を頼朝から拝領されて活躍したというが、この名馬2頭はともに小金原産だと言われている。
 数々の勲功をたてた生月は、務めを果たして、再び小金原の地に放たれ、余生を送ったという。倒れて亡くなったのが、高塚新田の八幡神社のある場所で、村人は高塚を築いて供養した。これがいつしか八幡塚といわれるようになり、後に八幡神社となった。
 この塚は、草原にあったせいか、かなり目立つ存在で、塚とその周辺の木々が、江戸時代には江戸川を航行する船の目標になったという。「高塚」の地名の起こりもこの塚がもとになっている。

名馬「生月」の塚に建てられたという高塚新田の八幡神社

 ※参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「21世紀によむ日本の古典4 土佐日記・更級日記」(森山京・著、小林豊・絵、ポプラ社)、「更級日記」(西下経一・校注、岩波文庫)

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