松戸の文学散歩
松戸とミステリー
日下 圭介 『野菊の墓』殺人事件
日下圭介(くさかけいすけ)氏は、1940年和歌山県生まれ。早稲田大学商学部卒。朝日新聞社整理部記者であった1975年に『蝶たちは今…』で江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。『木に登る犬』、『鶯を呼ぶ少年』が日本推理作家協会賞を受賞し、1984年から専業作家となった。多くの作品を残されたが、2006年に66歳で亡くなられた。
「『野菊の墓』殺人事件」は1988年に14作目の長編推理小説として刊行された。タイトルは「『野菊の墓』殺人事件」となっているが、1906年(明治39年)に発表された伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となった矢切で事件が起きるわけではない。ある殺人事件と、「野菊の墓」という小説と作者の伊藤左千夫に関する「ミステリー」を絡めながら物語が進んでいく。全体的に「謎解き」を前面に押し出したエンターテインメント作品だ。殺人事件と「野菊の墓」は一見関係ないようで、事件のトリックを解く重要な鍵が「野菊の墓」の一節に隠されていた。
新聞社の社会部に、御前崎沖で水死体として発見された日比野厚(ひびのあつし)は誰かに殺されたもので、目黒でレストランを営んでいる内郷昇治(うちごうしょうじ)が怪しいという情報が「北峰瞳子(きたみねとうこ)」を名乗る人物から寄せられた。
同じころ文芸部に、「北峰瞳子」が書いた『野菊の墓に隠されたもの』という論文の感想文が寄せられた。この論文には「この名作が単なる恋物語ではなく、怖ろしい事実を暗示している」とあり、衝撃を受けた、という。投書の主は、河津博道(こうづひろみち)という彫刻家だった。
社会部の瀬沼知也という28歳の若い記者と、元社会部の敏腕記者で、定年後、嘱託で文芸部で記者を続けている57歳の牧田修平が事件を追うことになる。
牧田には、蕗谷江美(ふきたにえみ)という娘のように親しくしている27歳の女性がいる。小さな広告代理店でコピーライターをしている江美の知り合いに北峰瞳子という女性がいたが、彼女と会ったのは4年前が最後。
件(くだん)の女性と同一人物かどうかは分からないが、江美の知り合いの北峰瞳子はシナリオライターを目指していて、伊藤左千夫に関心を持ち、「野菊の墓」をドラマ化したいと話していた。そして、江美が瞳子に最後に会った時、利根川の近くの佐原の山中から白骨死体が見つかったという話をタクシーの運転手から聞いたという話をしたという。
伊藤左千夫の「野菊の墓」
物語の本筋は殺人事件の捜査だが、ここからは、特に「野菊の墓」に関する部分に焦点をあてる。
「野菊の墓」は、矢切の旧家の息子・斎藤政夫と、この家の手伝いに来ていた従姉の民子との淡い恋が描かれる。二人は、母の言いつけで遠くにある畑まで綿つみに出かける。この時の様子が叙情豊かに描かれている。政夫が野菊の花をひとにぎり採り、「民さんは野菊のような人だ」と言う。ここから、題名の「野菊の墓」につながっていくのである。政夫15歳、民子17歳という幼い恋なのだが、民子が年上であることなどから、二人は遠ざけられてしまう。政夫は予定よりも早く千葉の学校に行かされ、民子は縁談を無理強いされて嫁がされ、子供を流産したことがもとで命を落としてしまう。
家を出る前日、政夫は民子に人知れず手紙を渡した。政夫が千葉の学校に行くという朝、雨の中、民子も政夫を矢切の渡しまで送るのだが、家人がいたために、ついに一言も言葉を交わすことができなかった。これが二人の今生の別れとなった。矢切の渡しを背にして、江戸川の堤防から矢切方面を見ると、畑の向こうに矢切の斜面林が見える。この緑の台地が小説の舞台となった政夫の旧家がある辺りだ。
民子の死を知った政夫は市川にある民子の墓を訪ねる。民子の墓のあたりを見ると、不思議に野菊が繁っている。「民さんは野菊の中へ葬られたのだ」。家人から民子の「今はの話」を聞けば、亡くなるとき、民子は政夫の写真と手紙を握った手を胸に置いていたという。それから、政夫は7日間民子の墓に通い、墓の周囲一面に野菊を植えた。
この作品は幾度も映画化されたが、残念ながら原作の通り矢切でロケが行われたことがなく、設定も信州などに変えられている。
「野菊の墓」をめぐる謎
牧田と江美は「野菊の墓」の舞台となった矢切を訪ねる。西蓮寺境内にある「野菊の墓文学碑」には、伊藤左千夫の門人だった土屋文明が抜粋した小説の一節が刻まれている。その中に、「利根川は勿論中川までもかすかに見え」とあるが、「ここから見えるのは、江戸川で、利根川なんて見えない」ことに二人は疑問を持つ(私も初めて「野菊の墓」を読んだときには、変だと思ったが、小説が発表された明治39年当時は、江戸川のことをまだ利根川と呼んでいたのではないか、と理解している)。
牧田と江美は矢切の畑の中を歩き、矢切の渡しで柴又に渡り、牧田は社に戻る。
江美は一人で再び西蓮寺まで戻り、歩いて松戸まで行き、図書館の「郷土史の係の人」にいろいろと聞いた。そしていくつかの疑問点を持ち帰った。
「野菊の墓」には、「僕の家というは、松戸から二里許(ばか)り下って、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所」という一節がある。
「松戸から下って、矢切の渡しを渡ると、東京へ出てしまう」「それに、東へ渡るというのは変じゃないか。矢切は、江戸川の東にあるんだから」
江美は西蓮寺から松戸の駅まで30分で歩いた。地図で見ると直線距離で2キロ。道路がくねっていることを勘定に入れても、3キロにもならない。しかし、小説には「松戸から二里許り」とある。
一里は約4キロなので、二里は約8キロだ。牧田は「でも、左千夫のいう松戸が、駅の辺りとは限らんだろうが」と言うが、図書館の「郷土史の係の人」に「旧松戸は、明治二十二年に、松戸、上矢切、小山、栗山の各村が合併してできた」ことを聞いた江美は、左千夫のいう「松戸」が現在の「松戸市松戸」だと断定する。
また、矢切は正しくは「やきれ」と読み、古い人は今でも「やきれ」と呼ぶ人が多いのに、左千夫は「やぎり」とルビを振っている。
当時、左千夫は錦糸町駅の近くで暮らしており、錦糸町ー市川間に、総武線の前身となる鉄道が開通していた。一度も矢切に行かずに書いたとは思えない。
市川ー矢切間は約4キロ(一里)。なのに左千夫は民子の死を聞いた政夫が市川の民子の家に駆けつけるくだりで、「夢のように二里の路を走って」と書いている。これも変だ。
著者の日下圭介氏は実際に江美と同じように矢切を歩き、松戸市立図書館で取材したのではないだろうか。
「野菊の墓」は、左千夫の故郷の成東での体験がモデルになっている、というのが一般的な見方だ。主人公の政夫は左千夫自身で、民子は左千夫の親類の女の子だと言われている。しかし、矢切に住んだ版画家の奥山儀八郎氏は、左千夫は実際に矢切に住んだ時期があり、矢切での恋物語が小説のもとになっているのではないか、と考えた。その考察をまとめたのが「矢切の左千夫」(1968年)という本だ。
左千夫は明治18年(1885年)1月に21歳で成東の実家を家出し、実業家になるべく東京や神奈川の牧場で乳牛の世話をした。奥山氏は成東を出た左千夫がまず牧童として身を置いたのが矢切で、10月17日までいた、と推測した。矢切には小説に出てくる政夫の家と同名の旧家があり、この旧家に事情があって預けられた女性が民子のモデルではなかったか、と考えた。この女性は嫁いだ先で流産の後の肥立ちが悪く、33歳で亡くなった。左千夫が「野菊の墓」の執筆を始めたのが、この女性の死から2年後の明治38年(1905年)のことであり、左千夫はこの女性の死の報に触れ、小説を書いたのではないか、という。
奥山氏は、二人が母の言いつけで遠くにある畑まで歩いたルートも推測している。
日下氏は、奥山儀八郎氏の「矢切の左千夫」も読んでいたと思う。「地元の研究家」と小説に書かれているのは、奥山氏のことだと思う。
関口 ふさえ 蜂の殺意
関口ふさえ氏は1944年、群馬県生まれ。1990年に「蜂の殺意」が第8回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞し、デビューした。後に関口芙沙恵と著者名を変え、時代小説などを発表している。
今は分からないが、関口氏はこの作品を執筆していた当時、松戸市内に居住しており、作品の舞台も松戸市とその周辺になっている。
あじさい寺として有名な平賀の本草寺(本土寺がモデルだと思われる。以下固有名詞のカッコ内はモデルと思われる場所)の参道にある喫茶店の経営者、笠井幸枝(ゆきえ)が頭を鈍器のようなもので殴られ、殺された。幸枝は27歳で、発見したのは、26歳の夫、水道修理工の淳吉だった。二人は小金台団地(小金原団地)に住んでいた。
捜査する松戸北警察署(松戸東警察署)の石田一徹警部は、被害者の髪についている蜂の死骸に気が付いた。まだ寒い時期なのに不自然だ。レジの金もそのまま。強盗目的ではない。
大学生の中野林子(りんこ)は、本草寺の近くの住宅地でベビーシッターのアルバイトをしている。平賀の小鳥保育園に雇い主の野沢真司の娘・マリを迎えに行き、野沢の家に着いた時、野沢の家をうかがうように停まっていた不審な赤い小型車を目撃する。
野沢は我孫子にある製薬会社の主任研究員で、34歳。幼い娘のマリとは二人暮らしだ。林子はどこか翳(かげ)のある野沢に惹かれている。林子は叔母の家である橋本家に下宿しているが、橋本家は野沢の家の近くにある。
実は、この小説は最初から犯人が分かっているというタイプのミステリーだ。
28歳の青野あざみは、金町の産科医院で働く看護婦(看護師。作品のまま)で、松戸の江戸川が見えるマンションで一人で暮らしている。
なぜ、あざみは犯行に及んだのか。あざみの心の闇がこの物語のひとつのテーマである。
警察は、男の犯行だと思い込んでおり、捜査は難航する。あざみの存在はなかなか捜査線上に上がってこない。
あざみは新たな事件を起こす。北柏で殺された小田切美江(よしえ)の髪にも蜂の死骸がついていたことから、警察は連続殺人事件と見る。
そして、容疑者として逮捕されたのは、野沢真司だった。
最初の犯行現場である本草寺参道にある喫茶店に行ったことがあり、柏で殺された小田切美江の家の近くをいつも通勤で通っていた。近所の人の目撃証言もあるという。被害者の血がついたハンカチが発見され、野沢の娘のマリのものだと分かった。野沢の家のガレージの柱には被害者の血液が付着していて、蜂の死骸も落ちていた。以前に入院した大学病院の看護婦・田宮礼子の殺害事件への関与も疑われた。
あざみが仕組んだことだった。なぜ、あざみは野沢を恨み、罠に陥れようとするのか。しかも、殺された幸枝の夫の淳吉とあざみは秩父の施設で育った姉弟のような関係だった。
陰湿な事件が続く物語ではあるが、おっちょこちょいで明るい中野林子と林子が下宿している橋本家の人たちが温かく、物語の救いになっている。
マスコミが押しかけ、騒然とする中、林子はマリを守り、橋本家の人たちとともに、野沢真司の無実を信じて、野沢の帰りを待ち続ける。
あざみは、野沢の知人・片桐千恵を装い、林子にも近づく。
ほどなく目撃証言が間違っていたことが分かり、野沢は不起訴になり、釈放される。石田警部は誤認逮捕の責任を感じ、辞職を願い出る。
あざみが最後のターゲットとして選んだのは松戸市内の松田デパート(伊勢丹松戸店)の眼鏡売場で働く杉山正美という25歳の女性だった。松戸市郊外の柚(ゆ)の木台(柿ノ木台)にあるアパートの近くであざみに襲われるが、あざみはミスを犯す。
刑事たちも被害者のある共通点に気が付き、真犯人・青野あざみに迫る。追い詰められたあざみがとった行動とは…?
最初の事件が起こる本草寺(本土寺)参道や、野沢真司や中野林子が暮らす本草寺(本土寺)周辺の住宅街、被害者の笠井幸枝と夫の淳吉が暮らす小金台団地(小金原団地)、事件を捜査する松戸北警察署(松戸東警察署)などが主な舞台となる。実際に見たこと、行ったことのある風景を頭に思い浮かべながらイメージを膨らませることができるので、松戸市民にとっては特別な読書体験となるに違いない。
※宮田正宏さんの「松戸の文学散歩・私家版」を参考にしました。【戸田 照朗】