4年ぶり、さくらまつり
市内4か所で開催、それぞれの生い立ち
市内の「さくらまつり」が4年ぶりに開催。八柱が昨日25日(雨天時は26日)、常盤平と六実が昨日25日ときょう26日、国分川がきょう26日に開催予定だ(24日現在)。各地のさくらまつりはどのような経緯で始まったのか。その生い立ちを紹介する。【戸田 照朗】
常盤平さくら通り
「常盤平さくら通り」は、新京成線の八柱駅近くから常盤平駅前を過ぎて、五香駅の近くまで、約3・1キロメートルの桜並木が続いている。この道は「日本の道百選」にも選ばれている。「日本の道百選」は、1986・7年(昭和61・62年)に建設省(当時)が「道の日」(8月10日)の制定を記念して選出したもの。日本の特色ある道路104本が選ばれた。
さくら通りの常盤平駅側の約2・2キロメートルはソメイヨシノが植えられ、八柱駅側の約0・85キロメートルにはオオシマザクラが植えられている。常盤平駅側のソメイヨシノは1961年(昭和36年)頃、常盤平団地建設に伴う補助幹線道路整備で、日本住宅公団(当時)が約470本を植栽した。
八柱駅側のオオシマザクラは、1969年(昭和44年)頃、金ヶ作第2次区画整理事業により約170本が植栽された。
日本住宅公団が金ヶ作地区(現在の常盤平地区)に住宅団地を土地区画整理事業として造成する計画を発表したのは1955年(昭和30年)。同年の4月には旧陸軍の軍用軌道の払い下げを受けた新京成電鉄が新京成線を開通させていた。地元の農家の反対運動もあったが、1960年(昭和35年)5月には一部の地域で最初の入居が始まった。
常盤平団地の造成は松戸市が東京近郊の住宅都市として発展してゆく契機となった。常盤平さくら通りで行われる「常盤平さくらまつり」は、49回目の開催。約半世紀の歴史があり、約50万人が訪れる、市内でも屈指のイベントとして成長した。
八柱さくらまつり
春の「八柱さくらまつり」と、秋(9月か10月)の八柱歩行者天国「あいさつまつり・ふれあい広場」が八柱駅前の2大イベント。主催するのは、八柱地域の11町会・4商店会でつくる「八柱をよくする会」だ。同会設立の契機となったのは、1987年(昭和62年)、松戸新聞社(小河原芳明社長)が主催した「八柱地区を住みよい街にするにはどうしたらよいか」と題した座談会。松戸新聞社は前年に常盤平団地から八柱駅前のビルに事務所を移転。小河原社長は、八柱地区が全く活性化していない、以前から住んでいる住人と新しく住み始めた人たちの「ふれあいの場」がないと感じていた。そこで、周辺企業の社長、商店会長、町会長に声をかけて座談会を開催した。
参加者は、松戸新聞社の小河原社長、太田原栄氏(明るい選挙推進委員など各種公職従事者)、板橋正夫氏(八柱商店会会長・門前町会副会長)、武藤武久氏(八柱駅前中央商店会会長)、飯沼誠氏(門前町会会長・八柱学園理事長)、及川利一氏(日暮町会会長)、三好健夫氏(陣屋前町会会長)、千葉興業銀行八柱支店小川支店長。
出席者は小河原社長の問題意識に共感し、話し合いを継続。「八柱をよくする会」を作った。
発足当時の役員は、会長が太田原栄氏。副会長が飯沼誠氏、三好健夫氏、板橋正夫氏、武藤武久氏。事務局長が小河原芳明氏。
会の目的を「八柱駅を中心とする地域住民相互の親睦と融和を図りながら、住みよい地域の環境づくりと、活性化を促進する」とした。
また、当面の会の活動を「さくらまつりの開催」と「あいさつ運動の推進」とした。
当時既に23回行われていた常盤平さくらまつりの季節になると、八柱駅で降りて道を訪ねる人が多かった。そこで、八柱でもさくらまつりをやろうということになり、「さくら通り」が「日本の道百選」に選ばれたことを機に、「常盤平さくらまつり」と同時期に開催することになった。
第1回八柱さくらまつりは、翌年4月に、かねたや家具店の駐車場に特設ステージを設置して開催。2回目以降は、松戸市と折衝して、八柱駅南口の駅前ロータリーを使用できるようになり、ロータリー内に特設ステージを設置して開催するようになった。
明るい街、住みよい街づくりの原点は、人間関係を良くすること。それにはまず「あいさつ」から始めよう、八柱をあいさつ日本一の街にしようと、第2回さくらまつりで「あいさつ日本一運動」宣言を行った。
六実桜まつり
1974年(昭和49年)2月、六高台の区画整理で生まれたグリーンベルトの両側に206本の桜が植えられた。この桜の木が花をつけるようになったことを機に、当時の六実連合町会長・石井正治氏が初代実行委員長となって、1982年(昭和57年)春に初めて「六実桜まつり」が開催された。
当時からの目玉は地元の小中高校生が参加しての音楽パレードや、文化団体連盟の踊りや三味線、民謡などの披露、むつみ音頭やむつみ太鼓など、地元手作りの出し物。
2013年(平成25年)に取材した際、当時の実行委員長・石井清さんは、「今でこそ2日間で26万人が訪れる催しに成長しましたが、当時は人が来てくれるか分からなかった。そこで、小中学生に出演してもらうことで、その家族が来てくれることを期待したんです。他所の桜まつりよりもスペースがゆったりしているので、桜を見ながらのんびり座ってお酒が飲める、と好評です」と話していた。
国分川桜まつり
以前の国分川(春木川と呼ばれていたが、一級河川に昇格して改修部分は国分川となった)は、1981年(昭和56年)頃に鋼矢板が打ち込まれ、コンクリートで固められた水路のような川だった。改修工事が行われていたのは、国分川の獅子舞橋から黎明橋までの1164メートル。1994年(平成6年)に着工し、2008年(平成20年)に完了した。
1998年(平成10年)の河川法の改正で、レクリエーションや身近な自然にふれあうことができる「環境」としての川のありかたの重要性が位置づけられ、川づくりに関する情報公開を進めて川づくり事業への市民参加機会を設けていくことも盛り込まれた。
改修工事では、鋼矢板を抜いて土手を復活。ヨシの生える中州も作られた。現在の国分川は、多くの水鳥も見ることができる。
河川改修工事後、川沿いにはソメイヨシノが植えられ、桜まつりが開催されるようになった。
※参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「八柱をよくする会30年の歩み」、「日本百選ofちば」(京葉銀行広報グループ)。