松戸の地名の由来⑥

 地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるのだろうか。
【戸田 照朗】

明治時代の開拓地
 明治維新の中で、江戸から東京となった首都には時代の変化の中で失業した旧士族などが全国から集まってきていた。明治2年、政府は社会不安のもとともなりうるこれらの人たちを小金牧などに土地を与えて入植開墾させる計画を立てた。
 政府の求めに応じて後に三井財閥となる三井八郎右衛門が総頭取となり、裕福な商人が出資して、開墾会社ができた。
 会社は1万人の入植者を目標にしていたが、応募したのは8千人ほどだった。
 小金牧や佐倉牧に送り込まれた人たちは、初富(はつとみ・鎌ケ谷市)、二和(ふたわ・船橋市)、三咲(みさき・船橋市)、豊四季(とよしき・柏市)、五香六実(ごこうむつみ・松戸市)、七栄(ななえ・富里市)、八街(やちまた・八街市)、九美上(くみあげ・佐原市)、十倉(とくら・富里市)、十余一(とよひと・白井市)、十余二(とよふた・柏市)、十余三(とよみつ・成田市)と入植順に名づけられた土地に入っていった。
 五香六実へは268家族1034人が入植した。会社が建てた六軒長屋で生活し、重労働のできない婦女子は今の髙靇(たかお)神社の近くにあった香実会所(こうじつかいしょ)で、竹皮草履や線香製造にあたった。
 入植した人たちは旧士族や商人が多く、農業には不慣れだった。さらに干害や台風による被害、火災などが追い討ちをかけ、明治3年になると、会社は早くも経営意欲をなくしてゆき、入植者に約束していた米塩味噌の支給停止を計画。政府が認めなかったために、翌年5月まで延期されたが、会社は支給の数量を半分にしてしまった。
 結局、明治5年5月に開墾会社は解散。275町余の土地のうち65%を4人の会社員が取得。35%が170戸の入植者に分けられた。
 「初富飛地」は、初富(鎌ヶ谷市)の開墾を担当した3人のうちの1人、東京麹町呉服問屋加太八兵衛の出資金に見合う土地が初富になかったので、松戸市内の牧地を初富分の飛地として開墾会社が割り当てたことに始まる。この地が俗称「かぶと」と呼ばれるのはこのためである。

五香六実の開拓民の心のより所となった髙靇神社

牧の原の「かぶと公園」

二十世紀梨の原産地
 松戸市は県内では6番目の産地だが、二十世紀梨が発見された地で、「二十世紀が丘」の地名の由来にもなっている。二十世紀は現在販売されている多くの梨の祖先になった品種で、幸水や豊水(千葉県では両品種で結果樹面積の約8割を占める)などもその子孫である。
 松戸市大橋(当時は八柱村)に生まれた松戸覚之助は、明治21年(1888)、13歳の時に分家の石井佐平の家の裏庭のゴミ捨て場の中に梨の若木を見つけ、これをもらいうけて父伊左衛門が経営する梨園に移植して育てた。消毒や肥料、袋かけなどに気をつけて育てること10年。結実した実は芯が小さく、肉が白く上品な甘み、したたるような水分がある素晴らしい梨だった。
 覚之助は早速、東京大学や専門家、大隈重信伯爵などに梨を送って賛辞を受けたという。最初は青梨新太白という名前を考えていたが、同業者の東京興農園の渡瀬寅次郎に相談したところ、明治37年、渡瀬は東京帝国大学助教授の池田伴親に相談し、二十世紀という名前が命名された。20世紀にこれに優るものは現れないだろうという意味だという。明治時代より、二十世紀(青梨)と神奈川県川崎市の当麻長十郎が育てた長十郎(赤梨)が二大ブランドとなってゆく。
 覚之助は梨やぶどうの栽培を広めるため、苗木の販売をはじめた。覚之助が経営する錦果園には全国から二十世紀梨の苗木の注文が殺到したという。覚之助は研究熱心な人であったらしく、明治35年(1902)に「葡萄(ぶどう)種類説明」を発行。その後、「葡萄と梨種類解説」「果樹解説」と名を変えて昭和18年(1943)まで発行した。模範的果樹園を経営し、厳密な品種試験を行った苗や、欧米の品種を輸入して通信販売するためのカタログで、全国の得意先に毎年郵送され注文を受けた。
 多くの苗木を生み出し、大正7年(1918)には1500個の実をつけた二十世紀梨の原樹も昭和9年(1934)ごろには少し弱っていた。覚之助は千葉高等園芸学校(現千葉大園芸学部)の三木泰治教授と相談して、国の天然記念物として永く保存しようとした。栽培面積が多く、梨の中で最も品質が良く、多くの優れた品種の親となったことが認められ、昭和10年に原樹が天然記念物に指定された。原樹はその後、昭和19年11月22日夜の本土初空襲で被害を受け、ついに昭和22年に枯れた。現在は二十世紀公園の中に記念碑があるほか、松戸市立博物館に二十世紀梨の梨棚と原樹が展示されている。
 一方で、二十世紀は病気(黒斑病)にかかりやすく、袋かけなどの手間がかかるという欠点を持っていた。このことから、栽培を断念する産地も多く、ふるさとの松戸でもあまり作られなくなっていった。しかし鳥取県は例外で、同県では産学官が一体となって病気対策に取り組み、一大産地となっていった。2001年までは長らく梨の生産量全国第1位を誇っていた。同県の梨のうち、二十世紀は約10%を占めている。同県では、二十世紀という品種が大変大切にされており、県立鳥取二十世紀梨記念館という国内で唯一の梨の博物館が2001年に開館した。
 また、二十世紀は優れた品種の親となっていった。黒斑病に強く、二十世紀のような高品質の梨として育成されたのが菊池秋雄博士による菊水や八雲などの青梨で、二十世紀を片親としている。後に農林省園芸試験場で育成された幸水、新水、豊水の「三水」は菊水を片親としており、二十世紀の遺伝子を継いでいる。幸水、新水、豊水は二十世紀とは違う赤梨である。

 二十世紀などの青梨は果皮が汚れやすく、袋かけをしなくてはならなかった。一方で、赤梨は袋かけしなくても傷がつきにくいという特性をもっていた。そこで、二十世紀のようにおいしくて、黒斑病にも強く、さらに袋かけが必要ない赤梨がほしいという生産者の要望に応えて、これら「三水」が生まれたという。

二十世紀公園には二十世紀梨の記念碑が並んでいる

天然記念物二十世紀梨原樹の碑

松戸市立博物館に展示されている二十世紀梨の原樹

昭和に生まれた地名
 松戸市は昭和34年、常盤平団地造成にともなって、団地の名前を公募。228通の応募があり、新京成勤務の青木正次郎さん(当時33歳)の「常盤平」が選ばれた。常盤平団地30周年を記念して同団地自治会が発行した「ふるさと常盤平」に63歳になった青木さんの言葉が載っている。「新団地名を公募しているのを知って、初めは、常磐台と常盤台を考えましたが、この地域があまりにも広々としていて、すばらしい団地ができると考え、台でなく、平がふさわしいと考えました。それに自然林も多く残っていて、緑の団地になると思ったので、常盤平と書いて応募したのです(以下略)」。
 同団地のある場所はもともとは金ヶ作という地名だったが、団地名が決まって2年後の37年8月1日には地名も常盤平に変更された。
 また、昭和47年、六実高柳土地区画整理組合が新しい地名を公募。186通の応募があり、「六高台」と命名された。
(おわり)

松戸市立博物館に展示されている二十世紀梨の梨棚

常盤平のケヤキ並木

常盤平さくら通りの桜

 ※参考文献(シリーズ全体)=「あきら」(グループ モモ企画、足利谷久子編集)、「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「ふるさと常盤平」(常盤平団地自治会編集、常盤平団地30周年記念事業実行委員会発行)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「二十世紀が丘区画整理誌」(都市部開発課編集・松戸市発行)、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「わがまち新生への歩み」(松戸市六実高柳土地区画整理組合)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫・新人物往来社)、「陸軍工兵学校」(工友会)ほか

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