本よみ松よみ堂
山内マリコ著『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』
「天才少女」荒井由実がユーミンになるまで
大学に入学して間もない頃、八王子の街を見てみたいと思った。大学の所在地は一応、八王子市ということになっているが、広大なキャンパスの中を隣接する日野市との境が通っていた。つまり、八王子市の東の端にあり、まだ八王子という街を見たことがなかった。下宿は吉祥寺にあり、通学では通ることがなかった。この街がユーミン(松任谷由実さん)の故郷だと知っていたら、もっと丹念に歩いただろう。
ユーミンの実家は甲州街道沿いにある荒井呉服店で、大正元年から続く大店だった。小説はこんな場面から始まる。家業で忙しい母親に代わって幼い由実の面倒を見ていたのは女中の秀ちゃん(秀子)で、3歳になった由実は秀ちゃんの優しい手に引かれて東北の帰省先にまでついてきている。秀ちゃんの実家で、由実は東京から来た子、という単語に反応して頭を横にふる。由実は自分は東京の子ではなく、八王子の子だと思っている。
先週の土曜日から始まったTBSラジオの「東京042~多摩もりあげ宣言~」という番組で、パーソナリティの土屋礼央さんが、八王子の方は八王子が多摩だと思っているのかどうか、という問題がある、というようなことを話していた。八王子は多摩地域では一番人口が多く、都心から離れていることもあり、独自の文化を育んできたのかもしれない。
由実の母親の芳枝は大正のモガ(モダンガール)で、小学生になった由実を観劇にもよく連れていった。家業が忙しくてかまってあげられない負い目もあったのか、清元やピアノなど、習い事も積極的にやらせた。
中学生になるとGS(グループ・サウンズ)にはまり、都心のジャズ喫茶にも通うようになる。米軍の立川基地にも出入りして最新の洋楽にも触れ、早熟の少女はどんどん音楽を吸収してゆく。都心にも、横浜にも1時間程度で行けるという八王子という立地もよかったのかもしれない。この小説は、戦後の音楽史のようでもある。すごいのは、まだ一人の音楽ファンでしかないユーミンの周りに次々に後のビッグ・ネームが現れることだ。
ユーミンが生まれたのは1954年1月19日。終戦から9年後で、まだ八王子の街にも戦争のかげが色濃く残っていた。私も1月生まれなので、ユーミンのちょうど11歳下になる。ユーミンの曲をよく聴くようになったのは、ファースト・アルバム「ひこうき雲」がリリースされた1973年からやはり11年後の84年だった。ユーミンがデビューしたのは18歳の大学1年生の時で、私も同じ年頃になってユーミンを聴き始めたことになる。
初めて親元を離れて福岡の予備校の寮で浪人生活を始めた時だった。不安と孤独の中、ユーミンの歌声に支えられた。寮の部屋は狭いので、レコードプレーヤーは実家に置いてきた。レンタルレコード屋さんでミュージックテープを借りて、ラジカセでダビングし、11年分のユーミンを聴いた。新しいアルバム「NO SIDE」は、新品を買って数え切れないくらい何度も聴いた。
そうだ、ユーミンを聴いてみよう、と思った時に頭に浮かんだのは、「天才少女」という言葉だった。音楽の専門教育を受けたわけではないのに、独自に音楽の構造に気づき、自分の曲を作り始めるくだりが、小説では印象的に描かれている。アルバム「ひこうき雲」にも収録されている「ベルベット・イースター」。中学3年生の少女が書いた曲は、今聴いても大人びている。「ひこうき雲」を書くきっかけとなった少年の死や、「海を見ていた午後」に出てくる山手のドルフィンなど、名曲の誕生を思わせるエピソードも散りばめられている。【奥森 広治】