松戸の地名の由来③
地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるのだろうか。
【戸田 照朗】
武士が関係する地名 後編
小田原の北条氏綱と氏康の七千騎と安房や上総で勢力を強めていた里見義尭(よしたか)・小弓公方足利義明の軍が戦った1538年の相模台の合戦、北条氏康、氏政の軍と安房の里見義弘が矢切の台地から栗山、国府台にかけて戦った1564年の国府台(鴻之台、高野台)の合戦という戦国時代の2つの大きな合戦で、高城氏は北条氏に味方して奮戦、勝利を得た。小金城主二代目の胤辰は支配地域を大きく広げた。
一方で、戦場となった地域の被害はいかばかりか。矢切神社の前の三叉路に矢喰村庚申塚がある。庚申塚保存会発行の冊子の中で深山能延さんは「この二度の決戦場であった矢切台は家は焼かれ田畑は踏み荒らされ、女子供は着のみ着のまま逃げまどい、男達は人足に狩り出され傷つき、一家は生き地獄の苦しい生活を何年も強いられたことになります。この虐げられた苦しみ、反抗の怒りが、矢キレ、矢ギリ、矢を喰ってやる憎しみが矢喰村を表現したものと思います」と書いている。
「矢切」の地名の起こりについてははっきりしないが、戦乱にまつわるものと、「谷が切れる」という地形からきたという説などがある。武士の主な武器の一つである矢が切れる、つまり戦を忌み嫌うところから生まれたとの説もある。あるいは、激戦の末、この地で矢が尽きた(切れた)という意味だろうか。下矢切には「矢喰村」の文字が古書や庚申仏に残っている。
南北朝時代以降のことを記した本土寺大過去帳に「ヤキレ」と何か所か出てくるので、戦国時代の国府台合戦で安房の里見軍の矢が切れた(なくなった)から、という地名の由来は怪しい。矢切が上、中、下の3つの村になったのは江戸時代から。元禄8年(1695)の検地帳には、「下矢喰村」とあるので、「やきれ」と呼称しない時期もあったらしい。今は開発でよくわからなくなったが、かつては三矢切台地中央の県道西側に沿って、北から南へ約800メートルにわたって一直線に走る大きな谷があった。この「谷切れ」が地名になったのではないかという。
土地の人は「やきれ」「やきり」とにごらない呼び方をしていたが、昭和に流行った歌謡曲のせいで、最近は「やぎり」とにごって呼ぶ人も多い。
1582年に高城胤辰が病死すると子の胤則が11歳の若さで家督を継いだ。
高城氏は北条氏に近づいたことで、結果的に豊臣秀吉と敵対することになった。秀吉が天下統一の総仕上げとして行った関東攻め。1590年5月5日、小金城は矢切の渡しを渡って進軍してきた秀吉配下の浅野長吉(後の長政)軍の攻撃で落城した。その頃、城主の胤則は小田原城に籠城して湯元口を護っていたが、運よく戦後も生き延びて、京都の伏見で1603年に病没した。その遺骨は、父・胤辰とともに廣徳寺の墓所で眠っている。
胤則の妻は柴田勝家の養女で、胤次という子がいたが、1616年に二代将軍徳川秀忠に召し出され、700石で旗本に士官した。
小金城築城の際に移された東漸寺は砦の意味合いもあったが、第七世住職・了学は胤辰の第三子で、後に徳川家の菩提寺、芝の増上寺の第一七世住職となった。
また、小金城を築城した胤吉の妻で胤辰の母は佐倉城主千葉昌胤の妹で、胤吉没後、髪を下して月庵桂林尼と号して、庵を建立してこもった。
桂林尼の没後、同地に胤辰が建立したのが桂林寺、現在の慶林寺である。
伝説が由来の地名
「栗山」は同地にある日蓮宗本久寺に伝わる言い伝えが由来だという。同寺が真言宗の道場だったころ、境内の西の方に大木があって、夕日がさすと、阿弥陀如来の御来迎に見えたという。西に木があることから、山号を西木山といった。この西木山の「西」と「木」を合わせて一字とし「栗」となり、「栗山」となったという。
「幸田」(こうで)について、小金北小学校PTAがまとめた「こがねのむかしばなし」にはこんな話が出ている。日照りに干ばつ、洪水にと農民の苦労は絶えなかった。しかし、この地には4つの田んぼがあり、どこか1か所が凶作でも、必ずほかの田んぼが豊作で、人々は飢饉に苦しむことはなかった。そこで、「幸いな田」ということで、「幸田」と呼ぶようになったという。実際にはかなりの荒田だったところを、人々の願いを込めて、江戸時代ごろに幸田としたのではないかという。
「子和清水」(こわしみず)には、こんな伝説がある。
むかし、この近くに酒好きな老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに、外から帰ると酒に酔っている。
息子が不思議に思ってあとをつけてみると、こんこんと湧き出る泉を手ですくって、「ああうまい酒だ」と言って飲んでいた。父の去った後に息子が飲んでみると、ただの清水だった。この話を聞いた人々が「親は古酒、子は清水」と言うようになった。常盤平の子和清水交差点にある小さな緑地には小林一茶の句碑と伝説を伝える像と泉がある。この場所は、江戸時代に鮮魚を布佐から運んだ「鮮魚街道(なまかいどう)」の途上にあり、往来する人馬の休憩場所として重宝されたという。
「根本」「小根本」「中根」の由来には、弘法大師こと空海にまつわる伝説がある。むかし、弘法大師がこの地を訪れ、1本の樹木で3体の薬師如来像を彫られた。根本の金山神社の上のところに「かくれざとう」というところがあった。ここにこもって弘法大師が薬師如来を刻んだという。このうち最も根に近い部分で彫られた像が吉祥寺の本尊となり、中間の部分で彫られた像が東照院の本尊となり、最も末の部分で彫った像が印西市浦部の観喜院薬師堂の本尊となったという。このことから吉祥寺がある地が根本村、東照院のある地が中根村、観喜院薬師堂のある地が浦部村と呼ばれるようになった。「浦」は「末」という意味に考えるのだろう。東照院は伊久山東照院と称して中根村にあったが、いつのころか馬橋村に移転して、寛永年中に東照院を中根寺と改めたという。以上は伝説だが、「角川日本地名大辞典」には、小根本は隣接する根本と同様に、中世城郭の根古屋集落に由来する、とある。「小」は近世初期に根本と分離した際、混乱を避けるためにつけられたという。
「馬橋」は長津川にかかる「馬橋」という橋が地名の由来。昔はこの橋を多くの旅人が往来したが、大雨の度に流された。そこで、鎌倉時代に萬満寺の前身の大日寺を開基した忍性(良観上人)が馬の鞍(くら)の形をした橋を架けたところ、流されることがなくなったという。以後、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになったと伝えられている。
「河原塚」は遺跡が由来
土器は「かわらけ」とも呼ばれるので、「河原塚」は土器が大量に出土した台地(河原塚古墳群)に由来するものと推測される。
昭和30年の調査によって、この地に4基の円墳からなる古墳群が形成されていることがわかった。1号墳から3号墳は、八柱霊園南西隅十字路の北西角雑木林中にある。4号墳については詳細な調査が行われていないが、直径約22メートル、高さ約3メートルの円墳で河原塚中学校の正門を入ると、中庭の中にある。
最大のものが1号墳で、直径が25メートル、高さが5メートル。古墳時代の中期(西暦500年頃)のものと推定されている。墳丘(ふんきゅう)は縄文時代後期の貝塚の上に築かれており、墳頂(ふんちょう)部近くから直刀(ちょうくとう)等の副葬品を持つ老年男性と幼児の人骨が発見された。目的があってのことか、偶然かは分からないが、男性の遺体は20センチぐらいの厚さで貝殻に覆われていたという。
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※主な参考文献=「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)、「小金原を歩く 将軍鹿狩りと水戸家鷹狩り」(青木更吉/崙書房出版)、「イラスト・まつど物語」(おの・つよし/崙書房)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会「歴史読本こがね」編集委員会)