松戸の地名の由来②

 地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるのだろうか。【戸田 照朗】

武士が関係する地名 前編
 貴族の中から武士が生まれた平安時代から戦国時代にかけて、松戸は桓武平氏の名門・千葉氏が統べる地となった。室町時代から戦国時代にかけては千葉氏の親族、あるいは重臣だったと思われる原氏、高城氏の勢力下にあった。戦国時代には大きな合戦の舞台となり、高城氏が小金城を拠点に名声を得た。市内には千葉氏、高城氏が建てた城がいくつもあるが、昭和30年代以降の急激な宅地開発などにより、その遺構を残す城郭は少ない。
 戦国時代の松戸の武将といえば、大谷口小金城の高城氏だが、高城氏は平安時代から下総国(千葉県の北半分と茨城県の南の一部)に定着した千葉氏の一族だと言われている。
 千葉氏は桓武平氏である。桓武天皇のひ孫の高望(たかもち)が平(たいら)の姓を受けて上総国に定着した。高望にはたくさんの子がいたが、長男の国香の子孫が平安時代末に中央(京都)で権勢をふるうことになる清盛である。三男の良将の子が天慶の乱(935~940年)を起こし、「新皇」を名乗った平将門。五男の良文の子孫が千葉氏となる。市川や沼南、我孫子を散策すると将門にまつわる伝承が残っているが、市内の「紙敷」にも上屋敷があったとする説がある。紙敷は上屋敷が変化して紙敷という地名になったというのである。
 武家のもう一方の流れである清和源氏の御曹司・源頼朝を助けて平家一族の千葉氏が鎌倉幕府の創設に貢献するようになったのには、次のような「前史」があった。
 良文の孫の平忠常も1027年に乱を起こして上総の国府(市原市)を落とし、翌年には安房の国司を殺してしまった。乱は下総・上総・安房の房総半島全体に広がり、これらの国々は荒廃した。朝廷は追討軍を出したが平定できず、追補吏として源頼信が派遣され、忠常も降伏した。
 忠常の子、常将も罪に問われるはずだったが、源頼信のとりなしで許された。奥州で起こった前九年の役(1051~62年)や後三年の役(1083~87年)に源頼信の子・頼義と義家とともに常将とその子・常長らが従軍して活躍するのは、このような縁による。
 後に鎌倉幕府を開く源頼朝が石橋山の戦い(1180年)で敗れて房総に逃げてきた時に常将の子孫・千葉常胤が助けたのも、源氏から受けた恩を返そうとしたからだという。
 常胤は頼朝の幕府創設にも大きく貢献し、その6人の子どもを含めて陸奥・常陸・上総・武蔵・相模・美濃・肥前・薩摩・大隅などに所領を与えられた。
 源頼朝の死後、将軍職は嫡男・頼家、弟の実朝と引き継がれるが、実朝の暗殺によって、幕府の実権は頼朝の妻・政子の実家、執権北条氏に移っていく。

紙敷(現在の東松戸3丁目)

相模台にある松戸中央公園正門

 後に第6代執権となる北条長時は房総3か国の守護職を務めていたが、建長元年(1249)に上総国山辺郡松之郷村(東金市久我台)と松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたり家臣たちが居城したという。
 嘉歴元年(1326)には、第14代執権北条高時が出家して崇鑑と号し、岩瀬に居城した。執権は相模守(さがみのかみ)に任じられることが多く、高時も相模守であったため、この地が「相模台」と呼ばれるようになったという。
 高時はその後、正慶2年(1333)に上野(こうずけ・群馬県)で兵を挙げた新田義貞に攻められ、鎌倉の東勝寺で自害した。北条氏は滅亡し、鎌倉幕府は140年の歴史に幕を閉じた。
 北条長時が岩瀬城を築城したころ、風早郷には千葉氏流東氏がいた。東氏一族の風早入道四郎胤康の子の風早太郎左衛門尉康常が風早郷の地頭となり、「上本郷」に館を構えた。風早郷はかなり広く、現在の松戸市域ほどもあったという。後に風早郷は風早荘と呼ばれるようになるが、その広さは、風早郷・八木郷(流山市)・戸張郷(柏市と我孫子市の一部)・八幡郷(市川村・平田村・菅野村・宮久保村・眞間村・国府台村など)の一部を併せた広大な地域だった。康常の館のあった場所は、今の風早神社がある場所で、風早郷の中心という意味で、本郷という呼び名が定着したのではないかという。江戸時代の初期には、同じ下総国葛飾郡(かつしかごうり)に2つの本郷村(もう1つは船橋市の栗原)があり、区別するために、上本郷村と下本郷村にしたという。下本郷はその後、栗原本郷と呼ばれるようになった。
 室町時代末期に書かれた軍記「鎌倉大草紙」には、鎌倉時代に千葉氏六代の頼胤が小金に住んでいたことが書かれている。建長8年(1256)頼胤は鎌倉極楽寺の良観上人を請じて馬橋に大日寺を建立し、頼朝より代々の将軍と千葉氏一門の菩提を祈った。頼胤の孫の貞胤の時に同寺は千葉に移されたが、良観自ら作ったという大日五仏はこの地に残され、貞胤、氏胤(貞胤の次男)が在城の頃に足利尊氏将軍の菩提のため夢窓国師の弟子・古天和尚(こてんおしょう)を請じて中興開山として萬満寺と号した。二ツ木の台地には千葉氏の守護神である蘇羽鷹神社がある。馬橋の萬満寺と二ツ木の蘇羽鷹神社の間には「三ヶ月」(みこぜ)がある。三ヶ月周辺には、「館(たて)」に通じる「立山」や「柵台」を思わせる「作台」などの字名があり、小金にあったという頼胤の城館は、三ヶ月にあったと考えられるという。千葉氏の家紋は三日月で、尊称がやがて地名になっていったのではないかという。
 この城館は小金城と呼ばれていた。後述の大谷口にある小金城とは別の城である。千葉氏は九州の肥前国(佐賀県)小城(小城市)にも所領があり、千葉胤貞が九州千葉氏の祖と言われる。胤貞は前出の貞胤の従兄弟(いとこ)。胤貞は下総と肥前を3回前後往復しているという(頼胤の子と孫の名前は少々紛らわしい。頼胤には宗胤と胤宗という子がおり、宗胤の子は胤貞、胤宗の子は貞胤。つまり兄弟同士、従兄弟同士で名前の上下の漢字が逆さになっている。宗胤・胤貞親子が九州に行き、胤宗・貞胤親子が千葉介を継いだ)。
 この胤貞か従兄弟の貞胤の話かわからないが、南北朝の争乱の頃、戦い疲れて三ヶ月の城に戻ると、荒れ果てて住むことができなかったという。城主の痛ましい姿に同情した農夫が傍らの松の枝三本を折り、休憩する場所を作ってあげた。城主は妙見様を背負って千葉の館に帰ったが、その跡に建てられたのが中根の妙見社だという。農夫は「三枝松」の姓をもらい、それからは千葉妙見社の祭礼の際の開扉は、馬橋の三枝松氏が行うようになった。それは明治の初め頃まで続いたという。
 中根の妙見社の隣に「新作」(しんざく)という地名があるが、北に隣接する地に中世城郭(小金城?)があり、これに関係した城郭施設が設けられたことによるとされる。
 千葉頼胤が馬橋に大日寺を建立した頃、平賀六郷(本平賀、久保平賀、東平賀、殿平賀、上総内平賀、片田平賀〈あるいは幸田平賀〉)は千葉氏一族の畠山祐昭が支配しており、その弟ではないかといわれる平賀忠晴の屋敷があった。一族は熱心な日蓮宗の信者で、日像、日輪といった高僧が出ている。文永6年(1269)に目代の陰山土佐守が本土寺の前身となる草庵を開いたとされるが、忠晴も関係していたかもしれない。平賀六郷のうち「久保平賀」は窪地の多い土地柄からつけられたと考えられる。
 足利尊氏の室町幕府が京都にでき、室町時代に入ると幕府は尊氏の三男基氏を関東管領として鎌倉に置いた。鎌倉府の公方が四代目の持氏になると家臣の統率がとれず、管領の上杉氏憲と対立した。この争いに千葉氏も巻き込まれ、一族同士で戦うなどして千葉氏は力を失っていった。
 松戸地域で力を持ったのが、千葉氏支族の原氏。そして戦国時代直前から戦国時代が終わるまで、高城氏の時代となる。
 前述のように千葉氏は九州の肥前国に所領があったが、高城氏の祖はここに赴任していた。肥前国の高城村に居住したので、高城を名乗るようになったという説がある。
 やがて、松戸市栗ヶ沢の地に所領を得て、1418年(1460年という説もあり)に安蒜、鈴木、座間、田口、血矢、田嶋、池田、小川、斉藤、藤田など多くの家臣を連れて栗ヶ沢に入った。「栗ヶ沢」という地名については、野栗が多かったことによるとする地元の説がある。

上本郷の風早神社

馬橋の萬満寺

二ツ木の蘇羽鷹神社

中根の妙見社

平賀の本土寺

根木内城跡の空堀

根木内城跡の土橋

 高城胤忠は1462年に根木内城という本格的な城を築いて居城とした。「根木内」は根古屋内の転化だという。根古屋は中世後期山城(やまじろ)の麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地のこと。
 さらに、胤忠の弟・胤吉が家督を継ぐと、根木内城が手狭になったことから大谷口に小金城を新たに築いた。1530年に着工し1537年に完成した。面積約49ヘクタールという広大な城で、人々は「開花城」と呼んだという。その名前には高城氏の目覚ましい発展の意味も込められていた。
 小金城の築城を直接担当した阿彦丹後入道の子孫が正保3年(1646)に書いた「小金城主高城家之由来」には、「東有大手口、艮(うしとら=北東)有達磨口、北有金杉口、南有大矢口…」とある。「大谷口」とは城郭の南面に大きく開いた谷頭の出入り口という意味合いで、小金城南口は大谷口(大矢口)と名付けられたものだろう、と松下邦夫氏は松戸新聞のコラムに書いている。大谷口の名前はこれより以前の「本土寺過去帳」の室町時代初期の記述に見えるが、地名については地勢的なものに起因するのではないか、と推測している。
 小金城築城と同時に高城氏は栗ヶ沢にあった菩提寺の廣徳寺を北隣の中金杉台地に移した。廣徳寺境内にはこの時に移されたという弁財天も祀られている。また、根木内にあった祈願所の大勝院を城内鬼門の位置に、東漸寺を城の東方、小金町に移した。
 1538年に相模台を中心に行われた相模台の合戦は、小田原の北条氏綱と氏康の七千騎と安房や上総で勢力を強めていた里見義尭(よしたか)・小弓公方足利義明の軍が戦ったというもので、高城氏は北条氏に味方して奮戦、勝利を得た。相模台の聖徳大学構内にある経世塚は、義明らこの時の戦死者を祀ったものだという。
 また、1564年の国府台(鴻之台、高野台)の合戦では、小田原の北条氏康、氏政の軍と安房の里見義弘が矢切の台地から栗山、国府台にかけての場所で戦った。この戦でも高城氏は北条氏側について里見方を徹底的に打ちのめした。
 「陣ヶ前」は何かの戦いで陣が敷かれた場所という推測が立つ。あるいは、江戸時代に松戸村を所領とした旗本・高木筑後守の陣屋が近くの小字山にあったからか、江戸時代の将軍鹿狩りの際の小休所の前に相当する場所などが考えられる。
 二つの大きな戦いで名をはせた小金城主二代目の胤辰は、1566年正月に従五位下、下野守に叙任された。その支配地域は、野田市南部から流山、柏、我孫子、沼南、松戸、市川、鎌ヶ谷、船橋市、印旛郡の一部、埼玉県三郷市、江戸川区葛西の柴崎、小松川、二之江、長嶋、堀切、立石、亀戸、牛島、茨城県牛久市、神奈川県海老名市、横浜市戸塚区などであった。したがって、この地域の城も高城氏の属城となり、その数はかなりのものであったと思われる。

小金城跡の畝堀
(大谷口歴史公園開園当時)

小金城跡虎口門

小金城跡達磨口

「小金大谷口城跡」の碑

廣徳寺の弁財天

大勝院

経世塚(聖徳大学構内)

 ※主な参考文献=「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)、「小金原を歩く 将軍鹿狩りと水戸家鷹狩り」(青木更吉/崙書房出版)、「イラスト・まつど物語」(おの・つよし/崙書房)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会「歴史読本こがね」編集委員会)

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