松戸の地名の由来①
地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるのだろうか。【戸田 照朗】
「松戸」の由来と『更級日記』
千葉県の通称でもある「房総」は古代は「総(ふさ)」と呼ばれていた。総は麻の意味で、麻がよく採れたからだという。645年に始まる大化の改新後、総は「上総」と「下総」に分けられた。松戸は下総国葛飾郡(かつしかのこおり)にあったが、度毛、八島、新居、桑原、栗原、豊嶋、余戸、駅家の8郷のうち、どの郷にあったかは分かっていない。しかし、駅家郷(うまやこおり)が松戸であるとの説が多い。下総国府のあった国府台に近く、太日河(今の江戸川)の渡船場があった松戸は交通の要衝で、藤原時平選集の「延喜式」にある「井上(いのかみ)駅」や「茜津(あかねつ)駅」が松戸ではなかったかといわれる。特に、「茜津」は「馬津」の読み誤りで、「まつど」は「馬津」や「馬津郷」が「まつさと」となり、やがて「まつど」となったといわれている。
平安時代に書かれた『更級日記』には、「太日河というが上の瀬、まつさとの渡りの津に泊まりて夜一夜、船にてかつがつ物など渡す」という一文が出てくる。「まつさと」というのが、松戸のことで、松戸の地名が表れた最も古い文章としても知られる。
『更級日記』は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が、50歳を過ぎてから約40年間を回想して書いたもの。上総の国の国府に赴任していた父菅原孝標が京都に帰国することになり、13歳の娘が父について旅する様子から書き始めている。この文章はその道中、太日河を松戸あたりから渡った様子が書かれている。
出発したのが寛仁4年(1020)9月3日。「くろとの浜」というところを18日の早朝に出発し、下総国と武蔵国(東京都)の国境を流れる太日河の船着場、「まつさと」に着いた。「まつさと」に一晩泊まり、夜のうちに荷物を向こう岸に渡した。
一行の中には著者の乳母(うば)がいて、妊娠していたが、「まつさと」に来てから出産した。乳母の夫は最近亡くなっている。著者は、乳母が寝ている粗末な小屋を見舞うが、やつれて、月にうつる顔色は透き通るほど青ざめていた。産後すぐの旅は無理ということで、乳母は「まつさと」にとどまって養生することになった。
翌19日にはここまで一緒に来てくれた上総からの見送りの人たちも引き返し、涙、涙の別れとなった。
様々なことがありながら京の都に着いたのは出発から3か月後の12月2日だった。
京に着いた著者は早速いろんな手を使って、様々な物語や源氏物語全巻を手に入れて物語の世界に没頭する。
しかし、一方で悲しい出来事も続いた。著者の実母は京に残っていたが、上総国で優しくしてくれ、物語の世界にいざなってくれた継母が父と別れて家を出て行った。また、この年(1021年)は伝染病が流行しており、「まつさと」の渡りで別れた乳母が3月1日に亡くなった。「まつさと」に建てた粗末な小屋を見舞ったのが最期の別れとなってしまった。
著者の菅原孝標女は、学問の神様・菅原道真の血を引く家に生まれ、『蜻蛉日記(かげろうにっき)』を書いた藤原倫寧女(ふじわらのともやすのむすめ)が叔母にあたるという名門の出だが、豊かな貴族ではなかった。
32歳で初めての宮仕(みやづか)え。33歳で当時としてはかなり遅い結婚をした。息子を授かったが、51歳の時に夫に先立たれた。独身時代は物語の世界を追っていた著者も、やがて夫や息子の出世を第一に願うようになる。
どこか、現代を生きる女性にもつながる物語のように感じる。
野馬の放牧地「小金原」に関係する地名
松戸市には「小金」や「小金原」といった地名があるが、それは平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。現在の小金原は、旧小金宿の東側にある地域で、昭和46年に栗ヶ沢や根木内などが宅地造成された後に新しく生まれた地名だ。
放牧地の小金原は、小金牧、小金野、四十里野とも呼ばれた。北は野田市中里から南は千葉市花見川区柏井町まで、直線距離で43キロ、最大幅6キロほど。牧に沿って周囲を測ると四十里(160キロ)ほどになった。小金牧とともに佐倉牧があり、合わせて下総牧と呼んだ。
ただ、ずっと牧場が続いているわけではなく、小金原は荘内牧(上野・下野)、高田台牧、上野(かみの)牧、中野牧、下野(しもの)牧、印西牧の6牧場からなっていた。松戸市にかかっているのが、中野牧で、牧と牧の間に村々が点在していた。
小林一茶の俳句や、司馬遼太郎の小説『北斗の人』に小金原が出てくるが、あまりに広大であるため、具体的にどのあたりのことを言っているのかが分からない。『北斗の人』は松戸宿に住み、修行に励んだ幕末の剣客・千葉周作の青春時代を描いた小説で、小金原で試合をしたというくだりがある。松戸宿から出立したと考えれば、おそらく中野牧(松戸市内)のことを想定しているのだと思う。
延長5年(927)に完成した延喜式は律令の施行細則で、武蔵国など4か国に32の勅使牧を設けて左馬寮(さめりょう・さまりょう)、右馬寮(うめりょう・うまりょう)に管理させ、軍馬を養成することが書かれている。これが小金原の始まりだと思われる。
この時は、下総国に高津馬牧(たかつうままき)、大結(おほひ)馬牧、本島馬牧、長州馬牧、浮島牛牧の5牧が開設されたが、具体的な場所は分からない。
馬が5~6歳になると体中に飾りをつけて馬寮に貢がれた。下総牧からは、毎年11頭の馬が大量のまぐさとともに伊勢神宮の祭馬として送られた。
天慶2年(940)に起きた平将門(たいらのまさかど)の乱は、朝廷の貴族たちを大いに驚かせた。関東で武士勢力が勃興したことは、小金原の軍馬と無関係ではないだろう。
平氏に敗れたため、伊豆に配流となっていた源頼朝は、ついに挙兵したが、あまり戦上手とは言えず、治承4年(1180)に緒戦の石橋山の戦いで敗れた。頼朝は平将門の末えいの千葉常胤(つねたね)を頼って房総半島へ逃れた。この時、常胤を通して下総牧の軍馬が提供された。
頼朝と同じく平氏追討の兵を挙げた木曾義仲は京都に入ったが、治安維持に失敗し、皇位継承問題に介入して朝廷の不興をかった。後白河法皇、さらに頼朝とも不和となり、頼朝は弟の義経を義仲追討に差し向けた。
決戦の場となった宇治川の合戦で、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたという『平家物語』の有名な一節がある。佐々木は生月(いけずき・生数奇)、梶原は摺墨(するすみ)という名馬を頼朝から拝領されて活躍したというが、この名馬2頭はともに小金原産だと言われている。
数々の勲功をたてた生月は、務めを果たして、再び小金原の地に放たれ、余生を送ったという。倒れて亡くなったのが、高塚新田の八幡神社のある場所で、村人は高塚を築いて供養した。これがいつしか八幡塚といわれるようになり、後に八幡神社となった。
この塚は、草原にあったせいか、かなり目立つ存在で、塚とその周辺の木々が、江戸時代には江戸川を航行する船の目標になったという。
「高塚」の地名の起こりもこの塚がもとになっている。
徳川家康は天正18年(1590)に江戸城に入り、関東の経営を本格的に始めた。
東海随一の馬術者と言われた家康は、軍馬の重要性に着目しており、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、下総牧を直轄地として、「馬守り衆」と呼ばれていた人たちに帯刀を許して士分とした(後に、牧士と呼ばれる役人となった)。天下分け目の「関ヶ原の戦い」は慶長5年(1600)のことで、小金原産の軍馬が徳川方として活躍したものと思われる。
千葉氏、小金城主高城氏とその家臣たちは、豊臣秀吉の関東攻めでは小田原の北条氏に味方したため、落城、離散の憂き目を見ていた。
しかし、2代将軍の秀忠は最後の小金城主となった高城胤則の遺児・胤次を700石の旗本として取り立てた。
また、家康が下総牧の管理者として白羽の矢を立てたのが千葉氏の一族だった綿貫十右衛門政家だった。
綿貫氏は、もとは四街道の山梨城の城主で、城が見晴らしのいい高台にあり、月がきれいな所と言われていたので、「月見里」と書いて「やまなし」と読ませ、これを姓にしていた。
政家は敗戦後は、小金城主高城胤吉の妻で叔母である桂林尼の霊を弔うために建立された慶林寺(殿平賀)に身を寄せていた。綿貫氏の墓所は慶林寺にある。
家康は北条氏の家臣で八条流馬術の名手・諏訪部定吉を御馬預りとして迎えた。定吉と大坪流馬術に詳しい政家は小田原城籠城戦で親しくなったようで、定吉から政家のことを聞いたのか、家康は慶長17年(1612)ごろ(慶長7年、19年とも)政家を呼び出して野馬奉行(小金佐倉牧野馬奉行兼牧士支配)という大役に任じた。
召し出された時はもう旧暦の4月になっていたが、貧乏をしていた政家は冬物の着物の綿を抜いてお目通りした。それに気が付いた家康が、今後は綿貫を名乗るように言ったという。
俸禄は30俵と決して高くはなかったが、この役目は綿貫氏の世襲で、野馬奉行役宅は小金宿の旧八坂神社(現在のイオン北小金店のある辺り)西側にあったという。
8代将軍・吉宗は享保7年(1722)に牧改正を行い、旗本の小宮山杢進(こみやまもくのしん)にその任にあたらせた。杢進は金ヶ作役所(金ヶ作陣屋)を設け、これまで野馬奉行綿貫氏が行ってきた許認可、指令などの行政的分野の仕事を金ヶ作役所直轄とし、綿貫氏は主に技術的実務方面の担当として、綿貫氏の負担を軽くした。また、最も重要な中野牧を金ヶ作役所の直轄支配とした。さらに、小金原の荘内牧を廃止して解放し、多くの新田開発をした。
金ヶ作陣屋は金ヶ作1丁目の門前公園の辺りにあったとされ、同公園には市教委が建てた説明板がある。また、八柱駅方面から「さくら通り」に入ると右側にスポーツクラブがあるが、道路を挟んだ反対側に市教委が建てた「金ヶ作陣屋跡」の標柱がある。
「常盤平陣屋前」という地名はこの金ヶ作陣屋にちなんだものだろう。
小金原は、ほぼ全体が水戸家の鷹場村に指定されていたために二重に規制がかかっていた。小鳥をはじめ、鳥の餌となる魚も捕ってはならない。鶴を殺すことは特に重罪とされ、死罪に及んだ例もある。
これほどに殺生を禁じていた小金原だから、狩りさえなければ、野生動物にとっては楽園だった。
増えた馬や鹿、猪などが作物を荒らすことも多く、牧と村の境には野馬除土手(のまよけどて)が作られた。高いところで3・5メートル、低いところで2メートル。土を掘ったところが空堀となり、これを野馬掘といった。野馬掘を挟んで両側に野馬除土手があるM字型の二重土手もあった。
野馬除土手の普請と管理は農民の負担だったが、一部は幕府から日当が出たこともある。はじめは1日1人米5合(約700グラム)だったが、重労働だったので寛政13年(1801)に米1・5升(約2キロ)に増やされた。
「金ヶ作」(かねがさく)は「かながさく」ともいう。小金原の馬柵である野馬除土手があったことによるという。
「野馬捕り」は最初は3年に1度、野馬が増えすぎてからは農閑期に毎年行われた。農民は勢子などの人足を出さなければならなかったが、捕まえた野馬のうち65%~70%は運搬用・農作業用に農民が買っていた。
小金原の将軍お鹿(しし)狩りは、8代吉宗が享保10年(1725)と翌11年の2回、11代家斉が寛政7年(1795)、12代家慶が嘉永2年(1849)に1回ずつ、計4回行われた。
農民が害獣駆除を強く希望していたこともあり、享保10年のお鹿狩りは、千葉、相馬、印旛、葛飾の下総4郡と武蔵葛飾郡の480村から百姓勢子人足1万5千人を動員するという大規模なものになった。将軍は午前1時に江戸城を出て、午後4時には帰り着くという「日帰り」だったが、農民勢子は3日3晩にわたって、上野牧、高田台牧、下野牧からお狩場に獲物を追い込んでいった。お狩場には、高い塚を築き、頂に御殿を建てた「お立場(たつば)」を作って、ここから将軍が狩りを指揮した。五香公園の中に「史跡 御立場跡」の碑がある。塚は明治維新後も残っていたが、昭和15年3月に現在の松飛台に完成した松戸飛行場(逓信省航空局所管の中央航空機乗員養成所の飛行場。戦時中は陸軍の飛行場として使用)の飛行の障害になるとして撤去された。「お立場」はバス停の名前としても残っている。
この時の獲物は鹿826、猪5、狼1の計832頭。翌年は鹿470、猪12、狼1の計483頭だった。時代が下って、寛政7年は鹿130、猪6頭とかなり減り、嘉永2年になると、小金原には鹿や猪はほとんどいなくなり、近隣諸国から何か月も前に購入した猪などを当日に投入するという強引な実施だった。前3回が害獣駆除が目的だったのに対して、最後の1回は異国船が頻繁に日本近海に現れていた時期で、軍事訓練の色彩が強い。また、明治時代にニホンオオカミは絶滅するが、小金原では享保のお鹿狩りで獲物となっている。
「大橋」は国分川にかかる国道464号線の橋が由来となる。国道464号線は古くから松戸と東部地区をつなぐ幹線で、かつては将軍も御鹿狩に利用したところから「御成道(おなりみち)」とも呼ばれていた。
地形が由来の地名
「岩瀬」のある台地中央北寄り谷津田低地の谷頭から江戸川へ向かって細流(瀬)があり、一方周辺成田層からは当地特有の褐鉄鉱(かってっこう=鉄の酸化鉱物)岩盤が出土転落する。地名はこの瀬・岩が合わされたことによるという。
「串崎新田」は、地形と道路によって「串」の字型になるからだという。
「古ヶ崎」は、江戸川沿いの自然堤防微高地が古くからあったことによるという。あるいは、江戸川の流れは以前は蛇行していて、鵜森稲荷神社や圓勝寺のあった地域は、江戸川へ突き出た岬のようであったことから、岬(御崎=みさき)のような地形から生まれた名前とも考えられている。
「小山」は、地域の中心に地質時代に太日河(江戸川)の開析作用で南側三矢小台の下総台地から分離した標高25mの小山があることによる。この小山が浅間神社の森である。この森林は昭和41年に極相林として県の文化財(天然記念物)に指定された。極相林とは、日照・気温・湿度などの自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位(高木・亜高木・低木・草本)ごとに定着し、長期的に安定した森林のことをいう。
「竹ヶ花」(たけがはな)は「たけのはな」ともいい、竹ヶ鼻とも書く。地名の花は端(はな)で、台地崖地付近に竹林があったことによるという。
「八ヶ崎」は、北西方向への幸谷・二ツ木谷津の谷頭と南西方向への長津川谷津の谷頭によって、台地西側が複雑に屈曲変化する地で、地名はその地形による。「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)には、土地の古老の話として「丁度海原に七重八重とつき出た岬の様な観があったところから呼称されるようになったのだ」という話が載っている。
「南花島」は、花島とも称した。「花島」は、突出台地を西側低地から望見すると島の端のごとく見えることによるといい、「南」は郡内同地名と区別するために冠されたものという。
「横須賀」は、北西から南東へ長い砂州上に集落が発達していることによる。
※参考文献=「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)、「小金原を歩く 将軍鹿狩りと水戸家鷹狩り」(青木更吉/崙書房出版)、「イラスト・まつど物語」(おの・つよし/崙書房)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会「歴史読本こがね」編集委員会)