本よみ松よみ堂
横山秀夫著『ノースライト』
思いを込め設計した家から消えた家族。建築士が謎を追う
一級建築士の青瀬稔が信濃追分に建てたY邸は彼の代表作になろうとしていた。大手出版社が発行した建築雑誌に掲載されたこともあり、Y邸のような家を建ててほしいという依頼も舞い込むようになった。
Y邸の施主は吉野夫妻。青瀬が以前に建てた家を見て、事務所を訪ねてきた。そして、「すべてお任せします。青瀬さん、あなた自身が住みたい家を建てて下さい」と言った。
つまり、フリーハンドで任せてくれるというわけだ。この言葉は青瀬にとって魔法の言葉だった。建築士は芸術家とは違う。後世に残るような作品をつくりたいという思いがあっても、施主の意向を無視して仕事をするわけにはいかない。
青瀬の父はダムの建設工事の型枠職人だった。少年だった青瀬は家族とともに全国の工事現場を渡り歩いた。だからこそ、家には特別な思いがある。Y邸には別れた妻と娘への思いも詰まっていた。
完成したY邸を吉野夫妻も大変喜んでくれた。しかし、4か月経っても吉野家はY邸に引っ越していないことが分かった。それまで住んでいた田端の借家も引き払っている。吉野夫妻には中学生の2人の娘と、小学1年生の息子がいた。吉野一家はどこに消えてしまったのか。
Y邸には浅間山を望むように一脚の椅子だけが遺されていた。青瀬が務める設計事務所の所長、岡嶋によれば、その椅子は建築家ブルーノ・タウトの設計したものではないか、という。タウトは戦前にドイツのナチス政権の迫害から逃れて日本に亡命した。日本には短い期間しかいなかったが、日本の美に魅せられ、日本文化を再評価した。日本の建築史にも影響を与えたという。
なぜ、タウトの椅子がY邸にあったのか。吉野一家の失踪とともに、物語の大きな謎となっていく。
もう一人、この作品には美の追求者として藤宮春子という画家が登場する。タウトは実在の人物だが、藤宮春子は物語上の人物のようだ。春子はパリで絵葉書を売って生計をたてながら、アパートに800点を超える絵を残した。死後発見された膨大な作品が高い評価を受け、出身地の市で「藤宮春子メモワール」という美術館を建てることになった。
この美術館建設のコンペに青瀬が務める岡嶋設計事務所も参加することになる。青瀬たちは、アイデアを練るために、藤宮春子のことを調べ始める。
「半落ち」「クライマーズ・ハイ」「臨場」「64」などのミステリーで知られる著者だが、この作品は建築士という職業に焦点を当てた小説だ。青瀬は駆け出しの建築士のころにバブル経済を経験し、当時は赤坂の事務所で馬車馬のように働いた。だが、バブルの崩壊で仕事は激減。青瀬は特に仕事に情熱を傾けていたというわけではなく、無気力に酒に逃げていた一時期がある。そんな時に声をかけてくれたのが、所長の岡嶋だった。
一心に美を追求し、後世に作品を残したタウトと藤宮春子を登場させながら、家族の象徴である「家」を設計する建築士たちの仕事や家族への思いを描き出している。【奥森 広治】