松戸の湧水と周辺の歴史・下
松戸の台地に面した細い谷は、湧水が多く、水田に適していた。これを谷津田という。市内の湧水とその周辺の歴史を紹介する。【戸田 照朗】
上本郷湧水
本福寺の門の脇にある「井戸坂」を降りると「上本郷湧水」(カンスケ井戸)がある。昔は水桶を背負い、苦労して水を丘の上まで運んでいたという。この台地は中世の城跡とも言われる。
本福寺の「斬られ地蔵」は「上本郷の七不思議」のひとつ。
むかし、上本郷の覚蔵院境内で盆踊りがあった時のこと、見知らぬ大男がひときわ見事に踊っていた。娘たちはすっかり見とれてしまい、村の男たちは面白くなかった。酒が入っていたこともあり、村一番のけんか早い男が刀でその男を斬り付けたところ、不思議なことに火花が散った。そして、大男は悲鳴をあげて暗闇の中に消えてしまった。翌朝、村人が後片付けに訪れると、境内の石地蔵に生々しい刀傷が残っていた。「昨夜の大男はお地蔵様だったのか」「これは大変なことをした」と、みな震え上がり、地にひれ伏してあやまった、という。
覚蔵院は明治神社の近くの花之台公園にあったが、お地蔵様は本福寺境内に移されている。見ると、顔に斜めに刀傷のような跡がある。
また、本福寺の入口には「吉田松陰脱藩の道」という碑がある。吉田松陰は、嘉永4年(1851)、江戸の長州藩邸を脱走し、松戸に来て本福寺に泊まり、東北地方を目指した。
吉田松陰と松下村塾の教え子・高杉晋作を主人公にした司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』(文春文庫)には、本福寺に宿泊した時の次のような一節がある。
「松戸に一泊した。宿は追手をおそれるがために旅籠をさけ、里人の紹介を得、わざわざ松戸の宿場から東北半里の山中にわけ入り、本郷村に入り、そこの本福寺という寺の山門をたたき、住職にたのみこんでとめてもらった。住職は了音(りょうおん)という時宗僧で、この見も知らぬ旅人を親切にもてなしてくれた。松陰はこの点、楽天家であった。ひとの好意を天性うたがえないたちであり、そういうたちが人柄の照り映えになって、ゆきずりの他人もついこの若者を可愛くなるのかもしれない」。
宮ノ下湧水
宮ノ下湧水は、上本郷第二小の脇、風早神社がある台地の下にある。
鎌倉時代、千葉氏一族の胤康は、葛飾郡風早郷にいて風早入道四郎胤康と称した。上本郷の風早神社は、この胤康の館跡に建てられたと言われている。
胤康本人か、その子孫の話だろう。戦(いくさ)で敵に追われた風早様は、背の高いとうもろこし畑に隠れて九死に一生を得たことがある。しかし、その時、とうもろこしの鋭い穂先に片目を突かれて片目が不自由になってしまった。
それ以来、上本郷ではとうもろこしを植えた人にはケガや病気など不幸な出来事が起こるようになり、植える人がいなくなったという。
また、風早神社には「上本郷の七不思議」のひとつ「風早神社の大杉」の伝説が伝わる。むかし、風早神社の境内に周囲3メートルもある大杉があった。その影は長く伸び、ニツ木まで達していた。二ツ木村では、この杉の陰になる田は実りが悪く、巫女にお伺いをたてたところ、風早神社に収穫した米を奉納するように、とのお告げが出た。そこで米を奉納したところ、米がよく採れるようになった。以来、米の奉納は毎年行われるようになったが、ある年奉納を怠ったところ、米の出来が悪くなり、再び奉納を続けるようになったという。
二ツ木ではこの話は少し違った形で伝わっている。大杉の影になった田は「大杉のお蔭」で実りが良く、その米を神社に奉納していた。ある年、奉納をしなかったら、風早神社が大火事に遭ったので、これはいけない、とまた奉納を続けるようになった。
大杉は慶応年間(江戸時代末)に枯れ、明治30年頃までそのまま立っていた。鳥居の左側、水準点のあたりに立っていたらしい。社殿の裏に個人が奉納した標柱があり、杉の若木が植えられている。
風早神社・明治神社に伝わる三匹獅子舞は市指定無形民俗文化財で毎年10月に行われているが、昨年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため中止となった。
竹ヶ花雷電湧水
雷電神社隣の市役所竹ヶ花別館の駐車場には松戸市農業協同組合が整備し、市に寄贈した「竹ヶ花雷電湧水」がある。雷電神社の境内にも池があるが、台地下のこの地域には湧水が多いのかもしれない。
雷よけのご利益があることで知られる雷電神社。近隣の他市からも農家が「下がりもの」と呼ばれるナシ、ナス、キュウリなどを持って訪れたり、東京電力松戸営業所も祈願を行っていたという。
同神社には、雷にまつわる黄門さまの伝説が伝わっている。平成10年に松戸よみうりの奥友彦記者(当時)が地元の染谷清治さん(当時65)に聞いた話では「光圀が江戸から水戸に向かう途中、お宮(雷電神社)の前を通ると大神様(雷)が鳴って、どうしようもなかった。それで、お宮のご神体の分身を水戸に持っていって祀りこんだら、その後は雷が鳴らなくなった」という。
『松戸のむかし話』(岡崎柾男)にはこんな話が出ている。
あるとき、馬に乗って出かけようとしていた黄門さまが、お供の者に「雲一つない、いい天気だ」といった。高く澄み切った気持ちのいい秋の空だったが、いたずら好きの雷が遠くの黒雲の上で話を聞きつけた。雷は、「それなら困らせてやろう」と黄門さま一行の真上でゴロゴロやりながら雨を降らせ、黄門さまたちの頭の上をしつこくつける。しかし、調子に乗って低く飛びすぎ、竹ヶ花で松の大木にぶつかり、雷は地べたに落ちてしまう。すかさず黄門さまのお供の侍たちがつかまえ、怒った黄門さまは雷を十年間、がんじょうな鉄のお堂に閉じ込めてしまった。十年後、許されてお堂から出された雷は、嬉しさのあまり、七日七夜も太鼓をたたいて、雲の上で踊り続けたという。
同神社では神様が嫌っているので、境内に松の木は植えていないという。伝説と関係があるのだろうか。
同神社の入り口には昭和17年(1942)に落雷を受けた杉の木の一部が残っている。この杉の木は間もなくご神木とされた。
秋山湧水
光英VERITAS(ヴェリタス)中学校・高等学校(旧聖徳大学附属女子中学校・高等学校)の裏手、慶国寺のある丘のすそ、道路沿いに秋山湧水がある。水が豊かな土地柄なのか、聖徳大学附属小学校の一角には厳島神社があり、弁天池がある。
近くには名馬「生月(いけづき・生数奇)」の塚の上に建てられたという高塚八幡神社がある。松戸市域には小金原と呼ばれる広大な野馬の放牧地が広がっていた。その歴史は古く、平安時代までさかのぼる。
延長5年(927)に完成した延喜式は律令の施行細則で、武蔵国など4か国に32の勅使牧を設けて左馬寮(さめりょう・さまりょう)、右馬寮(うめりょう・うまりょう)に管理させ、軍馬を養成することが書かれている。これが小金原の始まりだと思われる。
この時は、下総国に高津馬牧(たかつうままき)、大結(おほひ)馬牧、本島馬牧、長州馬牧、浮島牛牧の5牧が開設されたが、具体的な場所は分からない。
馬が5~6歳になると体中に飾りをつけて馬寮に貢がれた。下総牧からは、毎年11頭の馬が大量のまぐさとともに伊勢神宮の祭馬として送られた。
天慶2年(940)に起きた平将門(たいらのまさかど)の乱は、朝廷の貴族たちを大いに驚かせた。関東で武士勢力が勃興したことは、小金原の軍馬と無関係ではないだろう。
平氏に敗れたため、伊豆に配流となっていた源頼朝は、ついに挙兵したが、あまり戦上手とは言えず、治承4年(1180)に緒戦の石橋山の戦いで敗れてしまう。頼朝は平将門の末えいの千葉常胤(つねたね)を頼って房総半島へ逃れた。
この時、常胤を通して下総牧の軍馬が提供された。
頼朝と同じく平氏追討の兵を挙げた木曾義仲は京都に入ったが、治安維持に失敗し、皇位継承問題に介入して朝廷の不興をかった。後白河法皇、さらに頼朝とも不和となり、頼朝は弟の義経を義仲追討に差し向けた。
決戦の場となった宇治川の合戦で、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたという「平家物語」の有名な一節がある。佐々木は生月、梶原は摺墨(するすみ)という名馬を頼朝から拝領されて活躍したというが、この名馬2頭はともに小金原産だと言われている。
数々の勲功をたてた生月は、務めを果たして、再び小金原の地に放たれ、余生を送ったという。倒れて亡くなったのが、高塚新田の八幡神社のある場所で、村人は高塚を築いて供養した。これがいつしか八幡塚といわれるようになり、後に八幡神社となった。
この塚は、草原にあったせいか、かなり目立つ存在で、塚とその周辺の木々が、江戸時代には江戸川を航行する船の目標になったという。「高塚」の地名の起こりもこの塚がもとになっている。
北竜房湧水
馬橋第二公園の一角に北竜房湧水がある。公園の前の台地上には城郭があったという。「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)には馬橋龍房山城跡とある。同書には「前田川の谷津に面して、北から南へ突出する舌状台地上の八ヶ崎字掘込にあったと推定される城跡で、一帯はかつて『龍房山』と呼ばれた」「堀込台地の西側には、南龍房から北東へ入り込む浅い谷津があり、かつてその谷津から台地の中を東方へ空堀状の窪地がのびていたとみられる。すなわち、空堀・土塁あるいは丘陵上の段差によって城域を区画していた可能性もあり、その場合の城域は南へ突出した字掘込の台地の東西約350メートル、南北約200メートルの範囲が推定される」とある。
しかし、城の存在を示す史料などはなく、現地も住宅地となっており、昔の面影はない。この台地上は旧水戸街道と現在の水戸街道である国道6号線が交差する地点だ。交差点には「文化三年」の銘がある道標が建っている。石の道標には「左水戸街道」「右印西道」と刻まれている。この道標から国道6号線を小金方面に少し歩くと、右手に一里塚の跡がある。江戸幕府が街道を整備する時に1里(約4㎞)ごとに塚を作り、エノキなどを植えた。旅人の目印になるほか、夏は木陰を作った。
旧水戸街道は萬満寺の門のところで直角に折れる。ここから、だらだら坂が続くが、この坂を「江戸見坂」という。昔はこの坂から江戸が見えたのだろう。江戸から来た旅人はここから江戸の空を望み別れを告げ、水戸方面から来た旅人は、やっと見えた江戸の空に思いを馳せたのだろう。
※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)、「松戸の昔ばなし」(岡崎柾男)、「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)