松戸宿の今と昔

 松戸市の中心市街地となっている松戸は、江戸時代には水戸街道の宿場町として町の形を作っていった。松戸宿の成り立ちをひも解いた。【戸田 照朗】

古代から交通の要衝だった松戸

 松戸が宿場町としてその体裁を整えたのは江戸時代になってからだ。
 しかし、古代から松戸が交通の要衝であったことは、容易に想像できる。
 松戸と思われる地名が歴史に登場するのは、平安時代に書かれた「更級日記」が最初と言われている。
 上総介(かずさのすけ=上総国国司の次官)であった菅原孝標(すがわらたかすえ)の娘が、治安元年(1021)に父について京都に帰還する様子を書いたもので、13歳の思い出を50歳を過ぎてから回想している。回想であるから記憶にあいまいな点があるかもしれないが、当時の松戸について知ることができる唯一の史料となっている。松戸の地名は「まつさとのわたりのつ」というくだりに出てくる。
 当時下総国と武蔵国の境だった太日河(ふとゐかは=現在の江戸川)を、「まつさとのわたりのつ(津)」から舟を使って渡ったという。この「まつさと」(松里)が、松戸のことだろうといわれている。
 房総半島の南部が上総国で、藤原孝標が赴任していた上総国府は市原市にあった。松戸が属する下総国の国府は市川市の国府台にあった。
 明治になるまでは御獄大権現と呼ばれていた松戸神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に従者と待ち合わせをした場所に村人が建てた祠(ほこら)が起源とされている。伝説の真偽はともかくとして、松戸がある関東の地は大和朝廷が北方民族の蝦夷(えみし)と国境を争う辺境の地であった。
 中大兄皇子(なかのおうえのおうじ、後の天智天皇)が大化元年(645)に起こした大化の改新後に駅伝制度がつくられた。中央(京都)と地方の情報伝達をスピードアップするため、主要な街道に4里(16キロ)ごとに駅家をつくり、決められた数の馬を用意した。駅使と呼ばれる伝達役の役人が駅鈴(えきれい)を鳴らして走ったという。箱根駅伝などで知られる「駅伝」の語源になった制度である。
 醍醐天皇の延喜5年(905)に藤原時平が撰修した延喜式(律令〈りつりょう=当時の法律〉の施行細則)には、下総国の交通の要衝である井上(いのかみ)駅、茜津(あかねつ)駅、於賦(おふ)駅に10頭の馬を、浮島駅と河田駅には5頭の馬を置くように書かれている。この井上駅か茜津駅が松戸ではないかといわれている。特に茜津は馬津の読み間違えで、「馬津(うまつ)」、「馬津郷(うまつのさと)」が「まつさと」になり、やがて「まつど」になったのではないか、という説がある。
 当時の松戸は市川市国府台の下総国国府と茨城県石岡市にあった常陸国国府とを結ぶ官道の通過地であり、東京都府中市にあった武蔵国国府とを結ぶ官道の接合点であったと考えられている。

「是より御料松戸宿」の碑

松戸郵便局の裏にあった旧松戸宿本陣

金町松戸御関所と大名行列

 武士が実権を握った鎌倉時代以降は、駅伝制度もすたれていった。
 1600年の関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に征夷大将軍となった徳川家康は東海道、中山道、奥州街道・日光街道、甲州街道の五街道の整備にとりかかった。水戸街道、佐倉街道は奥州街道・日光街道の脇街道として整備された。
 五街道の起点は日本橋。奥州・日光・水戸・佐倉街道は重複している区間がある。千住で、水戸・佐倉街道が分かれる。日光・奥州街道も宇都宮で分かれる(奥州街道の終点は白河)。
 日本橋から千住宿までは二里十八町(約9・5キロ)。千住宿を出て一里二十町(約6キロ)で中川にぶつかり、船で中川を渡ると新宿(にいじゅく)という宿場町がある。新宿から一里三十一町(約7・5キロ)で松戸宿である。お江戸日本橋から松戸宿までは五里三十三町(23・7キロ)、江戸から水戸までは二十九里十九町(約118キロ)で、旅人は2泊3日から3泊4日をかけて歩いたという。
 嘉永2年(1849)の史料によると、松戸宿を1日に通過した人数は1日平均39人、馬15頭くらいだったという。意外に少ないように感じるが、これには江戸時代特有の事情があった。
 「入鉄砲出女」という江戸幕府の交通・防衛政策を示す言葉がある。江戸への武器の流入と、江戸屋敷にいる大名の家族が江戸から出ていくのは謀反の兆しとして、特に警戒するように厳しく命じたもので、主要な河川に橋が架けられず、街道の要所には関所が設けられて厳しく取り締まられた。
 松戸宿に入る前には「金町松戸御関所」が設けられた。関所は金町側に設けられ、通行手形がないと通れなかった。関所には取り調べをする「お白洲(しらす)」があり、「手形改め石」とか「手つき石」と呼ばれる自然石が2つ並べて置かれ、その上に旅人は手形を置いたという。許しを得た旅人は、関所に隣接した「定船場(じょうせんば)」から船で松戸宿に渡った。船は2隻で、金町松戸定船場は、金町側の葛飾橋の上手200メートルのあたりにあった。松戸側は下横町にあった。
 川は幕府が決めた定船場でしか渡ることができず、利根川と江戸川の分岐点に「境町・関宿の渡し」があり、江戸川では「金町・松戸の渡し」「小岩・市川の渡し」があった。
 関所を通ることができるのは明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までだったが、近隣の百姓や勅使、藩主、幕府役人・御朱印携帯者などは、時間外でも通行できた。
 寛永8年(1631)には、農民が農作業をするために江戸川を渡る渡し船が認められた。江戸川では6つの渡し場が認められたが、そのうちのひとつが現在も営業している「矢切の渡し」である。また、小向村~納屋川岸(中部小学校付近)も昭和25年(1950)ころまで営業していたという。寛永10年には、農作業以外でも渡し船で行き来することが認められた。名主(なぬし)の印を前もって関所に届け出ておき、名主の印のある身分証明書を持っていれば、渡し船で自由に行き来ができた。しかし、一般の旅人を乗せると「関所破り」として罰せられた。
 1日平均40人足らずの旅人しか通らなかった松戸宿だが、参勤交代の大名行列の時は大変だった。
 水戸徳川家には参勤交代の義務はなかったが、水戸街道筋の13家は参勤交代をしなければならなかった。天明4年(1784)に松戸宿を通った大名は、土浦藩松平家9万5千石、笠間藩牧野家8万石、中村藩相馬家6万石、岩城平藩安藤家5万石、岩城泉藩本田家2万石、石岡藩松平家2万石、谷田部藩細川家1万6千3百石、湯長谷藩内藤家1万5千石、宍戸藩松平家1万石、下妻藩井上家1万石、牛久藩山口家1万石、志津久藩本堂家1万石、小見川藩内田家1万石で、文政5年(1822)には細分されて23家になった。大名行列の人数は5万石で150~200人、1万石で70人から100人くらい。関所にある2隻の船では対応できないので、大名行列があるときには、近くの渡し場から船や船人足の助成を頼んだ。船や人足には賃金が支払われたので、大名の出費も相当だっただろう。
 江戸時代には小金原での「将軍お鹿狩(ししが)り」という一大イベントが4回行われた。八代将軍吉宗の享保10年(1725)3月と、翌11年3月。十一代将軍家斉の寛政7年(1795)3月。十二代将軍家慶の嘉永2年(1849)3月である。
 3回目の寛政7年の時は、勢子を務める旗本たちは市川を渡り、将軍家斉は金町松戸間に「船橋」という臨時の橋をつくって、その上を将軍の一行が渡った。「船橋」は川の上に船を並べ、その上に橋をかけたものだ。船橋市の語源であり、その様子は松戸市民会館の緞帳(どんちょう)に描かれている。

松戸村から松戸宿へ

 江戸時代の初めでも松戸は50~60戸の寒村だった。延宝2年(1674)に描かれた「松戸村絵図」には寺を含めて80数戸の家が描かれている。宝暦6年(1756)には384戸1680人と増えるが、天明4年(1784)には336戸1557人、寛政9年(1797)には323戸1433人と減っている。これは、天明3年の浅間山の大噴火によって引き起こされた大飢饉が影響していると思われる。その後、天保9年(1838)には394戸1915人、幕末の嘉永4年(1851)には468戸2224人となった。
 松戸村が松戸町になったのは、天領となった元禄12年(1699)ごろで、宝暦13年(1763)に家並みもそろって、松戸宿となった。江戸時代に入って160年が経っており、260年間続いた江戸時代の後半に入っていた。
 江戸時代の初めには松戸村には寺もなく、村民の多くが南花島村の栄松寺の檀家になった。松戸村にも慶長14年(1609)ごろから寺が建ちはじめ、慶安期(1648~52)ごろまでには、松龍寺、来迎寺、慈眼寺、宝光院、善照寺、円慶寺、西蓮寺の7か寺ができた。
 江戸時代が始まる少し前から、松戸村は旗本の高木九助広正の支配地となった。九助広正は早くから家康に仕え、多くの合戦で勇猛をはせた。
 武田信玄と戦った元亀3年(1572)の三方原合戦では、家康の窮地を救っている。九助広正の子、正次も勇猛な武者で、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕えた。
 松龍寺は九助広正の死後、正次が父の菩提を弔うために建立した。同寺一帯はお鹿狩りの際に将軍の休憩場所となったことから、後世になって山門の扉に葵のご紋が飾られた。正次は慶安4年(1651)に77歳で没するまでの11年間、現在の戸定邸の場所に館を構えて住んでいたという。
 松戸村の家並みの中心は、現在の松戸郵便局のあたりで、ここに本陣、脇本陣、問屋場(といやば)などがあった。根本に寄るにしたがって、さびしくなっていった。
 本陣、脇本陣には身分の高い大名などが泊まり、一般の旅人は旅籠屋(はたごや)、木賃宿に泊まった。旅籠屋は食事付きで、木賃宿は素泊まりだった。問屋場は、公用の役人や、書状、荷物などを次の宿場に送り届ける運送業務をするところで、この仕事を「継立(つぎたて)」「伝馬」といった。問屋場には決められた数の馬と人足を置かなければならなかった。1宿場あたり、東海道は人足100人、馬100頭、中山道は人足50人、馬50頭、日光、甲州、奥州、水戸街道などは人足25人、馬25頭である。
 寛永12年(1635)に参勤交代制度が始まると、宿場の人足、馬が不足し、元禄7年(1694)に助郷制度が定められた。これは宿場の周りの農村から人足と馬を強制的に出させるもので、賃金は問屋場が払うことになっていたが、問屋場側と助郷側の金銭、感情面でのトラブルが常にあったという。
 幕末の松戸宿には千葉周作が修行をした浅利道場があった。宝光院の入り口に「千葉周作修行之地」の標柱があるが、この柱は松戸郵便局の裏にあった松戸宿本陣(平成16年に解体)の大黒柱を使って建てられたものである。
 松戸には4か所の河岸(かし)があった。そのうち、一番川上にあった平潟河岸には船宿がいくつかあった。船宿は船頭や荷揚げ人足が泊まるところで、身の回りの雑用をし、一夜をともにする女性がいた。船宿がやがて旅籠屋となっても、飯盛り女という名目の女性がいた。
 松戸宿には江戸時代を通じて12~13軒の旅籠屋があったが、平潟河岸には多い時で33軒の船宿兼旅籠屋があった。松戸宿を通る旅人も、平潟河岸の旅籠屋に泊まったり、近隣の農村の子弟が遊びにくることもあった。
 昔の江戸川は古ヶ崎、樋野口のあたりで東に大きく歪曲しており、ここにできた干潟の上に平潟河岸があった。享保16年(1731)に江戸川を真っすぐに開削する工事が完成すると平潟河岸は土手の下になってしまい、河岸としての機能はなくなった。それでも船宿や旅籠屋は営業を続けていたので、関東郡代や関八州取締出役の役人が「なぜこんな宿場から離れたところに旅籠屋があるのか」と問いただすと、平潟の旅籠屋は「昔の水戸街道は平潟を通過していましたが、後に今の水戸街道がつくられて、平潟が取り残されました」と答えていたという。ただの言いわけなのか、それとも真実なのかはわからないが、金町松戸御関所ができるまでは、平潟河岸から直接対岸に渡っていたことも考えられ、旅人の往来も多かったのかもしれない。
 代官所や宿役人の勧告で、平潟の旅籠屋も徐々に減り、安政3年(1856)には12軒になった。明治31年(1898)ころからは平潟遊郭と呼ばれるようになり、多い時には100人以上の女性がいたという。平潟遊郭の灯が消えたのは、戦後の昭和31年(1956)、売春防止法ができてからだ。遊郭の建物は、その後東京の学生の学生寮になるなどした。
 平潟にある水神宮(現・平潟神社)や来迎寺は遊女たちの信仰を集めた。また、教育委員会の入る京葉ガスビルの隣にある池田弁財天には多くの蛇の置物が祀られているが、ここに祈願すると下の病気にならないと信じられており、巳の日になるとお参りする遊女の姿が見られたという。
 ※参考文献=「イラストまつど物語」(おの・つよし、崙書房)、「松戸の歴史案内」(松下邦夫)

松戸市立博物館に展示されている松戸の河岸復元模型

千葉周作修行之地の標柱

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