松戸の湧水と周辺の歴史・中

 氷河期が終わると高山や寒地の氷が解け、海面が上昇した。気温の上昇は約6500年前ごろがピークで、栃木県藤岡町のあたりまで海が浸入した。これを奥東京湾とよぶ。市内の地形は台地と低地に分けられるが、江戸川沿いの低地はこの時代、海の底。台地には海の浸入と台地下の湧水などの浸食もあり、枝状の細い谷ができた。後に谷津とよばれる地形をつくり、水田に適していた。これを谷津田という。市内の湧水とその周辺の歴史を紹介する。     【戸田 照朗】

幸谷熊ノ脇湧水

幸谷熊ノ脇湧水

 「関さんの森」の中にある湧水。市街地に残された里山のふもとにある。
 2007年から2009年にかけて都市計画道路建設か、緑の保全かで揺れた「関さんの森」だが、話し合いの結果、直線道路を曲線にして森へのダメージを軽減した新設市道を建設することで決着した。
 2019年8月には、都市計画が変更され、この市道が正式に都市計画道路となった。同時に旧都市計画道路用地を含む屋敷内の樹林地0・2ヘクタールが、都市緑地法に基づく「特別緑地保全地区」として指定されることも公示され、合わせて1・7ヘクタールが、「特別緑地保全地区」となった。

関さんの森のケンポナシ

 特別緑地保全地区制度とは、都市における良好な自然的環境となる緑地において、建築行為など一定の行為の制限などにより現状凍結的に保全する制度。これにより豊かな緑を将来に継承することができる。現行法規では、緑地保全に最も効果のある制度だといわれている。松戸市では長らくこの制度の適用となる地区がなかったが、2008年3月に栗山地区の約500m、約2ヘクタールの斜面林が初めて指定された。「関さんの森」は市内では2例目になる。
 この道路沿いの梅林の中に「関さんの森」のシンボル的な樹木、ケンポナシの大木がある。1969年に初版が発行された松下邦夫氏の「松戸の歴史案内」にも「天然記念物級」として紹介されている珍しいケンポナシの大木で、関家が同地に屋敷を建てた江戸時代には既にあり、樹齢も「最低でも200年以上」ということしか分かっていない。
 幸谷小学校の校章はケンポナシの葉を図案化したもの。3本の主脈を幸谷、二ツ木、三ヶ月の3つの集落になぞらえているという。関美智子さんが父の武夫さんから聞いた話によると、馬橋小学校6年生だった妹の睦美さんの担任・末次一男氏が家庭訪問に訪れた時に、このケンポナシに感銘を受け、後に新設された幸谷小学校の初代校長になった際にケンポナシを地域のシンボル的な木として校章に取り入れたという。
 2012年1月15日、都市計画道路3・3・7号線を通すための新設市道建設のために、16m移動して道路用地外に移植された。ケンポナシは以前に受けた落雷のため幹が空洞になっており、樹皮で生きている状態。クレーンで引き上げると壊れてしまう可能性があるため、「立曳き(たてびき)」という古来の方法で行われた。人力ウインチで曳く作業には、地元の小学生や住民なども参加した。
 子株となる若木も隣に移植された。移植により枯れてしまうのでは、と心配されたが、移植から10年がたち、親子とも青々とした葉をつけている。
 関家には江戸時代からの門や蔵があり、蔵からは当時の農民の生活を知るうえで貴重な資料なども見つかっている。
 庭には赤城神社、十一面観音、不動明王の石碑があり、その両脇にはツバキが植えられている。正門の近くにある熊野宮には、これも天然記念物級といわれる霧島ツツジがある。また、正門にあるソメイヨシノは樹齢100年だという。樹齢の短いソメイヨシノとしては珍しい大木だ。
庭の中には、市民でつくる支援団体、「関さんの森を育む会」や「関さんの森エコミュージアム」のイベントがある日などに入ることができる。
 また、関さん宅の裏山(里山)は常時解放されている。

関さんの森の「下の広場」

21世紀の森と広場と千駄堀湧水

 「市内で最後に残った最大の緑地」と言われた千駄堀。かつては谷津田や斜面林、湿地が広がる自然の宝庫だった。「谷津(やつ)」とは、入り江が台地の奥まで入り込んだような形で残る谷状の地形で、縄文時代に海水面が上下してできたと考えられている。この谷津には、湧水が多く出るため水田に適し、「谷津田」と呼ばれていた。谷津は北総独特の地形で、千駄堀にはこの地域の原風景が残されていた。
 しかし、宅地化の波は千駄堀周辺にも迫り、この貴重な緑を残すべく、市では昭和52年(1977)に同地を公園とする計画が長期構想として盛り込まれた。当初は「自然公園」として残す道も検討されたが、法律や補助金の問題などから「都市公園」として整備されることが昭和56年に決まった。
 残念ながら「谷津田」には芝生が敷き詰められ、残せなかったが、湿地や樹林地などは細かな環境調査が行われ、そのまま保全できる地域と維持のために調整が必要な地域、レジャーなどに利用していく地域に区分された。釣りやペットの入園の禁止、自転車乗り入れ禁止、また開園時間の厳守など様々なルールがあるのも同公園が自然環境を守ることを最大のテーマにしているからである。
 園内には自然生態園や千駄堀池、野草園、森の中の木道など自然観察や散策ができるエリアのほか、大きな芝生の広場が2つある。「みどりの里」といわれるエリアには小さな水田もあり、子どもたちが田植えを体験する講座も行われる。市立博物館に隣接する「縄文の森」には竪穴式住居が3棟、再現されている。松戸には縄文時代の遺跡が多く、これも松戸の特徴をつかんだ展示だと言える。
 谷津の風景は失われたが、園内には豊かな湧水が出ていたことを示す石碑がある。
 隣接する千葉西総合病院が建つ台地下にある「光と風の広場」。東屋があり、広場のベンチ下には苔が繁茂し、チョロチョロと流れる湧水のつくる小川のせせらぎが聞こえる一角に「千駄堀のわき水」の碑がある。松戸東ロータリークラブ創立20周年記念事業として平成2年に寄贈されたもので、松戸市公園緑地部(当時)が書いた以下のような説明文のプレートが掲げられている。
 「二十一世紀の森と広場には、斜面からしみ出してくるわき水が各所にあり、なかでも、このあたりの水量が一番多く一日当り約770トン位わき出しています。この豊かなわき水は、金ヶ作・常盤平地区の台地約467ヘクタールに降った雨の一部が地下にしみ込み、数ヶ月の後にわき出てくるものです。それは、これらの地区に畑や山林が多く残されているがために、雨水が浸透しやすくなっているからです。このわき水は、昔から千駄堀・中和倉にかけて水田をうるおし、農業にたずさわる人々にとって深い自然の恵みです。この豊かなわき水のおかげで、サワガニやホタルがすむ自然環境が保たれています。これらを二十一世紀の森と広場の財産として、この地を訪れる人達のためにも未来に向かって、永く残していけることを強く願うものであります」。
 また、「つどいの広場」には「森の井戸21」と書かれた石板がある。ここは平成7年に「上総掘り」という伝統の技術によって井戸の掘削が行われた場所だ。

21世紀の森と広場の湧水でできた小川

「千駄堀のわき水」の碑

 上総掘りは上総地方で始められた井戸の掘り方で、竹のしなりを利用しながら人力で掘り進み、掘削機の先端につけた鉄管により地下深くまで掘削する。この方法で500m以上も掘ることができるという。ボランティアで掘削を担当したのは、「上総掘りを守る会」の会長で市内水道配管業の篠田良夫さん(当時37)と金子宏さん(同)。「千駄堀池の浄化とホタルの里づくり」を計画していた松戸東ライオンズクラブと松戸市が協力した。
 作業は篠田さんの師匠である袖ヶ浦の吉田丈夫さん(当時65)らの指導を仰ぎながら進められた。この時掘削された井戸の深さは70m。自噴を目指していたが、残念ながら自噴には及ばず、最終的には電動ポンプで水を汲み上げた。
 作業が行われたのは、平成7年7月21日から9月10日まで。掘削が行われたのは8月30日までだった。新聞各紙でも取り上げられ、珍しい上総掘りを見ようと見物する人などで、ちょっとした賑わいを見せた。
 掘削の後、現在のような形に整備されたが、この石板と石の井戸は当時の賑わいを思い起こさせてくれるモニュメントである。
 平成17年から28年ごろまで千駄堀池に飛来していたオオハクチョウは、その後数年姿が見られなかったが、昨シーズンの冬は11月下旬から12月上旬にかけて、1家族8羽が飛来した。今シーズンの冬も昨年11月から今年2月にかけて2羽から12羽の姿が見られた。
 千駄堀池は3つの谷津が集まって出来ている人工の池で、広さは東京ドーム約1個分(5ヘクタール)の大きさがあり、湧水量は1日で約1000トンもある雄大な池。池の中央には水鳥等が営巣出来るように島が作られ、北側は生きもの専用区域として人の立入りを制限し自然環境の保全に努めている。南側には霧の噴水が設けられ、毎日午前10時から午後4時まで1時間に1回水面を霧が覆い、とても幻想的な風景が楽しめる。
 園の北側にある「自然生態園」は同園の象徴的なエリアで、人の出入りが制限されている。自然観察舎の中にある観察室から自然生態園の自然や千駄堀池を観察できる。望遠鏡や野鳥観察ガイドブックが備えられており、バードウォッチングが楽しめる。土、日、祝日には自然解説の専門職員「自然解説員」が勤務し、野草、野鳥、昆虫などについての質問に答える。また、自然生態園の中にある木道を自然解説員と歩きながら観察する「湿地の観察会」も行われる。
 また、同公園の近くにある松戸六中の脇にある広場内にはその名も「千駄堀湧水」がある。

篠田良夫さんらによる「上総掘り」の作業

「上総掘り」跡地に作られた「森の井戸21」

21世紀の森と広場の千駄堀池

松戸六中の近くにある千駄堀湧水

子和清水

 常盤平駅前から続くけやき通りと県道松戸鎌ヶ谷線(281号)がぶつかる交差点に緑地がある。子和清水という養老伝説が残る場所で、緑地内にはこの伝説にちなんで整備された小さな泉もあるが、人工の泉だと思われる。
 緑地内には平成4年に松戸東ライオンズクラブの結成10周年を記念して建てられた手押しポンプと子和清水の像、平成5年に建てられた「養老伝説の地 子和清水」の石碑がある。像の碑文には伝説について次のように書いてある。
 「むかし、この近くに酒好きな老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに、外から帰るときには、酒に酔っている。息子がいぶかって父のあとをつけてみると、こんこんと湧き出る泉を手で掬(すく)って、さもうまそうに『ああうまい酒だ』といって飲んでいた。父が去ったあと息子が飲んでみると、ただの清水であった。この話をきいた人々が『親はうま酒、子は清水』というようになった。各地にある子和清水、古和清水などはこうした伝説による泉です」
 また、松東俳壇が昭和57年(1982)文化の日に建てた小林一茶の句碑もある。
 「母馬が番して呑ます清水かな」
 広大な野馬の放牧場だった小金牧を詠んだ句のようだ。
 県道松戸鎌ヶ谷線は鮮魚(なま)街道の一部。鮮魚街道は江戸時代に銚子港で水揚げした鮮魚を利根川を使って船で運び、布佐で一旦陸揚げ、松戸まで馬の背に乗せて輸送した。松戸からは再び船に乗せて江戸川を使って日本橋まで運んだ。関宿付近の水位が下がって船による輸送が困難になる冬季の鮮魚の輸送路だった。人や馬もこの泉の水で一息入れたのだろうか。

子和清水の泉、句碑、銅像

 ※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)、「松戸の昔ばなし」(岡崎柾男)、「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)

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