大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場
千葉常胤と松戸
今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。2月20日の放送では、石橋山の戦いに敗れた源頼朝(大泉洋)が房総半島の安房国に逃がれてきた。頼朝は上総介広常(佐藤浩市)と千葉常胤(岡本信人)を味方につけようとする。千葉氏は松戸市のある下総国を平安時代の終わり頃から鎌倉時代、南北朝時代、室町時代にかけて掌握していた。千葉氏は頼朝を助け鎌倉幕府創設に貢献した。地方豪族から幕府の御家人となったことで、大きく発展していくことになる。だが、上総介広常と千葉常胤は13人には入っていない。【戸田 照朗】
「坂東武者」のプライド
古代の日本において「東国」とは鈴鹿関・不破関より東方の地域を指していた。大和朝廷にとって東国は武力の供給源として認識され、遠く九州の防衛にあたる防人(さきもり)にも主に東国の兵士が当てられた。
8世紀に蝦夷(えみし)との戦争が激しくなると、新たに「坂東」という枠組みが成立する。坂東とは、相模、武蔵、下総、上総、安房、常陸、上野、下野の8か国を指し、現在の関東地方とほぼ重なる。
蝦夷とは、東北部(新潟県北部、東北地方、北海道南部)に住んでいて、大和王権・律令国家の支配に組み込まれていない人々を指す。
蝦夷との戦いの中で、坂東は兵士・兵糧の供給地となる。特に8世紀後半から9世紀初の「三十八年戦争」で坂東は疲弊したが、一方で武士が成長する素養が、この地域に生まれることになる。
ドラマの中でよく「坂東」とか「坂東武者」といった言葉が聞かれるが、都の人々からは田舎者と蔑まれながらも、「兵(つわもの)」としてのプライドも見える。
千葉氏は平氏の一族
桓武天皇は積極的に征夷(蝦夷との戦争)を行ったことで知られる。その桓武天皇のひ孫の高望王(たかもちおう)が「平(たいら)」の姓を受けて上総国に定着し、千葉氏の祖となった。ドラマに出てくる上総介広常も同様に平氏の流れをくむ。高望王は物部氏永の反乱の鎮圧のために上総介として任命された。
ちなみに「介(すけ)」とは国司(役人)の官位だ。下総国には守(かみ)、介、大掾(じょう)、少掾、大目(さかん)、少目がいた。
都の皇族・貴族は国司に任命されても、任地に赴かないことも多かった。介はナンバー2の官職だが、土着の有力豪族が担う場合、実質的には国の実権を握ることになった。
千葉常胤は下総介、千葉介とも呼ばれる。上総介広常が上総国の実質上の主(あるじ)で、千葉常胤が下総国の実質上の主だったことが分かる。
高望王から始まる平氏の子孫には、源頼朝の宿敵となる平清盛や天慶の乱(935~40年)を起こした平将門がいる。将門は高望王の孫にあたる。将門は一時は関東の大半を掌握し、「新皇」を自称して関東の独立を標ぼうした。
将門の本拠地は下総国豊田郡(茨城県常総市)で、松戸市域もその勢力下にあったと思われる。沼南町や市川市、我孫子市などには将門に関する伝承が多く残されている。松戸市内でも紙敷(かみしき)は将門の上屋敷(かみやしき)があったことから、言葉が変化して地名がついたという説がある。
治承4年(1180)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は房総半島に逃げてくる。千葉常胤は頼朝を快く迎え入れ、助けた。
平氏の流れをくむ千葉氏が源氏再興を目指す頼朝を助けるのには理由があった。
これより約150年前の万寿4年(1027)に平忠常が乱を起こし、下総、上総、武蔵の3国を掌握した。朝廷は度々鎮圧の兵を差し向けたが、うまくいかず、乱は4年に及んだ。そこで、甲斐守源頼信を追捕吏として派遣した。平忠常は降伏後、病死した。忠常の子の常将も罰せられるはずだったが、頼信のとりなしによって罪を許された。
常将と子の常長らは奥州で起こった前九年の役(1056年~)、後三年の役(1083年~)に従軍し、頼信の子源頼義や義家、義光に協力した。千葉常胤が源頼朝を助けたのも、先祖が源氏から受けた恩に報いるためだったのだろう。
ドラマの中で、源頼朝は甲斐源氏の棟梁・武田信義(八嶋智人)を嫌っている様子だった。甲斐源氏の祖は義家の弟・義光だといわれる。頼朝はめぐりめぐって甲斐源氏にすでに助けられていたのである。
頼朝が挙兵する前、 以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げたが、京都の宇治で敗れた。この情報を頼朝にもたらしたのは、京都を警護する公役(くやく)から帰ってきた三浦義澄(佐藤B作)と千葉常胤の六男・胤頼だった。
8月23日に石橋山で敗れた頼朝は、わずか2か月後の10月には相模国に入り、鎌倉で政権を樹立している。この電撃的な反転攻勢を支えたのは上総介広常と千葉常胤だった。
上総国、下総国を確保した頼朝はこの地に止まる可能性もあったが、鎌倉を目指すように進言したのは千葉常胤だったという。
下総国から武蔵、相模に行くには太日川(江戸川)、隅田川を渡らなければならない。千葉常胤は両川流域に勢力を持つ葛西氏と姻戚関係にあり、その協力を得て、頼朝軍を安全に渡河させることができた。
その後の常陸国の佐竹氏との戦い(1180年)、平氏の滅亡(1185年)、奥州藤原氏の滅亡(1189年)など一連の戦いに千葉常胤は頼朝に信頼される指揮官として活躍し、幕府の中枢に入ることになった。
頼朝は恩賞として千葉常胤とその6人の子供達に陸奥、常陸、上総、武蔵、相模、美濃、肥前、薩摩、大隅など全国各地に所領を与えた。この時、肥前など九州の国に所領を得たことが、後に九州千葉氏と高城氏(小金城主)の誕生にも関わってくる。
源平合戦の功労者といえば、源頼朝の弟・義経(菅田将暉)だが、その義経が木曽義仲(青木崇高)と京都の宇治川を挟んで戦った宇治川の合戦では、野馬の放牧地・小金牧で生まれた名馬・生月(いけづき)と摺墨(するすみ)が活躍したという。
役目を終えた生月は、小金牧に戻って余生を送った。亡くなった生月を祀った塚の上に建てられたのが、高塚新田の八幡神社だという。地名の由来にもなっている。
上本郷の風早氏
鎌倉時代の松戸市には風早郷という村落があった。その中心は上本郷で風早氏を名乗る武士がいた。その名前は今も風早神社に残されている。風早神社のある場所には風早氏の城館があったと考えられている。
風早入道四郎胤康(胤泰)は千葉常胤の孫で、千葉氏だが土地の名前を姓に当てた。
鎌倉幕府は第3代将軍実朝が殺害された後は、京都から将軍を迎えるようになった。そして実権は頼朝の妻・北条政子(小池栄子)と、ドラマの主人公第2代執権・北条義時(小栗旬)が握ることになる。
これに不満を抱く後鳥羽上皇は北条義時追討の命令を出した。承久の乱(1221年)である。北条時房・泰時を大将とする鎌倉方は、近江国勢多・山城国宇治で朝廷方を破り、後鳥羽上皇を隠岐に配流した。貴族社会から武家社会へと移行する画期となった決定的な事件である。
風早四郎は、宇治の合戦で活躍。一人を討ち取ったと鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にある。
曽我兄弟が親の敵(かたき)である頼朝の側近・工藤祐経(坪倉由幸)を討った仇討ち事件を描いた「蘇我物語」にも風早氏の名前が出てくる。
また、風早入道四郎胤康か、その子孫の話として、次のような伝説が伝わっている。
戦(いくさ)で敵に追われた風早様は背の高いとうもろこし畑に隠れて九死に一生を得たことがある。しかし、その時とうもろこしの鋭い穂先に片目を突かれて、片目が不自由になってしまった。それ以来、上本郷ではとうもろこしを植えた人には、怪我や病気など不幸な出来事が起こるようになり、植える人がいなくなったという。
千葉頼胤の居館
室町時代末期に書かれたという「鎌倉大草紙」には、次のようなことが書かれている。
千葉常胤から数えて6代目の頼胤は小金に居住していた。鎌倉極楽寺の良観上人に頼んで来てもらい、小金の馬橋というところに大日寺を建立して、頼朝公より代々の将軍、千葉一門の菩提を祈った。頼胤の孫の貞胤の時、この寺を千葉へ移した。しかし、大日五仏の尊像は良観が自ら作ったもので、霊仏にして威力あらたかで、この地に残った。貞胤、氏胤が在城の頃に(室町幕府の)足利尊氏将軍の菩提を弔うために夢想国師(むそうこくし)の弟子の古天和尚(こてんおしょう)に頼んで来てもらい、この寺の中興開山として萬満寺と号した。
千葉頼胤の居館があった場所を郷土史家の松下邦夫さんは二ツ木の台地に想定した。同地にある蘇羽鷹神社は千葉氏一族の守護神であり、一帯には、「上ノ台」「立山」「作台」といった城館に関係ある字名がある。「立山」は「館山」、「作台」は「柵台」に通じる。
また二ツ木に隣接する三ヶ月(みこぜ)は千葉氏の家紋である三日月に通じる。
千葉氏には九州の肥前国(佐賀県)小城(小城市)に所領があり、頼胤は九州防衛の任にあたっていた。蒙古軍が襲来した文永の役(1274年)に出陣し、その際に受けた傷がもとで翌建治元年(1275)、小城晴気(佐賀県小城市小城町晴気)で37歳で亡くなった。
頼胤の子の宗胤は大隅国(鹿児島県)の守護職を務め、宗胤の子の胤貞は九州千葉氏の祖となった。
一方、千葉介は頼胤の子の胤宗と、胤宗の子の貞胤が継いだ。
南北朝の争乱期には胤貞と貞胤が、いとこ同士で争った。
胤貞の話か貞胤の話か分からないが、戦い疲れて小金の城館へ戻ったところ、城は荒廃して住むことはできなかった。この城主の痛ましい姿を見た農夫が傍の松の枝三本を折り、憩いの場を作ってあげた。
城主は妙見様を背負って千葉の館へ帰り、その跡に建てられたのが中根の妙見社だという。
農夫はその時に「三枝松」の姓をもらい、それからは千葉妙見社祭礼の際の開扉は馬橋の三枝松氏が行うことになり、これは明治の初め頃まで続いたという。
平賀の長谷山(ちょうこくさん)本土寺は、建治3年(1277)豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の高弟日朗(にちろう)を導師として招き、開堂したのが起こりとされている。
平賀六郷といわれ、6つの村があった平賀は、中世には千葉氏一族の畠山祐昭が支配しており、平賀忠晴は弟ではなかったかといわれている。
建治3年は忠晴が亡くなった年で、平賀村狩野(神野とも)にあった本土寺の前身となる草庵を忠晴の屋敷内に移した。
一族は熱心な日蓮宗の信者で、忠晴の子孫からは日像、日輪などの高僧が出ている。開堂供養には日蓮上人の出席を願ったが、都合悪く実現できなかったため、弟子の日朗が導師を務めた。
本土寺は下総国における日蓮宗の中心寺院の一つで、同じく日朗の開創した鎌倉長興山妙本寺、池上長栄山本門寺と共に「朗門の三長三本」と称されたという。
原氏と高城氏
南北朝時代に一族で争った千葉氏は力を落としてゆき、松戸市域は室町時代は原氏、戦国時代になると高城氏が支配した。
後に小金城主となる高城氏の出自については九州千葉氏、藤原姓二階堂氏、奥州相馬氏などいくつかの説があるが、確定的ではない。高城氏で実名が確定できる16世紀の4人は、胤忠、胤吉、胤辰、胤則と「胤(たね)」の字がつく。これは千葉氏に共通する特徴で、原氏も同じく「胤」の字が入る。原氏と高城氏が千葉氏一門としての扱いを受けていたことは確かなようだ。
高城氏の一族で小金城を縄張(設計工事)した阿彦(あびこ)丹後入道浄意の子孫である八木原五右衛門は江戸時代の正保3年(1646)に高城家の由来を編さんしており、それによると、室町時代の南北朝の動乱の頃、千葉常胤に高胤という子がいて、高胤には後に原氏を名乗る親胤(ちかたね)と、高城氏の祖となる胤雅がいた。胤雅はひところ肥前国(佐賀県)佐嘉(賀)郡の高城村(大和町。市町村合併で現在は佐賀市)に居住したので、高城を名乗るようになったという。
原氏に続いて高城氏が下総国に帰国したのは60年間続いた南北朝の争いが終わった正長元年(室町時代の1428年)だったという(寛正元年=1460との説もある)。高城氏は熊野新宮の侍だったという伝承もあり、帰国の途上、一時熊野(和歌山県)にいて、様子をうかがっていたのかもしれない。
高城氏は安蒜、鈴木、座間、田口、血失(染谷)、田嶋(戸辺)、池田、小川、斉藤、藤田など多くの家臣を引き連れて栗ヶ沢に入ったという。栗ヶ沢には高城氏の館があったというが、その跡を思わせるような遺構は見つかっていない。
寛正3年(1463)には、高城胤忠が根木内に本格的な城を建設して、ここを本拠とした。その跡は一部が根木内歴史公園として保存されている。また、近くには出城的砦として行人台城があった。ここでは、激しい戦闘が行われた。
さらに高城胤吉は大谷口にこの地方最大級の小金城を築いた。工事は亨録3年(戦国時代の1530年)から始まり、7年後の天文6年(1537)に完成したという。本土寺参道の西側一帯の台地上にあり、東西800メートル、南北600メートルに及ぶ広大な城だった。ただ、原氏が小金城を出た後に高城氏が城主となったという見方が有力なので、この工事は大改修工事といったものだったのかもしれない。小金城も大谷口歴史公園として、その一部が保存されている。
小金城は、人々から「開花城」とも呼ばれたという。竣工祝いには佐倉城の千葉介昌胤が来城した。小金城主高城胤吉の妻(後の桂林尼)は、千葉介昌胤の妹だった。昌胤は本城内の賓館で9月28日までの一週間を過ごした。その間、昌胤は胤吉の案内で、野馬の放牧地・小金牧を訪問。平家物語に出てくる頼朝の家臣・佐々木四郎高綱(たかつな)が乗馬した名馬・生月、同じく梶原景季(かげすえ)が乗馬した名馬・摺墨を呼び寄せたという伝説がある柏市の呼塚(よばづか)、頼朝の鞍懸(くらかけ)の松の伝説が残る流山市の諏訪神社を巡り、10頭(別説では3頭)の馬を捕まえて小金城に帰った。また、茶会で遊んだ日もあったという。戦国の世を生きた高城氏にとっては、つかの間の繁栄と平和なひと時だったのだろう。
高城氏は安房の里見氏に対抗するため、小田原の北条氏(鎌倉幕府の執権・北条氏とは別の氏族)に接近した。戦国時代の終わりには、これが仇(あだ)となり、天下統一を目指す豊臣秀吉の関東攻めで小金城は落城した。
江戸時代に入ると、その末裔(まつえい)胤次(後に重胤)が第2代将軍徳川秀忠に取り立てられ、旗本となって再興を果たした。
執権北条氏の居城
ドラマの主役は後に鎌倉幕府の第2代執権となる北条義時だ。
建長元年(1249)安房、上総、下総3か国の守護職にあった北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村(東金市)と松戸の岩瀬村に城を築いたという説がある。北条長時は第6代執権。岩瀬の城には、数代にわたって長時の家臣達が居城したという。
嘉歴元年(1326)には北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城した。
高時は第14代執権。 相模守であったことから、相模台の地名がついたと言われている。
正慶2年(1333)高時は上野国で挙兵した新田義貞に攻められ、鎌倉の東勝寺で自殺した。北条氏は滅亡。鎌倉幕府は140年の歴史に幕を下ろした。
※参考文献=「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「東葛の中世城郭(千野原靖方・崙書房出版)、「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)