松戸の文学散歩 旅人と松戸②
古代から交通の要衝だった松戸は、文学作品の中で登場人物が旅の途中で立ち寄った場所として度々登場する。「旅人」に焦点をあてて文学作品を紹介する。【戸田 照朗】
司馬遼太郎「世に棲む日日」
上本郷の本福寺の門前に「吉田松陰脱藩の道」という石碑がある。
桜田門にあった長州藩の江戸藩邸を抜け出した吉田松陰は東北旅行に出かける道すがらこの本福寺で一晩の宿を得た。
司馬遼太郎の「世に棲む日日」は、文春文庫4巻にもなる長い作品で、前半は吉田松陰、後半は松下村塾の弟子・高杉晋作を中心に書かれている。
その中で、松陰が本福寺を訪ねるくだりは、序盤の「脱藩」という稿に見られる。
追っ手を恐れた松陰は、松戸宿から東北に半里(2キロ)離れた山中に分け入り、本郷村の本福寺の門を叩いた。了音(りょうおん)という住職は、見知らぬ若者を親切にもてなしてくれた。
「松陰はこの点、楽天家であった。ひとの好意を天性うたがえないたちであり、そういうたちが人柄の照り映えになって、ゆきずりの他人もついこの若者を可愛くなるのかもしれない」
この稿はこう結ばれている。この稿だけでなく、著者は度々この若者の人柄に触れている。松陰はこの時21歳だった。
松陰吉田寅次郎(幼名・寅之助)は、文政13年(1830)、長州萩城下松本村(山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。天保5年(1834)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となった。その後、大助が死亡したため、幼くして吉田家の当主となる。裕福な家ではなかったが、藩は兵法を修める吉田家の松陰の教育を気にかけており、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けたほか、何人もの師がついた。全て藩命である。8歳にして藩校・明倫館の教授見習になった。10歳で藩主・毛利慶親の前で御前講義を行った。藩主自らがテストを行う「親試」と呼ばれる行事が12歳、14歳、16歳、17歳、18歳の5度行われた。
特に叔父の玉木文之進の教育は厳しく、現代の常識からすれば児童虐待ではないか、と思うほどである。母のお滝は「物事の価値をあかるいほうに転じさせてしまう性格」で、松陰もこの性格を引き継いだのか、トラウマになることもなく、むしろ自身の行動を原理原則に照らして厳しく律していくところがある。勉学の妨げになると考えてか、それとも幼さが残るためか、女性に対しては羞恥心が強い。
「松陰というこの若者はどうやら家族や一族だけでなく、藩ぐるみで生みあげた純粋培養といえるかもしれない」
司馬遼太郎の文章は、時に随筆のように著者の雑感が顔を出すところが面白い。それだけに、読みやすい。三百諸侯あったという江戸時代の各藩には、人間のようにそれぞれ性格があった、という。長州藩は勉強熱心で、そして若者に甘かった。
松陰は長崎・平戸への遊学を願い出る。山鹿流兵学の始祖・山鹿素行の子孫で平戸藩の家老・山鹿万介に師事するためだ。この時代、藩を出て旅をすることは容易に許されなかったが、勉学のためなら、とばかりに許しが出る。
当時は地方の各藩に優秀な学者がおり、勉学には旅行も必要だった。九州遊学という人生初めての旅で松陰は多くの師と出会った。
その中に、熊本藩の宮部鼎蔵(ていぞう)がいた。二人は意気投合。宮部は松陰より10歳年長で、松陰は宮部を師とも親友とも思う。
宮部は江戸に行くという。江戸で宮部と共に学ぶことを夢見た松陰は帰国後すぐに江戸留学を願い出た。これも許され、松陰は江戸に行くことになった。
宮部と再会した松陰は、江戸で知り合った南部藩(青森)の江幡五郎と東北旅行を約束する。藩に願い出て準備は順調に進んでいたのだが、藩主が急用で帰国したため、「過書手形」(通行手形)が出発の日までに準備できなかった。手形がなくても旅行した例はあり、形式上のことだと松陰も甘く見ていた。同藩の友人・来原良蔵が江戸藩邸の重役を説得しようと動いてくれたが叶わず、松陰は脱藩を決意する。
儒教思想のタテの関係が重んじられる時代に松陰は友情(友との約束)というヨコの関係を重視したのである。脱藩は重罪で、罪は国元の家族にも及ぶ。
松陰は東北への旅を「東北遊日記」という日記に記しており、著者の記述もこの日記を参考にしている。
水戸から会津、新潟、佐渡、ふたたび新潟にもどり、秋田、弘前、青森、盛岡、仙台、米沢、日光、足利、館林と旅をして、利根川から江戸に行くという船頭に船に乗せてもらった。
「関宿で夕陽を見、船頭とともに堤の上の茶店に入ってこの旅行における最後の夕食をとった」
帰りはちょうど3面の田山花袋の「朝」と同じようなルートを通って帰ったのだ。松戸河岸の前も通ったであろう。12月14日から140日にわたる長い旅だったが、大きな収穫はなかったという。それだけに、著者の記述も少ない。
驚いたのは松下村塾が吉田松陰の創設ではなく、叔父の玉木文之進が開いた塾であったこと。出身地の松本村の塾であるというぐらいの意味のようだ。当時の建物が今も萩市に残っている。松下村塾は、この作品のもう一人の主人公である高杉晋作をはじめ、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋らを輩出した。
当時はアヘン戦争で清(中国)がイギリスに敗れた後であり、松陰は欧米の侵略に対する危機感が強かった。
吉田松陰は安政6年(1859)の「安政の大獄」で処刑された。満29歳だった。高杉晋作も満27歳で病死した。
小説には出てこないが、松陰は本福寺に宿泊した翌朝、村の子どもたちを集めて講義をしている。明和七年(1770)の墨筆がある机が3つ同寺に残されており、一番大きな机を松陰が使ったのではないかという。
境内には「上本郷の七不思議」のひとつ「斬られ地蔵」があるほか、 同寺脇の「井戸坂」の下に「上本郷湧水」(カンスケ井戸)がある。
田山花袋「朝」
田山花袋の「朝」は、一家族が船を使って上京する姿が描かれた短編小説である。江戸時代が終わり明治時代になっても川は主要な交通路として使われていた。今ではちょっと想像できないが、群馬県館林市から東京まで船で行くのである。
一家族というのは、田山花袋の母と思われる主婦(あるじ)と祖父母、花袋と思われる少年と弟である。ただ一人称で書かれているわけではない。今の小説であれば少年の目線から描きそうなものだが、ただ淡々と家族と船旅の様子が描かれている。
明治時代の文学運動「自然主義派」の代表的な作家として知られる田山花袋。「布団」「田舎教師」などの作品が有名だ。
花袋の家は武士の家系で、直接作品には書かれていないが、父は明治維新後に警視庁に職を得たが、西南戦争に従軍して戦死した。西南戦争は薩摩の西郷隆盛が不平士族に担がれて挙兵した不平士族の反乱としては最大の戦いである。
作家がこの時代を想像して書いた作品というのは数多(あまた)あるが、田山花袋は実際にこの時代を生きた人物である。それだけに当時の庶民が感じていた空気がリアルに伝わる。
家族は東京で「月給取」になった息子を頼って上京することになった。すでに一人娘は機屋(はたや)に嫁いでいる。上京が決まると娘は「私ばかり置いて行くのかえ、母(おっか)さん」と言って泣いた。
汽車もあったが「今のやうに便利でなかつた。運賃も高かつた」。蒸気船も東京から毎日来ていたが、家族は和船で行くことにした。船頭が櫓(ろ)をこぐ帆船である。
主婦は、老人と子どもの世話で忙殺されていた。酒好きの爺さんは酔うと癖の悪いところがあった。船の中でも朝から酒を飲んでいる。
船には隣に住む爺さんも同乗していた。家族の家よりも家柄が良かったが、没落しており、金を持っていなかった。息子が早く死に、娘は鹿児島出身の中学校の教師に見染められて嫁に行った。「豪(えら)い婿さんが出来た」と近所でも評判になったが、一年後、娘が懐妊すると、娘を里に預けたまま東京に出て音信不通になった。約束した仕送りも送らず、手紙も付箋をつけたまま戻ってきた。婿を探しに東京に行くのにもお金がなく、そこへ隣家が上京するという話が出てきたので、家族がチャーターした船に無賃(ただ)で乗せてもらうことになったのだ。だから肩身の狭い思いをしている。
7月の暑いころで、2人の船頭は暑くなるとどこかの河岸で休み、夕方になって涼しくなると船を進めるというマイペース。一行は少々イライラしている。
船は渡良瀬川を下り、思川(おもいがわ)と合流。やがて利根川に入る。江戸川という名前は出てこない。矢切を舞台にした伊藤左千夫の「野菊の墓」でも江戸川を利根川と書いていて不思議に思ったが、明治の初期にはまだ一般的に江戸川が利根川と呼ばれていたのだろう。
具体的な地名は出てこないが、流山、松戸、市川の風景を書いたと思われる部分がある。
有名な白味淋の問屋があり、酒も灘酒(なだ)に匹敵するようなのが出来る「川に臨んで白堊造(しらかべづくり)の土蔵の見える処」とは、流山のことだろう。ここで酒好きの爺さんはちょっと船を降りて酒を買ってくる。
次に出てくる「徒歩(かち)で行けば其処(そこ)から東京まで三里位しかないという河岸(かし)」(松戸河岸)で船頭は船を泊め、涼しくなるまで休む。
酒好きの爺さんに酔った勢いで嫌味を言われて、いたたまれなくなったのか、隣の爺さんはここで船を降りて東京まで歩くと言い出す。主婦と酒好きの爺さんはこの申し出を快く思わなかったが、三里といえばまだ12キロもある。気の毒な気もするが、2面で紹介した司馬遼太郎の「世に棲む日日」には、「東海道を旅する者は一日七里(二十八キロ)というのが常識だった」とあるので、三里というのは当時としては近い距離だったのかもしれない。
隣家の爺さんが降りた後、「涼しくなつた頃から、船頭は船を漕ぎ出し」、「古戦場だといふ高い崖の下を通る」。古戦場とは、戦国時代に国府台の合戦が行われた矢切の斜面林や里見公園(市川市)の辺りだと思う。
二泊三日の船旅はやがて東京の深川に着いて終わる。船の中で二泊。東京に入っていく掘割の「川口」という船着で一時下船して酒好きの爺さんが親しくしていた料理屋で、「生魚(なまうを)とむきみ汁」を食べた。流通が今ほど発達していなかった当時、館林という内陸に住んでいた家族にとって、新鮮な海の魚介は珍しいものだったのかもしれない。
船は煮炊き、宿泊ができるようになっており、船頭の「上(かみ)さん」が川の水で米を炊(と)ぐシーンがある。当時の川の水はそれほど美しかったのだ。
※参考文献=「まつど文学散歩」(宮田正宏・編)