本よみ松よみ堂
中村哲・(聞き手)澤地久枝著『人は愛するに足り、 真心は信ずるに足る アフガンとの約束』
アフガンの人々に寄り添い、銃弾に倒れた中村哲医師の想い
アフガニスタンという国の名前を初めて聞いたのは、私が中学校2年生の時だった。1979年のクリスマス・イブ。ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。アメリカを中心とする西側諸国はこれに猛反発。ニキビ面の少年たちは、教室で顔を見合わせて、本当に戦争になるのでは、と心配した。東西冷戦の厳しい頃で、当時読んだ石森章太郎(石ノ森章太郎)の「サイボーグ009」では、近未来にアメリカと中国が核戦争を起こすという設定があった。私は「あれ? ソ連とじゃないの?」と思ったが、当時、第3次世界大戦はわりと現実味のある話だった。
翌年のモスクワ・オリンピックを西側諸国がボイコット。日本もこれに同調して、柔道の山下泰裕氏(現JOC会長)が泣いていたのをよく覚えている。4年後のロサンゼルス・オリンピックを今度は東側諸国がボイコットした。
現在、北京オリンピックの「外交的ボイコット」への対応が取りざたされているが、当時はもっとひどくて、選手団自体が送られなかった。
今回紹介する本は家で「積読(つんどく)」になっていた本で、2010年2月に出版された本だ。「そういえば」と読んでみる気になったのは、今年の8月に米軍が撤退し、タリバン政権がアフガニスタンを制圧したというニュースがあったからだ。
ソ連軍が撤退したのは侵攻から10年後の1989年。その後内戦が起き、タリバン政権ができた。そして、2001年9月11日、アメリカを襲った同時多発テロを引き起こしたアルカイダをタリバン政権がかくまっているとして、米軍による空爆が始まった。その米軍も20年後の今年、撤退。タリバン政権が復活した。多くのアフガニスタンの民間人と米兵に犠牲を出したこの戦争は何だったのか。
このニュースを聞いて、2019年12月4日に車で移動中に武装勢力に襲撃され死亡したPMS(ペシャワール会医療サービス)の中村哲医師のことを思い出した方も多いと思う。
中村医師は2001年10月の衆議院のテロ対策特別措置法案審議に参考人として出席し「自衛隊の派遣は有害無益」と語ったが、中村医師に対して野次り、嘲笑し、発言の撤回を求める議員までいたという。
中村医師は2008年11月の参議院、外交防衛委員会にも参考人として呼ばれ、「陸上自衛隊の派遣は有害無益、百害あって一利なし」と話している。
アフガニスタン人の日本人に対する感情は非常に良く、厄除けのように日の丸とJAPANの文字を車につけていた。しかし、米軍と同じ側に見られるようになり、それを消したという。
この本が出版された時点で中村医師は60歳を越え、25年もアフガニスタンで活動を続けていた。国会議員たちはどうして、現地の状況を肌で知る中村医師の声に真摯に耳を傾けなかったのだろう。
澤地久枝さんは、2008年8月から中村医師の帰国の度に断続的にインタビューを続け、この本を完成させている。
中村医師は1年の3分の2はアフガニスタンにいて3分の1は日本にいるという生活。日本にいる間は「報告講演会」を各地で開いて資金を募る。会員の会費と寄付で16億円を集め、2009年8月には24・3キロの灌漑用の水路を完成させた。沙漠化した大地は見違えるように緑の大地に変わった。
16億円は確かに大金だが、先進国が水路建設に力を貸せば、戦費のほんの一部でアフガニスタンが緑の国土を取り戻すことができるだろう。飢餓も争いもなくなる。
中村医師は最初はキリスト教の派遣医師としてアフガニスタンの山岳地帯でハンセン病患者の治療をしていた。その後、大干ばつのために飢えと病気に苦しむ人々を目の当たりにして千を超える井戸を堀り、水路建設の土木工事の指揮をするようになった。必要なのは水だということに気がついた。
この本のインタビューが行われた頃は、現地ワーカーの伊藤和也さんが拉致、殺害されるという事件が起きたころで、日本人スタッフは全員帰国し、中村医師だけが現地で活動を続けていた。
巻末には中村医師が書いた本と参考書が書かれている。講演や著書が多くても、中村医師は自身のことについてはほとんど語らないので、澤地さんは中村医師という人物を生んだ背景にも焦点を当てている。
父の勉さんは、大正期からの社会主義者で治安維持法の下でひどい目にあった。叔父は小説家の火野葦平。父と叔父は北九州若松港の労働争議の支援をし、検挙、起訴され、勉さんは実刑判決を受けている。
中村哲少年は分からないなりに論語をそらんじ、西南学院中学で洗礼を受けた。昆虫が好きでファーブルのように昆虫の研究をするのが夢だったが、「世の中の役に立つ人に」という父の教えから医師になった。
アフガニスタンに医師として派遣された当初は家族も一緒で7年間を過ごしたが、子どもたちの教育の問題もあり、家族は日本に返した。
5人の子どもたちのうち、末の男の子を10歳で病気で亡くしている。忙しくアフガニスタンと九州を行き来する中で、最後の1か月は傍にいることができたという。
米軍の空爆で幼い子どもの命を奪われたアフガニスタン人の親の気持ち、若い伊藤和也さんを失った親の気持ちも痛いほど分かる。
タリバンとはアラビア語で「学生たち」の意味があるという。80人のタリバンを殺したという報道が、実は80人の子どもだったことがあったという。
現地でマドラッサという施設を建設した時、水路を建設した時以上に喜ばれたという。マドラッサは伝統的な寺子屋のようなところで、モスクを中心にした識字教育をするところ。地域の争いの仲介役をする地域の共同体のかなめだという。マドラッサで学ぶ子どもをタリバンと呼ぶが、政治勢力のタリバンとは違うものだ。 このマドラッサを米軍は空爆の対象にしていた。
日本人が村の鎮守の森を爆撃されたらどう思うだろうか。それぞれの国には人々が大切にしている心のよりどころのような施設がある。
アフガニスタン人は誇り高く、復讐の掟がある。米軍の空爆は、彼らの憎悪を増大させただけだ。撤退は当然の帰結といえる。
この本の中で、生前の中村医師は自分の死後はペシャワール会の活動は続かないと思っていたようだが、遺志を継いだスタッフによって、今もアフガニスタンでの事業と活動は続けられている。【奥森 広治】