本よみ松よみ堂
中島京子著『やさしい猫』
家族を引き裂く入管問題を少女の目線でわかりやすく
この小説を読みながら、東京出入国在留管理局の廊下の白い冷たい壁を思い出していた。もうずいぶん前の話になるが、取材したフィリピン人の家族が収容されそうになり、私は外国人家族を支援しているNGOの人たちと入管に来ていた。家族の力になれるかは分からないが、職員の話を聞き、家族が面接に行く前に、たまたま持っていた神社のお守りを手渡した。この日のために用意したわけではないが、無事に戻ってきてくれることを願った。
ご主人は、バブルの頃に日本に来て、建設現場の基礎工事をしてきた職人だ。日本人がやりたがらない地味できつい仕事を支えてきた。真面目な人で税金もきちんと納めてきた。入管の問題とは別に、給料の未払いという労働問題も抱えていた。
別の仕事で入国した奥さんと、当時中学生の娘さんと小学生の息子さんがいた。子どもは二人とも日本で生まれ、日本の学校に通い、日本語で生活してきた。フィリピンに返されても、言葉も習慣もわからずに困るだろう。奥さんはストレスのため、かなりきつそうだった。
幸い、この日の収容はなく、家族は無事に部屋から出てきた。後に在留特別許可が出て、年賀状には入管の前で撮った笑顔の家族写真がついていた。在留特別許可は法務大臣の裁量によるもので、基準がよくわからない。 娘さんはその後、日本の大学に行ったと聞いた。
日本で家族一緒に穏やかに暮らしたい。外国人の家族にとっては、こんなささやかで当たり前だと思える願いを叶えるのに、長い時間と大変な心労がかかるのだ。
この小説は、高校生のマヤが「きみ」に家族の記録を残すために書いている、という形をとって、日本の入管行政という、わかりにくい問題が、わかりやすく書かれている。「きみ」とはだれなのか。最初は読者に語りかけているのかと思ったが、途中でだれなのかは想像がついた。
マヤはお母さんの「ミユキさん」と二人暮らし。お父さんとは、3歳の時に死別した。保育士をしているミユキさんは東日本大震災のボランティア活動で、スリランカ人の「クマさん」こと、クマラさんと知り合った。クマさんの両親はスリランカを襲った津波で亡くなった。その時に援助してくれた日本に恩返ししたいとボランティア活動を始めたスリランカ人の友人を手伝っていた。クマさんは、日本語学校、専門学校を出て自動車整備会社で働いていた。二人は東京で偶然再会し、交際を始めた。クマさんは、ミユキさんとの結婚を望んだが、幼いマヤをかかえたミユキさんはすぐには「はい」と言えなかった。
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」というアドバイスを会社の人から得たクマさんは、マヤの面倒をよく見るようになった。マヤの幼い記憶の中のそこかしこにクマさんがいる。
マヤが中学3年生になったころ、ようやく二人は結婚することになった。マヤは幸せそうな二人を題材に絵を描いた。「ハピネス」と題したその絵は、コンクールで賞を取った。
しかし、クマさんが勤めていた会社が倒産したことで、事態は暗転する。ビザの切れたクマさんは、オーバーステイになり、クリスマスの日に入管に相談するために出て行ったきり、戻ってこなかった。入管の最寄り駅、品川で警官に職務質問を受け、逮捕されたのだ。
クマさんのオーバーステイはわずか3か月。会社の倒産をミユキさんに言えずに、就職活動をしていた間に期限が過ぎてしまった。入管の取り調べでは、正式な入籍が遅かったことが、ビザ目的の偽装結婚ではないかと疑われた。二人が結婚に至るまでに起こった様々な普通の出来事が、入管では全て悪意にとられる。
後半は法廷劇になる。二人の結婚が本当の愛情によるものであることを「証明」しなくてはならない。
ミユキさんとマヤは元入管職員の上原から入管問題、労働問題を専門にしている弁護士、ハムスター先生こと恵(めぐみ)耕一郎弁護士を紹介される。上原は自分の仕事に疑問を持ち、入管を辞職していた。
退去強制処分を受けて送還されれば、5年は日本に入国できない。一方で、帰国しなければ、収容はいつまでも続く。仮放免の申請が却下され、収容は長期に及び、ストレスと不眠からクマさんは健康を害していく。高血圧で倒れ、恵弁護士が呼んだ救急車を入管は門前払いしてしまう。同じスリランカ人で、収容中に必要な治療を受けられずに死亡したウィシュマ・サンダマリさんの事件を見ているようだ。クマさんに残された時間も刻々となくなっていく。
タイトルの「やさしい猫」はクマさんがマヤに話して聞かせたスリランカの民話からきている。ねずみの家族がいて、ある日食べ物を探しに行ったお父さんが帰ってこなかった。次に探しに行ったお母さんも帰ってこなかった。ねずみの父母は猫に食べられていたのだ。自分と同じように、ねずみにも子どもがいることを知った猫は後悔して、自分の子どもと一緒にねずみの子どもを育てた。
ミユキさんが病気をして入院をしたとき、不安な夜にクマさんがマヤの手をにぎってくれた。ねずみの家族のように、マヤはお父さんを再び失ってしまうのかと不安になる。
入管施設に収容されている外国人が非欧米諸国の人たちばかりだということも気になる。日本の難民認定率も恐ろしく低い。隠れた人種差別のような気がしてならない。
今年の4月まで約1年間『読売新聞』夕刊に連載された新聞小説に加筆して単行本にしたという。著者は、この小説を書くために、多くの資料を読み、多くの関係者に話を聞いたことと思う。労作に敬意を表する。【奥森 広治】