様々な顔を見せる相模台の歴史
鎌倉時代には城があり、戦国時代には古戦場となった相模台は、明治時代以降は松戸競馬場、陸軍工兵学校、千葉大学工学部と時代により様々な変遷を見せてきた。松戸の中心市街地にある台地の歴史を振り返る。【戸田 照朗】
相模台城と古戦場
相模台というのは、松戸中央公園や聖徳大、第一中、相模台小などがある台地だ。
ここには1249年に北条長時により築城されたといわれる相模台城(別名・岩瀬城)があった。
鎌倉幕府の源将軍家が3代続いた後、幕府の実権は頼朝の妻・政子の実家、北条家に移った。6代執権北条長時は、東金市と松戸市岩瀬に城を築き、数代にわたってその家臣が居城したという。鎌倉時代末の1326年には14代執権北条高時が出家して、岩瀬に居城した。高時が相模守(さがみのかみ)であったことから、この地を相模台というようになったという。
高時は、上野(こうずけ・群馬県)で挙兵した新田義貞に攻められて鎌倉の東勝寺で自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。この時、相模台城も落城。後に芳賀兵衛入道禅可や新田義徳などが住んだ。
時代は下って、戦国時代。後に小金城主として松戸地域を中心に勢力を拡大した高城氏は小弓城(千葉市)で苦杯をなめた原氏、主家筋の千葉氏とともに小田原の北条氏に接近。小弓城を攻め取った小弓公方こと足利義明、義明を支援する安房国の里見氏と対立した。
両軍がついにぶつかったのは天文7年(1538)10月7日。小弓公方足利義明・里見氏の連合軍は2日に国府台城に入った。三昼夜をかけて防護工事をし、主力を松戸の陣ヶ前に置いたという。一方の北条氏綱軍は7日朝に松戸対岸に着き、江戸川を渡って進軍。相模台や松戸駅周辺が激戦の地となった。この戦いは多くの軍記物語に描かれているが、それによれば北条軍は7千騎、義明軍は3千騎だったという。午後4時から3時間に及ぶ激戦の末、義明軍は義明本人、嫡子の義純、弟も戦死した。里見氏の損害は限定的だったという。
この戦いの結果、原氏は小弓城に戻ることができ、高城氏が小金城の主となった。高城氏はこの時の戦功で、北条氏から神奈川県海老名市と横浜市栄区飯島町に領地を与えられた。
聖徳大学の正門を入って左手、花壇の中に2つの塚と「相模台戦跡碑」と記された石碑がある。塚はけいせい塚(軽盛塚・経世塚)と呼ばれている。
この戦では千人以上が亡くなったという。
足利義純の乳母(めのと)れんせいは、悲報を聞いてこの地を訪れ、塚の前で一夜を泣き明かしたが、夜中、夢に血まみれの義純があらわれ、れんせいを慰めたという。
後述する陸軍工兵学校が創立された時に何も知らず塚を壊してしまい、その後いろいろな怪しいことや、不思議な事故が続いたため、再び塚を築き直したという。塚は7つあったが、それが1か所に集められた。「相模台戦跡碑」の石碑も昭和5年に陸軍工兵学校が建てたもの。
聖徳大学のキャンパス内でも校舎の増築などで昭和52年と平成7年に塚が移転している。校舎の建設に伴って発掘調査をしたところ、小塚に使われたと見られる岩石が多数発見された。そこで塚をもう1つつくって祀ることにしたという。
移転の都度法要が行われ、現在も毎月18日に因宗寺住職により法要が営まれている。
※見学希望の場合は、☎365・1111聖徳大学総務課まで事前に連絡を。
明治38年末~大正8年 松戸競馬場
相模台には現在の中山競馬場の前身となる競馬場があった。松戸競馬が開催されるようになったのは、明治38年末から39年初期にかけて。日露戦争(明治37年2月~38年9月)で日本軍はロシアのコサック騎兵に苦しんだ。軍馬の質の向上と供給のために競馬会を開催する機運が高まった。同じころ、横浜の根岸や東京の池上競馬、後の大森競馬が開かれた。
松戸競馬会は、東京の人で志士といわれる永岡啓三郎が主唱して開かれた。相模台は当時、日本鉄道株式会社の社有地となっており、同社の創設者・岩倉具視を祀る神社を勧請する予定になっていたが、これを譲り受けた。
まだ、競馬に関する法整備がなされる前で、政府は馬券の発行を黙認するという態度を示していた。
松戸競馬の経営陣は、永岡啓三郎のほかに、河野広中、森岡真、松戸三丁目の医師・山下寅吉、納屋川岸の薪炭商・田中武右衛門、納屋川岸の材木商・渋谷平蔵ら。半マイル(800m)の競馬場で、自ら開催することなく、興行師が開催し、施設を提供するだけのものだった。
法人組織としての総武牧場株式会社が認可されたのは、明治40年7月。明治39年12月の閣令によるもので、馬場は1マイルに拡張され、3棟の馬見楼、2棟の厩舎ができ、毎年春と秋に2回開催された。当時のお金で多い時は50万円、少ない時で30万円の馬券を発行したという。
しかし、当初から競馬に対する世間の批判は厳しく、八百長レースも多くなってきたため、明治41年10月に馬券の売買が禁止された。
馬券売買の禁止に伴い、総武牧場株式会社の株券は一挙に値下がりし、明治42年10月に解散。競馬場の施設は公益法人の松戸競馬倶楽部が譲り受けた。競馬会の運営は、政府の補助金と入場料(1等席5円、2等席3円)を主な収入として行われた。
大正4年からは、勝馬投票方式を取り入れ、予想的中者に景品を与えるという商店の福引方式による景品投票を始めた。また、競馬開催期間中は上野・松戸間に朝夕臨時列車を走らせて、来場者の便宜を図るという工夫もしている。
『昭和の松戸誌』(崙書房出版)の中で著者の渡邉幸三郎さん(大正14年・1925年生まれ)は、競馬場の赤煉瓦の塀が、子どもの頃から印象に残っていたと書いている。教員として松戸一中に勤めていた昭和20年代末から30年代は、「この塀の中は競馬場の厩舎の跡だったのかなどと思いながら通った」という。
『松戸市史』下巻(二)は、松戸競馬倶楽部がどうして相模台の土地を陸軍に売り、中山に移ったのかは「不明」だとしているが、渡邉さんは、その解を『中山競馬場七十年史』(平成13年3月、中央競馬会中山競馬場発行)に求めている。
それによると、松戸競馬場は落馬事故が多発する危険なコース形態が問題だったという。普通の競馬場は楕円形のコースだが、松戸競馬場は規定の1マイルを確保するために、第2コーナーに「天狗の鼻」と呼ばれる極端な湾曲を作っていた。さらに、第3コーナーから第4コーナーにかけても湾曲の個所があったという。
崖に囲まれた狭い台地の上に作られた競馬場には、構造上の限界があったようだ。
大正8年~昭和20年 陸軍工兵学校
相模台には大正8年(1919)から太平洋戦争が終わる昭和20年(1945)まで陸軍工兵学校があった。大正6年ころから用地買収の話が持ち上がり、7、8年にかけて買収が行われた。当時のこの辺の相場は反当り(10アール)350円くらいだったが、軍は大体500円平均で買ってくれたという。学校の建設工事は大正8年から始まり、完成は大正12年の関東大震災前ころだという。大正8年12月の開校式の時点ではまだ一部バラック建築ができていた程度だったという。
工兵学校は進化を続ける近代戦に対応するために、工兵専科の中隊長(大尉)クラスを対象に革新
的な技術と戦略を教育し、研究させるものだった。
教育内容や教育期間、学生人員などは適時変革されたが、太平洋戦争中は中隊長クラスの将校である甲種学生30人程度が10か月、曹長クラスの下士官・幹部候補生などの乙種学生200人が1年間教育を受けた。教育課程と研究過程に分かれ、教育はさらに築城と架橋に分かれた。
工兵学校の演習場は、八柱作業場、校南作業場、相模台練兵場、江戸川架橋場、胡録台作業場があった。築城技術の演習は和名ヶ谷から稔台にかけて広がる練兵場で、架橋演習は同校付近の台地傾斜面と江戸川が利用された。
同校のある相模台から津田沼まで鉄道連隊の演習線(軍用軌道)が敷かれた。戦後民間に払い下げとなったこの軌道は、現在は新京成線として市民の足となり、私たちの生活を支えている。
工兵学校が他の兵科(歩兵、騎兵、砲兵、航空兵、輜重〈しちょう〉兵、通信兵など)の学校に比べて遅くできたのは、上原勇作工兵監(後に元帥)が工兵学校の必要性を認めなかったからだという。しかし、英国に駐在していた宮原国雄少佐が帰国後、工兵学校設立の必要を熱心に主張。勇敢にも時の寺内正毅陸軍大臣に面会を申し込み、工兵学校設
立が急務であることを説いた。その後宮原氏は昇進し、工兵課長となった折に、近野中将(工兵監)、若山善太郎中佐、杉原美代太郎中佐らの協力を得て、軍備整理の好機を利用して工兵学校を創設した。
江戸時代には宿場町として栄えた松戸だったが、明治維新後は目玉となる産業や施設もなかった。当時は軍の施設があることは住民にとって名誉なことであり、工兵学校で育った将校たちが全国の連隊に配属され、松戸は「軍都」として知られるようになった。日本で唯一の工兵学校と、隣の戸定の丘にある千葉県立高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)は住民の誇りだった。
大正15年には摂政宮殿下(後の昭和天皇)が陸軍工兵学校と八柱作業場、千葉県立高等園芸学校を見学され、松戸にとっては初めての行啓となった。
工兵学校の創立記念会の演習には数千人の一般市民が見物に集まった。戦車による突撃、機関銃などの演習が行われ、相撲や演劇などの余興もあったという。
前出の渡邉幸三郎さんは、八柱作業所(現在の稔台の住宅地や稔台工業団地)で行われる演習や、江戸川で行われる架橋演習は子どもたちにとって「楽しい見もの」だったと書いている。
大正11年の江戸川の大水で当時の工事中だった旧堤防が、赤圦水門辺りで決壊しそうになった。消防団や町民の作業では間に合わず、工兵学校の協力で水を防いだという。関東大震災や、昭和4年の木造葛飾橋の撤去作業、20年の東京大空襲でも出動している。
昭和20年~39年 千葉大学工学部
太平洋戦争が終わった昭和20年(1945)から前回の東京オリンピックが行われた39年(1964)まで約20年間、相模台の陸軍工兵学校跡地には千葉大学工学部があった。
東京・芝浦にあった東京工業専門学校は昭和20年5月の空襲で焼失。移転して陸軍工兵学校の校舎をそのまま使い、再起をかけることになった。
東京工業専門学校は、大正10年(1921)に東京高等工芸学校という官立学校として誕生。大正から昭和初期にかけての工業化を担う時代の「デザイン」という新しい分野を教える学校だった。昭和
19年に東京工業専門学校に改称。戦時下で緊急性を増す工業技術者の養成を目指す目的と、「工芸」に含まれる美術的な部分が忌避されたためだという。
戦後、相模台に移った東京工業専門学校は設立当初の東京高等工芸学校の復活と単科大学への昇格を模索するが、新制国立大学は原則1府県に1校と決定されたことで、千葉大学の傘下に入ることになった。昭和24年5月に東京高等工芸学校の性格を引き継いで、23の講座制の「工芸学部」として発足。しかし、翌年の昭和25年、小池敬事学長の意向で「工学部」への変更が俎上に上がった。これに対して東京高等工芸学校の関係者や工芸産業従事者は文部大臣あてに「具申書」を提出するなどして反対した。「工芸学部が工学部に名称・組織変更することは、日本で唯一といえるデザインの専門的な教育機関をなくし、産業工芸技術者養成の道をとざすことであって、工芸産業を衰退させる」と抗議した。
結局、昭和26年4月に工芸学部は工学部に改組され、講座制から5つの学科制となった。しかし、工業意匠学科のように東京高等工芸学校の工芸図案科を引き継ぐような性格の学科もあり、その伝統は工学部学科編成に引き継がれたといえるという。
昭和41年~現在 松戸中央公園
陸軍工兵学校の庭園は千葉県立高等園芸学校の教授の指導でつくられたという。千葉大学工学部が西千葉キャンパスに移転後、校舎は取り壊され、昭和41年3月に松戸中央公園が開設された。当時、市の公園係長だった塚本育弘氏の設計指導によって造られ、やむをえず移植したものもあるが、工兵学校当時の樹木はできるだけそのまま残したという。正門左右の銀杏の大木や園内のヒマラヤ杉、楠、桜などは当時のままだという。
また、正門と歩哨哨舎の存廃問題が起きたことがあったが、東京工業専門学校の鈴木京平校長と小林政一工学部長の尽力により残されることになった。正門と歩哨哨舎は平成21年(2009)に市の有形文化財に指定されている。
園内には、「陸軍工兵学校跡」記念碑(昭和42年、校友会設置)と「千葉大学工学部跡」記念碑(平成13年、千葉大学工学部・工学同窓会設置)が並んで建っている。
※参考文献=「松戸市史」下巻(二)(松戸市)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「昭和の松戸誌」(渡邉幸三郎・崙書房出版)、「陸軍工兵学校」(工友会)、「企画展 松戸の美術100年史」より、「松戸にあった千葉大学工学部の話|戦後デザインの歩みとともに」(敷田弘子)、「松戸の美術についての覚え書き|明治から戦後へ」(田中典子)、東京聖徳学園学園報第336号(平成9年5月26日)「軽盛塚」から「経世塚」へ(聖徳大学川並弘昭記念図書館参与・椎名仙卓)