大河ドラマ「青天を衝け」で時代考証
戸定歴史館 齋藤洋一名誉館長に聞く
NHKの大河ドラマ「青天を衝け」で時代考証を務めている戸定歴史館の齋藤洋一名誉館長に話をうかがった。齋藤さんは、平成2年に同館の学芸員になられ、長年徳川慶喜・昭武兄弟と戸定邸や庭園について研究を続けてきた。31年に退職後、名誉館長に就任した。齋藤さんが大河ドラマに協力するのは今回が2回目。前回は平成10年に放送された「徳川慶喜」で、市の職員として協力した。【戸田 照朗】
「時代考証」とはどんな仕事なのだろうか。
「大河ドラマは創作物です。しかし視聴者はこれが相当史実を反映しているものだと思って見ています。ドラマの展開上こうしているけれども、それは史実とどれぐらいの距離があるのか、無用の誤解を招かないか、事実認識に誤りがないかどうか、結論が出ていないことについてはどのような学説があるか、などを検証します。こういう世界を描きたいが、それにはどういった資料があるのか、といった相談を受けることもあります。そのまま描くと視聴者が理解できない世界になってしまう場合があります。言葉一つとっても、時代劇ですから、その時代のことを反映させながらも、視聴者にドラマを楽しんでもらえるような調整をしなくてはならない。例えば『社会』という言葉は江戸時代にはない。当時『社会』を示す言葉としてどんなものがあったかを考え、視聴者にわかってもらえるような言葉を選ぶ。皆さんに親しんでもらえて、魅力的で厚みのあるドラマにするためのお手伝いをしています。基本はドラマですから、どういう風にしたいかというのが優先です。歴史の研究でもないし、再現ドラマでもありません。そういうことを踏まえて、どういう風に直すか、台本もいろんな角度から検証しながら作っていくという、お手伝いです」。
「時代考証」として齋藤さんを含めて3人の方の名前がある。役割があるのだろうか。
「それぞれに得意分野が微妙に違います。井上潤さんは渋沢のことを何十年も研究されている。全体の事についてよく知っています。門松秀樹さんは近世はもちろん明治になってからのことも詳しい。私は渋沢についてはパリ万博の時ぐらいのことですが、慶喜と昭武のことなどを研究しています。複数の目線で、時には議論をしながらやっています。我々だけではなくて、脚本家の大森美香さんもものすごく勉強している。監督やスタッフが専門部隊を作って、いろんな資料を専門的に調査してくる。私がびっくりするような資料を探してきたりします。その資料について解説したりします。人が本気になってやると、すごい効果があるんだと驚きます。NHKを代表するようなスペシャリストの方々がこんな風に掘り下げてドラマを作ってるんだということに驚いたし、ワクワクし、感動もしました。視聴率15%ぐらいだと2000万人ぐらいの方が見られるわけです。中にはいろんな知見を持った専門家もいらっしゃる。そういう方々が見ても違和感なく素直にドラマを楽しんで頂きたいという思いで仕事をしています」。
第1話のオープニングにも出てくる渋沢と慶喜が初めて出会うシーン。渋沢栄一は従兄弟の喜作とともに、馬上の慶喜を追いかける。実際には「遠見」で、慶喜の側用人で二人の恩人となる平岡円四郎の計らいで、遠くにいる二人を慶喜が目視しただけだ。身分の差があるため一足飛びに直接会話することはできない。アレンジは加えているが、渋沢がどんなルートを走ったかというのも古地図を見ながら実際に考証したという。
ドラマには手紙も多く出てくる。現物が残っている場合と物語の進行上新しく作らなければならないものもある。当時どんな紙を使っていたのか、どんな書き出しで、どんな内容だったのか、文章を当時のままに作るという。映るのはほんの一瞬だが、手紙は最初から最後まで全部作っているという。
例えば、水戸の徳川斉昭に側近の藤田東湖が書簡を書くというシーンがある。藤田東湖が書いた文章を集めた全集をもとに、その時の状況や書いた時の気持ちなど考えて手紙を作ったという。
また、昭武がナポレオン3世に国書を読み上げるというシーンがあるが、これも現存するスイス大統領への国書を参考に作ったものだという。
渋沢栄一と昭武の関係
渋沢栄一と昭武の関係はどうだったのだろうか。
「渋沢にとって絶対的な主君が慶喜。渋沢は、主君の弟に万全のお世話をするというのが自分の役目だと思っていたと思います。パリ使節団の中でだんだん渋沢の存在が大きくなってきます。使節団の主要スタッフがどんどん帰国する中で、渋沢が最後の最後には総合的な判断をする立場になります。1万キロ以上も離れた外国から国内情勢を判断しなければならないため、渋沢が判断能力に優れていることは昭武もよく知っていました。また現地の事務作業も膨大で、実務処理にも優れていた渋沢に昭武は大きな信頼を寄せて、渋沢を頼るようになりました。日本に帰った後も渋沢に側にいて欲しいと思うようになりました。明治になってから渋沢が戸定邸を訪ねたという記録は残念ながらありませんが、明治になっても慶喜と昭武は仲が良く、一緒に行動していました。渋沢は二人を渋沢の屋敷に招いたり、渋沢が経営する養魚場で釣りを楽しんだりしています」。
帰国後、水戸藩主となった昭武は静岡でちっ居謹慎している慶喜に会うことができなかった。様々な憶測を生むからだ。昭武は自分の想いを栄一に託す。その思いは、兄・慶喜から留学をやり遂げてひとかどの人物になって帰って来るように言われていたのに、志半ばで帰らざるを得なかったことが申し訳ないというものだった。慶喜が幕府を終わらせたために帰らざるを得なかったわけだが、昭武はそうは考えない。
「強烈な責任感の強さだ」と齋藤さんは話す。「当時の身分構造を考えると、欧州で将軍名代の役割は昭武でないと果たせない。昭武の立ち居振る舞いは当時の上流階級の藩主クラスのものですから、外国からも非常に尊敬されました」。
今回の大河ドラマでは幕府側から明治維新を描いている。今まで散々描かれてきた勝者(新政府)からではなく、敗者(幕府)から見ることで、より立体的に歴史が見えてくる。登場人物にしても、膨大な人たちがいるが、勝海舟や坂本龍馬など、いつものお馴染みの登場人物ではなく、今まで光の当たることのなかった人物たちが生き生きと躍動している。「脚本の大森さんの取捨選択と、まとめる力は本当にすごい」と齋藤さんは話す。
「昭武は松戸にとってみれば、2つもの国指定の文化財を残してくれた人。大河ドラマで戸定邸は登場しませんが、昭武が見た当時の社会や、考え方は戸定邸の建物や庭によく反映されています。万博に行った後の昭武を実感できるところが戸定邸であり、その庭園です。是非、春夏秋冬にお訪ねください」。