江戸川の水害と治水

 2015年の台風18号などによる大雨は利根川水系・鬼怒川を決壊させ、甚大な被害をもたらした。本格的な雨のシーズンを前に江戸川の水害と治水について考える。

【戸田 照朗】

江戸時代の大水害と浅間山の大噴火

 寛保2年(1742)夏、超大型台風が上方(近畿地方)に上陸。旧暦7月27日午後2時ごろから風雨が強まり、28日に通過。その後も8月1日まで降り続いて、京、大坂の川が氾濫した。鴨川の三条大橋が流され、淀、伏見が水没した。この台風は雨台風だった。
 台風はさらに関八州を直撃。信濃国(長野県)に大水害をもたらした。豪雨のために浅間山が大規模な山崩れを起こし、松代、小諸、川越、忍(おし)、古河、関宿の城下に大規模な水害を引き起こした。
 利根川の右岸堤防(埼玉県側)が至る所で切れ、利根川がかつて流れていた流路に従うように、南の江戸湾に向かって流れていった。江戸の下町も水没した。
 この水害は、江戸時代最大最悪のもので、この年が壬戌年(みずのえいぬどし)だったことから、後に「戌の満水」と呼ばれた。一説には2万人が犠牲になったという。
 時宗の古刹青蓮寺(群馬県尾島町)の修行僧順海(じゅんかい)は「寛保洪水記録」をまとめ、利根川、荒川の大洪水が関東平野を襲い、下総、常陸まで水没させた惨状を「一面に渺々(びょうびょう)として海上を見るに似たり」(まるで果てしなく広がる海を見るようだ)と表現した。
 秩父郡樋口村滝の上地区では伐採した杉やヒノキの筏(いかだ)が渓谷をせき止め、水没した。名主がこの時の水位を後世に伝えるために岩の崖に「水」の文字を刻んだ「寛保洪水位磨崖標」が今も残っている。
 川越藩領久下戸(くげど)村(現在の川越市久下戸、萱沼=かいぬま)の名主奥貫友山は「大水記」を残した。子どもも大人も軒まで濁流に浸かった家の梁にまたがり、さらに、屋根を破って上に出て助けを待った。友山は舟を出して大勢の農民たちを助け出し、炊き出しまで行ったという。
 江戸では利根川・荒川からの激流に加えて異常潮位によって隅田川の堤防が至る所で切れて葛飾領一帯(江東区、江戸川区、墨田区)が水没し、海との境界がなくなった。江戸の力士・成瀬土左衛門の青白く太った体形から名付けられた「土左衛門」(水死体)が水面を覆い尽くしたという。
 江戸時代初期に江戸川の開削を指導した伊奈氏の治水の流儀は霞堤(かすみてい=洪水時に上流側の不連続部分から水が限られた範囲の堤内地に湛水=たんすい=し、下流に流れる洪水流量を減少させる効果のある不連続な堤防)の活用や多くの溜井による用排水兼用で再利用方式など「関東流」(伊奈流)と呼ばれていた。
 時の将軍・徳川吉宗は紀伊藩主時代に優れた土木技術の才能を発揮した井沢弥惣兵衛を召し出して「在方御普請御用」に任じた。関東流の溜井方式に替わる方法として、用排水分離方式を採用した。関東流に対して「紀州流」と呼ばれる。
 幕府は復旧工事を岡山藩、熊本藩、萩藩、津藩、福山藩、出石藩、鯖江藩、丸亀藩、飫肥藩、臼杵藩の西国外様大名に命じた。膨大な費用を要する事業であり、一種の政治弾圧だった。
 江戸中期に水害が多発したのは、江戸川開削後の河床上昇が原因だが、天明3年の浅間山の大噴火で急激に河床が上昇した。浅間山の大噴火は天明の大飢饉を引き起こした。
 下小岩村(江戸川区小岩)の村人は流れ着いた遺体を集めて施餓鬼を行って手厚く供養し、遺体の流れ着いた中洲を毘沙門洲と名付けた。善養寺には、これらの犠牲者の十三回忌(寛政7・1795年)に建てられた「天明三年浅間山横死者供養碑」が建てられている。
 松戸市を流れる坂川は江戸川が満水になると逆流して水害をこうむった。坂川流域は下谷とよばれた低湿地帯で、古ヶ崎村には江戸時代中期の水害記録が残っている。享保11(1726)~宝暦11年(1761)の36年間で、水害がなかったのは13年しかなく、江戸川堤防の決壊、江戸川満水時期の排水困難による「内水水損(うちみずすいそん)」が多かった。
 下谷には屋敷全体を大きく土盛りして底上げしたり、屋敷内に3~4メートルの土盛りをして、その上に建物を建てた「水屋」を持つ家があった。建物の中には避難生活に必要な日用の生活用具や食糧を収納していた。母屋の軒先に小舟をつるしていたり、水屋に小舟を置いたりして、洪水時の救助や物資の運搬に使った。

足尾鉱毒事件と関宿の棒出し

 利根川・権現堂川から洪水流や土砂が江戸川に大量に流れ込まないように天保年間(1830年頃)に関宿の棒出しと呼ばれる、両岸から土堤を張り出して川岸に多数の木杭を打ち込んだ強固な水制が築造された。江戸川に呑み込めない洪水流は逆川を経て利根川下流部へと流された。
 明治政府は明治31年に棒出しをセメントで補強・改修し、河床を埋めると同時に棒出しの間隔を幅9間強(約17メートル)と極端に狭めた。棒出しの幅は天保年間には18間以上は狭めないことが決められ、江戸時代末期から明治初頭にかけては26間から30間の幅があった。
 背景には足尾銅山鉱毒事件がある。
 明治10年(1877)に政府は政商古河市兵衛に足尾銅山を払い下げた。古河は銅山の設備を一新して本格的な近代採掘をはじめた。すると、渡良瀬川流域に鉱毒の影響が顕著に見られるようになり、明治12年頃には利根川支流・渡良瀬川の魚介類が大量死するのが確認された。栃木県令藤川為親は渡良瀬川の魚の販売、食用を厳禁する通達を出した。明治14年には沿岸漁業者数は2773人だったが、21年には788人、25年には全くいなくなった。
 明治21年の洪水からは農作物への被害が深刻化。農家は貧困を強いられた。
 明治24年12月には渡良瀬川沿岸だけではなく、中利根川、江戸川沿岸の各村落が連署して鉱業停止の請願書を政府に提出した。
 民権家田中正造は帝国議会に「質問書」を提出したが、「原因不明」とする政府の姿勢は変わらなかった。明治29年の大洪水は流域に大被害をもたらし、農民たちは大挙して政府に直訴する姿勢を見せた。明治30年5月に政府の鉱毒調査委員会から鉱毒防止令が出され、鉱山側は廃水の沈殿池・濾過池などの予防工事を行ったが、鉱毒被害は減らなかった。明治33年(1900)には2千人の陳情隊と警官隊が利根川河畔の川俣地区で激突し、陳情隊に多くの逮捕者が出た。明治34年、田中正造は議員を辞職し、明治天皇に直訴した。
 政府は洪水防止のために江戸川を拡張して利根川の本流とする方針だったのに、棒出しの極端な強化を行ったことに対して田中正造は、「政府が足尾銅山からの鉱毒水が東京府下にまで氾濫することを恐れて棒出しを強化した上、渡良瀬川を拡張して利根川の逆流が入りやすくした」と激しく非難した。

河川法と近代治水

 利根川は明治18年、23年、29年、31年に大洪水にみまわれ、内務省は従来の方針を変更し、舟運確保のための低水工事から、洪水対策を柱とした高水工事を実施することにした。低水工事は渇水時期にも舟を通せるように水深を出来る限り深くする必要があり、河道をところどころ狭めたり、護岸のために水制を入れたりして、河道の湾曲は出来る限り残しておく必要があった。一方、高水工事は、大量の洪水を流下させることのできる河積(川の幅や深さ)を必要とし、なるべく流水の抵抗物を取り除く必要がある。低水工事と高水工事は基本的に相いれない要素がある。
 明治29年に河川法が制定された。河川法制定以前の改修工事費は、低水工事は国庫負担だが高水工事は府県の負担だった。河川法制定後は、高水工事についても国庫負担の道が開かれ、河川法によって認定された河川は内務省直轄工事として、工費の全額または大部分が国庫負担となった。

 河川法が制定された背景には議会で治水事業の推進を求める声が高かったことに加えて、鉄道の敷設など陸上交通の整備で舟運に対する依存度が低下したことがあげられる。
 利根川は明治33年に直轄河川に認定され、工事は河口部から群馬県佐波郡芝根村(玉村町五科)までの約204キロを改修する壮大なもので、当初総工費は2235万6817円の巨費だった。計画高水流量は上利根川で毎秒3750立方メートルと定め、そのうち江戸川に毎秒970立方メートルを分流させ、利根川中流域に毎秒2780立方メートルを流し、これに鬼怒川から流入する毎秒970立方メートルを加えて流すというもの。
 工事は予算上の問題から工期と工区を3つに分けて行われたが、第3期工事が上流部で行われていた明治43年8月に関東地方が大水害に見舞われ、改修計画を抜本的に改定する必要に迫られた。計画は長大な築堤と巨大な浚渫(しゅんせつ=水底をさらって土砂などを取り除くこと)を中核に据えており、総浚渫土量は2億1400万立方メートルで、当時世界屈指の大土木事業であったパナマ運河の土量1億8000万立方メートルを大きく超えるものだった。
 このうち江戸川関連の改修工事は明治44年度から昭和5年度までの20年間を要した。浚渫土量は約1695万立方メートル、築堤土量は約1628立方メートルだった。昭和2年に江戸川分流点に水門と閘門が新設され、昭和4年には棒出しの撤去が完了した。
 行徳新放水路は延長3キロで昭和5年度に完成。旧川には常水のみを流下させることにした。
 明治43年の大水害は寛保2年(1742)や天明6年(1786)以来の大洪水で、後のカスリーン台風に匹敵するといわれる。この年から上流部の工事にとりかかる予定だったが、上流から中流にかけては舟運の動脈だった明治初期までの姿のままで、大洪水には無防備に近い状態だった。
 大洪水は利根川、荒川に大被害を与えたが、江戸川は濁流が堤防から溢れ出ることはあったが、切れなかった。死者は群馬県、埼玉県、千葉県、東京府、神奈川県、茨城県、栃木県で合計679人。多数の行方不明者が出た。東京の被害額が初めて他県を上回ったことで、利根川・江戸川治水の中で、東京が初めて前面に登場することになった。
 中利根川の改修により、東京水没の最大の要因でもある権現堂川を廃川とし、東京下町の水害を根絶するために約22キロの荒川放水路を開削することになった。
 利根川・江戸川の改修計画は昭和5年に一応完成したが、昭和10年の大洪水の後、再び改正されて増補計画が作成された。

多目的ダムによる河水統制事業

 昭和10年から本格的に始まった政府の河水統制事業は全国17河川で展開された。洪水調節をはじめ、発電、都市用水、農業用水の開発をひとつの大規模ダムによって達成しようとする新しい利水計画だった。欧米の洪水調節を含む多目的ダムの建設推進、中でもアメリカのミシシッピー川支流テネシー川のTVA(テネシー川総合開発機構)によるダム建設をお手本にしたという。
 江戸川水閘門は水門と閘門の機能を併せ持つもので、河口に近い旧江戸川分派点に建造された。渇水時の塩水の遡上を防止し、江戸川区間の取水の安定を図るほか、舟運に対し必要な水深を確保することを目的としていた。昭和11年6月に工事が始まり、18年3月に完成した。
 昭和10年、12年、13年、16年にも大洪水に見舞われた。
 内務省は江戸川増補計画を立案。総事業費は9126万円余り、工事区間は390キロに上る大規模なものだった。
 それまでの事業に加えて、利根川放水路、利根運河の放水路としての利用、渡良瀬遊水地の調整池化などが計画されたが、戦局の激化とともに工事は中断された。
 戦後の昭和22年にはカスリーン台風が東海・関東・東北地方を襲い、「百年に一度」という未曽有の大水害を引き起こした。占領下の日本ではアメリカの慣習に従い、台風にアルファベット順に女性の名前がつけられていた。
 9月16日午前0時20分、利根川右岸(埼玉県側)の東村と原道村(今の大利根町)の村境で堤防が切れた。激流が南下し、江戸川右岸の村や町を水没させていった。内務省は東京を守るために葛飾橋上流の江戸川右岸の堤防を破壊して江戸川に濁流を流し込むという禁じ手まで考え、GHQに堤防の破壊を依頼したが、皮肉にも堤防が頑丈でうまくいかなかった。19日午前2時45分、東京都と埼玉県の県境を流れる大場川の桜堤が決壊。葛飾区、江戸川区、足立区になだれ込んで、水没した。関東地方だけでも死者行方不明者は1200人を超えた。
 国土交通省の試算によると被害総額は今のお金に換算すると国家予算の5分の1、15兆円から20兆円にあたるという。被災者の救済にはGHQの将兵が大量に投入された。
 カスリーン台風は戦後の治水対策の原点となり、群馬県山岳部の渓谷に多目的ダムを相次いで建設し、利根川水系の堤防を強固にし、遊水地の拡張と引堤工事(堤防を後退させ川幅を拡張する工事)が大規模に行われた。引堤工事は広大な用地の買収と多くの家屋の移転を伴うため、多くの困難があったという。
 昭和32年度には行徳可動堰が完成した。江戸川水閘門と密接に関連し、塩水の遡上を防止するとともに、毎秒1000立方メートルを超える出水時には堰下流に放流し、江戸川の洪水を安全に流し去る機能を持っている。
 現在、江戸川沿川では16か所の高規格(スーパー)堤防の整備地区があり、このうち既に12か所が完成し、4か所が事業中だ(平成18年現在)。スーパー堤防とは、当該地点の堤防の高さの30倍の幅で堤内地(宅地、農地側)の敷地に緩い傾斜の盛土をすることで、大洪水が来ても越水破堤することがない頑丈な堤防とするものだ。
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 ※以上の文章は「論集 江戸川」(「論集 江戸川」編集委員会編著・崙書房出版)の中から「江戸川の概要」(市川幸男)、「寛保大水害と浅間山大噴火」「明治期後半から大正期の災害と治水」「昭和の洪水と河川改修」(高崎哲郎)、「特別展 川の道 江戸川」の総説(松戸市立博物館)を参考・抜粋した。

大雨で増水した江戸川(古ヶ崎付近、平成27年撮影)

旭町の横山さん宅の水屋(平成10年撮影)

天明三年浅間山横死者供養碑(善養寺)

江戸川水閘門

関宿水閘門

下谷の洪水を解消するために作られた松戸水門(坂川放水路)

関宿城博物館のある場所はスーパー堤防のひとつ

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