小金原
古代に起源を持ち、 武士の時代を支えた牧場の歴史
松戸市には小金や小金原といった地名があるが、それは平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。現在の小金原は、旧小金宿の東側にある地域で、昭和46年に栗ヶ沢や根木内などが宅地造成された後に新しく生まれた地名だ。
放牧地の小金原は、小金牧、小金野、四十里野とも呼ばれた。北は野田市中里から南は千葉市花見川区柏井町まで、直線距離で43キロ、最大幅6キロほど。牧に沿って周囲を測ると四十里(160キロ)ほどになった。小金牧とともに佐倉牧があり、合わせて下総牧と呼んだ。
ただ、ずっと牧場が続いているわけではなく、小金原は荘内牧(上野・下野)、高田台牧、上野(かみの)牧、中野牧、下野(しもの)牧、印西牧の6牧場からなっていた。松戸市にかかっているのが、中野牧で、牧と牧の間に村々が点在していた。
小林一茶の俳句や、司馬遼太郎の小説「北斗の人」に小金原が出てくるが、あまりに広大であるため、具体的にどのあたりのことを言っているのかが分からない。「北斗の人」は松戸宿に住み、修行に励んだ幕末の剣客・千葉周作の青春時代を描いた小説で、小金原で試合をしたというくだりがある。松戸宿から出立したと考えれば、おそらく中野牧(松戸市内)のことを想定しているのだと思う。
名馬の産地
延長5年(927)に完成した延喜式は律令の施行細則で、武蔵国など4か国に32の勅使牧を設けて左馬寮(さめりょう・さまりょう)、右馬寮(うめりょう・うまりょう)に管理させ、軍馬を養成することが書かれている。これが小金原の始まりだと思われる。
この時は、下総国に高津馬牧(たかつうままき)、大結(おほひ)馬牧、本島馬牧、長州馬牧、浮島牛牧の5牧が開設されたが、具体的な場所は分からない。
馬が5~6歳になると体中に飾りをつけて馬寮に貢がれた。下総牧からは、毎年11頭の馬が大量のまぐさとともに伊勢神宮の祭馬として送られた。
天慶2年(940)に起きた平将門(たいらのまさかど)の乱は、朝廷の貴族たちを大いに驚かせた。関東で武士勢力が勃興したことは、小金原の軍馬と無関係ではないだろう。
平氏に敗れたため、伊豆に配流となっていた源頼朝は、ついに挙兵したが、あまり戦上手とは言えず、治承4年(1180)に緒戦の石橋山の戦いで敗れてしまう。頼朝は平将門の末えいの千葉常胤(つねたね)を頼って房総半島へ逃れた。この時、常胤を通して下総牧の軍馬が提供された。
頼朝と同じく平氏追討の兵を挙げた木曾義仲は京都に入ったが、治安維持に失敗し、皇位継承問題に介入して朝廷の不興をかった。後白河法皇、さらに頼朝とも不和となり、頼朝は弟の義経を義仲追討に差し向けた。
決戦の場となった宇治川の合戦で、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたという「平家物語」の有名な一節がある。佐々木は生月(いけずき・生数奇)、梶原は摺墨(するすみ)という名馬を頼朝から拝領されて活躍したというが、この名馬2頭はともに小金原産だと言われている。
数々の勲功をたてた生月は、務めを果たして、再び小金原の地に放たれ、余生を送ったという。倒れて亡くなったのが、高塚新田の八幡神社のある場所で、村人は高塚を築いて供養した。これがいつしか八幡塚といわれるようになり、後に八幡神社となった。
この塚は、草原にあったせいか、かなり目立つ存在で、塚とその周辺の木々が、江戸時代には江戸川を航行する船の目標になったという。
「高塚」の地名の起こりもこの塚がもとになっている。
徳川家康の直轄地
徳川家康は天正18年(1590)に江戸城に入り、関東の経営を本格的に始めた。
東海随一の馬術者と言われた家康は、軍馬の重要性に着目しており、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、下総牧を直轄地として、「馬守り衆」と呼ばれていた人たちに帯刀を許して士分とした(後に、牧士と呼ばれる役人となった)。天下分け目の「関ヶ原の戦い」は慶長5年(1600)のことで、小金原産の軍馬が徳川方として活躍したものと思われる。
千葉氏、小金城主高城氏とその家臣たちは、豊臣秀吉の関東攻めでは小田原の北条氏に味方したため、落城、離散の憂き目を見ていた。
しかし、2代将軍の秀忠は最後の小金城主となった高城胤則の遺児・胤次を700石の旗本として取り立てた。
また、家康が下総牧の管理者として白羽の矢を立てたのが千葉氏の一族だった綿貫十右衛門政家だった。
綿貫氏は、もとは四街道の山梨城の城主で、城が見晴らしのいい高台にあり、月がきれいな所と言われていたので、「月見里」と書いて「やまなし」と読ませ、これを姓にしていた。
政家は敗戦後は、小金城主高城胤吉の妻で叔母である桂林尼の霊を弔うために建立された慶林寺(殿平賀)に身を寄せていた。
家康は北条氏の家臣で八条流馬術の名手・諏訪部定吉を御馬預りとして迎えた。定吉と大坪流馬術に詳しい政家は小田原城籠城戦で親しくなったようで、定吉から政家のことを聞いたのか、家康は慶長17年(1612)ごろ(慶長7年、19年とも)政家を呼び出して野馬奉行(小金佐倉牧野馬奉行兼牧士支配)という大役に任じた。
召し出された時はもう旧暦の4月になっていたが、貧乏をしていた政家は冬物の着物の綿を抜いてお目通りした。それに気が付いた家康が、今後は綿貫を名乗るように言ったという。
俸禄は30俵と決して高くはなかったが、この役目は綿貫氏の世襲で、野馬奉行役宅は小金宿の旧八坂神社(現在のイオン北小金店のある辺り)西側にあったという。
8代将軍・吉宗は享保7年(1722)に牧改正を行い、旗本の小宮山杢進(こみやまもくのしん)にその任にあたらせた。杢進は金ヶ作役所(金ヶ作陣屋)を設け、これまで野馬奉行綿貫氏が行ってきた許認可、指令などの行政的分野の仕事を金ヶ作役所直轄とし、綿貫氏は主に技術的実務方面の担当として、綿貫氏の負担を軽くした。また、最も重要な中野牧を金ヶ作役所の直轄支配とした。さらに、小金原の荘内牧を廃止して解放し、多くの新田開発をした。
金ヶ作役所は八柱駅にほど近い門前公園の辺りにあったと言われ、同公園内に市教育委員会が建てた説明板がある。また、さくら通りのスポーツクラブの前に金ヶ作陣屋跡の標柱がある。
規制が厳しかった小金原
しぐるるや
たばこ法度の小金原
小林一茶のこの句は、小金原がいかに規制の多い場所だったかを表している。
寒い日に煙草に火をつけようとした一茶だったが、ここが火気厳禁の小金原であることを思い出したのである。小林一茶は馬橋や流山など、東葛地域に支援者が多くいたため、小金原を度々歩いていた。
小金原は、ほぼ全体が水戸家の鷹場村に指定されていたために二重に規制がかかっていた。
鷹狩りとはオオタカやハヤブサなどを使って水鳥などを狩らせる狩猟。娯楽性が強いもので、織田信長は鷹狩に興じていたために「尾張のあほう」と言われた。また、家康も鷹狩りが好きだった。
柏市布施には万治3年(1660)に出された「水戸中納言御鷹場御法度状」が残されている。
小鳥をはじめ、鳥の餌となる魚も捕ってはならない。将軍や大名が鷹狩に来ることを「野越」と呼んだが、野越の時は道、橋を普請し、犬や猫はつないでおくこと。野越の際は音や幟(のぼり)を立てることも禁じられたから、祭と重なれば延期せざるを得なかった。田植えが終わると水を切って乾田にすることを指示され、用水井戸を掘ることもなかなか許可されなかった。文政2年(1819)の干ばつでは、特にひどかった正連寺村(柏市)が井戸を掘ることが許されず、稲が枯れてしまった。
鷹の獲物となる鳥が居着かなくなることを過剰に恐れるあまり、現状を変えることを極端に恐れていたようだ。
法度を破れば処罰される。享保9年(1724)に布施村の2人の百姓が鳥を捕って、町奉行大岡越前守の吟味を受けた。牢人となった後、1人10貫文の科料。組頭も監督責任を問われて1人3貫文の科料。名主は閉戸処分となった。
鶴を殺すことは特に重罪とされ、死罪に及んだ例もある。
鹿狩りと鷹狩り
これほどに殺生を禁じていた小金原だから、狩りさえなければ、野生動物にとっては楽園だった。
増えた馬や鹿、猪などが農作物を荒らすことも多く、牧と村の境には野馬除土手(のまよけどて)が作られた。高いところで3・5メートル、低いところで2メートル。土を掘ったところが空堀となり、これを野馬掘といった。野馬掘を挟んで両側に野馬除土手があるM字型の二重土手もあった。
野馬除土手の普請と管理は農民の負担だったが、一部は幕府から日当が出たこともある。はじめは1日1人米5合(約700グラム)だったが、重労働だったので寛政13年(1801)に米1・5升(約2キロ)に増やされた。
「野馬捕り」は最初は3年に1度、野馬が増えすぎてからは農閑期に毎年行われた。農民は勢子などの人足を出さなければならなかったが、捕まえた野馬のうち65%~70%は運搬用・農作業用に農民が買っていた。
小金原の将軍お鹿(しし)狩りは、8代吉宗が享保10年(1725)と翌11年の2回、11代家斉が寛政7年(1795)、12代家慶が嘉永2年(1849)に1回ずつ、計4回行われた。
農民が害獣駆除を強く希望していたこともあり、享保10年のお鹿狩りは、千葉、相馬、印旛、葛飾の下総4郡と武蔵葛飾郡の480村から百姓勢子人足1万5千人を動員するという大規模なものになった。将軍は午前1時に江戸城を出て、午後4時には帰り着くという「日帰り」だったが、農民勢子は3日3晩にわたって、上野牧、高田台牧、下野牧からお狩場に獲物を追い込んでいった。お狩場には、高い塚を築き、頂に御殿を建てた「お立場(たつば)」を作って、ここから将軍が狩りを指揮した。御立場跡の碑が五香公園内にある。
この時の獲物は鹿826、猪5、狼1の計832頭。翌年は鹿470、猪12、狼1の計483頭だった。時代が下って、寛政7年は鹿130、猪6頭とかなり減り、嘉永2年になると、小金原には鹿や猪はほとんどいなくなり、近隣諸国から何か月も前に購入した猪などを当日に投入するという強引な実施だった。前3回が害獣駆除が目的だったのに対して、最後の1回は異国船が頻繁に日本近海に現れていた時期で、軍事訓練の色彩が強い。また、明治時代にニホンオオカミは絶滅するが、小金原では享保のお鹿狩りで獲物となっている。
水戸家御鷹場役所は小金西新田(現在の小金原2~3丁目)にあった。
役所は松戸や加村(流山市)、我孫子など他にも9か所があったが、小金西新田の役所には水戸家鷹場の管理責任者とも言うべき鳥見頭が詰めていた。
水戸家は鷹場を拝領した寛永10年(1633)に、高城氏の家臣だった小金宿の染谷久左衛門宅に鷹部屋を設置して鷹の飼育にあたらせた。染谷宅は小金御殿(水戸家専用の本陣)の裏にあった。
小金原が水戸家の御鷹場だったこともあり、松戸市には水戸黄門こと徳川光圀にまつわる伝説が多く残る。
小金原の茂侶神社には、こんな言い伝えがある。
寛文4年(1664)4月、黄門様が鷹狩りの途中で茂侶神社(当時は香取神社といった)に詣で、神主を椎の木の大木の下に招いて、この神社が延喜式神名帳に出ている、格式高い式内社である可能性があること、椎の木を神木として大切にすべきことなどを伝えたという。なお、式内社については、流山の茂侶神社(旧三輪明神)説もある。
※参考文献=「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)、「小金原を歩く 将軍鹿狩りと水戸家鷹狩り」(青木更吉/崙書房出版)、「イラスト・まつど物語」(おの・つよし/崙書房)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行員会「歴史読本こがね」編集委員会)【戸田 照朗】