本よみ松よみ堂
荻原浩著『海の見える理髪店』
家族を描いた短編集。家族とは「歴史」であり「時間」
表題作の「海の見える理髪店」を含む6編の短編集。直木賞受賞作。全て「家族」がテーマになっている。読書は遅い方だが、そんな私でもサラサラと読めた。展開が面白く、飽きさせない魅力がある。
「海の見える理髪店」。主人公の青年が海辺にある小さな理髪店を訪ねる。その理髪店の店主は東京で有名な俳優の髪も切っていたことがあるという人なのだが、なぜか15年前にここに店を移した。店主は意外にも饒舌で、髪を切られる青年に自分の人生を語り始めるのだった。髪を切られる時のハサミの音やシャンプーの匂いなど、巧みな描写でその場にいるようだ。読みながら主人公と同化して店主の昔語りを聞いているようだった。青年は伝説の理容師に髪を切ってもらうことだけが目的ではないのだろう。その目的が明らかになる後半は胸に迫るものがあった。
「いつか来た道」。中年を迎えた娘が16年ぶりに母のアトリエを訪ねる。16年前に家を出たきり二度と会うつもりはなかったが、今のうちに会っておいたほうがいいという弟からの電話がきっかけだった。母は元美術教師で、娘に画家になることを期待し、自分の美意識を押し付けてきた。「毒親」「毒母」というのか、このお母さんは結局、自分しかないんだなぁと思う。子どもは生まれてくる親を選べない。母の元を去った娘は、16年の間、ずっと母親と心の中で対話してきた。物理的に母親から離れても、本当の意味では母からは逃れられないのだ。
「遠くから来た手紙」。初恋の相手と同窓会で再開し、結婚した祥子は幼い娘を連れて実家に帰ってきた。原因は忙しすぎる夫の仕事。実家は梨農家だが、実家には弟夫婦が両親と住んでおり、祥子の部屋も使われていた。夫から連絡が来ても出ないつもりだったが、ある日奇妙なメールが。知らないアドレスで、言葉遣いが妙に古臭い。出版社に転職した夫が送ってきているのかと思い、思わず返信してしまった。6篇の中では一番軽いタッチの作品だと思う。私の父の実家が農家なのだが、その家の空気のようなものを思い起こさせた。
「空は今日もスカイ」。小学3年生の茜の視点で描かれる。茜は離婚した母と実家に戻ってきた。しかし、母は新しい仕事が見つからず、実家もだんだんいづらくなってきている。茜はいとこの澄香ちゃんに習った英語で周りを見てみる。山をマウンテン、空をスカイ。嫌いな田舎の風景も英語に置き換えると違ったものに見える。父や母と住んでいた前の街には海があった。冒険家の偉人伝を読んだ茜は海を探して冒険という名の家出をする。茜は神社で森島陽太という少年に出会い、フォレストと名づけて、二人で海を探すことに。少年はガリガリに痩せており、体に傷があった。少女の視点から描かれる可愛らしい作品と見せかけて、ネグレクト、児童虐待、差別など、現代の病理や理不尽が横たわる。
「時のない時計」。主人公はわけあって長年勤めた会社を辞めた50代半ばの男性。父親の形見だといって母から渡されたブランド物の時計を修理するために、商店街のはずれにある古い時計店を訪ねる。店内には売り物のほかに、店主の家族の思い出がつまった時計が置かれていた。男性は、時計を修理してもらう間、店主の話を聞くことになる。
「成人式」。5年前に15歳で亡くなった一人娘のことが忘れられない夫婦の物語。娘の部屋は生きていた当時のまま残してある。娘が映ったビデオはもう見ないようにしようと決めたのに、妻が寝静まった深夜、こっそりビデオを見てしまう夫。こんなことを繰り返していて、娘が亡くなったあの日から、夫婦の時間は止まったままなのだ。そんな時、業者から娘宛に送られてきた晴れ着のカタログ。気が触れたように破り捨てる妻。しかし、夫があるプランを思いついたことで、止まっていた夫婦の時間が動き始める。
全体を通して感じるのは、家族とは「歴史」であり「時間」なのだということ。「海の見える理髪店」の店主は自分と家族の歴史を語り、「いつか来た道」の主人公にとっては、母との時間は辛く長いもので、会わなかった16年の間もずっと続いていたのだろう。「時のない時計」の中に出てくる、時計の針が示す時刻はまさに家族の時間そのものである。「成人式」の夫婦にとっては、成人式が新たに時を刻むきっかけになるのである。
【奥森 広治】