わたしのページ(読者投稿)2020年10月25日

ゆうくんの作品

運動不足解消にルームランナー
 コロナ禍の中、「不要不急の外出は控えるように」と言われ、気がかりなのが「運動不足」でした。
 そこで家族5人で話し合い、「健康と美容」を兼ね、ルームランナーを購入することにしました。「我が家には高価すぎない?」の意見もありましたが、健康第一ですからね、この際思い切りました。
 ところがこの時期です。買い求める人が多く、届くのに丸3週間もかかりました。
 まずは3日坊主にならないように、いや1週間、いやいや1か月坊主にならないようにと、みんなでワイワイ言い合いながら使い始めました。
 使用後の感想は「思った以上に快適」で、まずは一安心しました。
 聞くところによると、多くのお家にはいくつかの健康器具があって、放置されているみたいですね。もったいない話です。きっと、どなたのお家も奮発して購入した器具でしょうから、これを機会に1日5分から始めてみてはいかがでしょうか。
 我が家では1人が終わった直後に、「次は誰?」と声をかけあいます。特に雨降りや風の強い日にはとても便利です。
 購入から1か月以上経ちましたが、順調に進んでいます。
 今度は、「3か月坊主」を目標に、みんなで頑張ろうと思います。
 皆さん、「継続は力」ですよ。(健康一番 77)

空ちゃん

十三夜をご存知でしょうか
 お月見といえば、旧暦8月15日(今年は10月1日)の「十五夜(中秋の名月)」が有名ですが、「十三夜」はご存知でしょうか?
 十五夜の後には、十三夜という日本古来のお月見の日があります。十五夜の月を見たなら、その後の十三夜の月も見た方が良いといわれています。
 十三夜は旧暦の9月13日で、現代の新暦では十五夜と同様に年ごとに異なり、今年は10月29日です。
 十三夜の月は、十五夜の約1か月後であることから「後(のち)の月」ともよばれます。
 十五夜は、もともと平安時代に中国から伝わってきましたが、十三夜は日本独自の習わしです。
 日本では十五夜の頃は、台風や秋の長雨の季節で、名月が見られないことがよくあります。そこで、十五夜に次いで美しい月とされる十三夜にもお月見をするようになりました。十三夜の頃になると秋晴れになる日が多く、綺麗な月が見られることから「十三夜に曇りなし」といわれます。
 十五夜は新月から数えて15日目で満月、もしくは満月に近い月。十三夜は新月から数えて13日目で、満月になる前の少し欠けた月になります。
 十五夜と対をなすのが十三夜。この2つを合わせて「二夜の月」とよびます。
 十五夜と十三夜、どちらか一方の月しか見ないことを「片見月」とか「片月見」といいます。両方見ることが大切とされていたので、片方だけのお月見は、縁起が良くないものとされました。
 十五夜は収穫した芋を供えることから「芋名月」ともいい、十三夜は栗や豆の収穫の時期なので「栗名月」「豆名月」ともいいます。
 十三夜には月見団子やススキなど秋の七草とともに、この時期に収穫を迎える栗や豆などもお供えします。
 収穫の喜びと感謝を込めて、美しい月を眺め、美味しい月見団子をいただく。
 お月見が出来るということは、とても幸せなことなのだと、つくづく思う今日この頃です。(稔台・尾花)
歴史学び直し平和の尊さ再認識して
 令和に年号が変わってから去る8月15日は75回目の終戦の日を迎えた。
 戦争体験を語れる人が年々減ってきていると、新聞に憂える記事が載っていた。
 ある日、偶然映したテレビで「12月8日と、8月15日は何の記念日ですか」と何れかの局が街頭で社会探訪のマイクを若者に向けていた。すると「知らない」と首を傾げて若者たちが答えていて、「生まれていないから」とも。わたしは驚いてしまう。
 その過去の日、昭和20年、わたしはけなげな軍国乙女として戦っていた。
 当時、亡き母と幼い妹は近在へ疎開して、わたしは東京に残って通学していた。女学生は、2年生以上は勤労学徒動員で軍需工場へ。わたしは1年生だったので我が校に残れたが、学業は勉学と勤労奉仕とが入り混じった日々だった。
 授業のない日は軍服の縫い物をした。兵隊さんが学校に出入りしていた。わたしの担任は若くてきれいな女性教師でその作業も指導した。数え年14~15歳の生徒たちに先生は「兵隊さんと口を聞いてはいけませんよ」と、心配そうに気遣っていた。
 工場へ行った生徒たちは慣れない機械を操作してケガをした人がいたと聞いたが、友人のお姉さんも軍需工場で負傷して真っ白な包帯を指先に巻いていて、その時の痛ましい思いはわたしの胸に今もある。
 夢みる乙女の時代に甘い感傷に浸ることもなく「贅沢は敵だ」という標語まで街に掲げられて、戦争一筋に振り回された。いま、戦争を次の世代に語り継がねばと言われている。
 わたしは、戦争の話を聞くたびに背筋がゾーっとする。空襲の恐怖を体験しているので。
 昭和20年3月10日には東京大空襲があり、約10万人が犠牲になった。
 その後も、東京近郊に幾度も敵機が襲来した。焼夷弾の炸裂した火の粉がバラバラと頭上に落ちてくる中を、近くの荒川土手へ避難して、わたしは生き延びた。
 庭に防空壕を作ったが、低地で掘ると水が出て深くは掘れず、中に厚い板を渡したが、それには頭を悩まされた。
 空襲警報のサイレンが鳴り響くと敵機襲来で、その防空壕へ家族とともに逃げ込んだ。爆撃機の爆音に身を震わせ焼夷弾の投下されるザーッという不気味な音におののいた。二度とこのような目に遭いたくないし、誰にも遭わせたくありません。
 平和でなくては何もできない。幸せになれない。
 若者たちが真剣に戦争があった歴史を学びとって、平和の尊さを認識してくれることを心からお願いする。(小金原・小倉芳子)
ボケない努力をしています
 娘と二人暮らしなのでノンキに生活をしていますが、この頃、少しずつ物忘れするようになり、娘から「ボケないでね」と言われている。
 昔からおしゃべりは好きだし、友だちに電話したり、出歩いたりしていたのが、このコロナ禍の影響で外にあまり出なくなった。旅行にも行かなくなった。
 お金はかからなくなったが、頭をあまり使わなくなってしまったためか、「アレよアレ」とか固有名詞が出なくなった。
 娘からは「ママ、ボケたら一番下の子のところで面倒見てもらってね。わたしはイヤだからね。ママの面倒は見ないからね」と引導を渡されているので、毎日歩いたり、夕飯のオカズを料理の本を見ながら作るなどして、ボケない努力をしている。(八ヶ崎・匿名希望)

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