わたしのページ(読者投稿)2020年9月27日

茂木美佐子さんの作品

コロナ禍のお月見楽しみたい!
 秋になると空気が澄んで空が高く感じ、昼間の空も夜空も綺麗に見えます。新型コロナウイルスの影響で、今年は秋の行事も中止されたものが多いですが、月はいつもどおり輝き、今年もお月見の季節になりました。
 お月見は、お月見団子やススキを飾ったりして、お月様を眺めて楽しむ日本の伝統行事です。十五夜や中秋の名月とも呼ばれています。
 昔は月の満ち欠けと1年間の太陽の動きを基に作られた太陰太陽暦という暦を使用して、農業や暮らしに役立てていました。いわゆる旧暦で、月の満ち欠けを基に1か月の日付が決められていたので、毎月15日の夜は満月か満月に近い丸い月でした。
 旧暦では7、8、9月を秋としており、その真ん中の日の8月15日を中秋と呼んでいました。中秋の名月の日付は旧暦の8月15日なので、現在の新暦(太陽暦)では、その年その年で日付が変わります。
 また、中秋の名月は満月と思われがちですが、満月であることはまれで、たいてい1日か2日ずれています。今年の中秋の名月は10月1日です。満月は翌2日の午前6時なので、ほぼ丸く見えるのではないかと思われます。
 新型コロナの影響で、毎年楽しみにしている地元の秋祭りが今年は中止になりました。それは残念なことですが、悪いことばかりではありません。
 わたしは外出が減った分、音楽を聴いたり読書をする時間が増えました。素敵な音楽に元気をもらったり心を癒されたり、本を通して知識を得たり感動したり。世の中には様々な世界があって、色々な人がいて、みな違った考え方、価値観、生き方があることを教えてもらいました。
 今年はいつも以上にゆったりお月見を楽しみたいと思います。(稔台・オミナエシ)
昔からの組織風土変わってはいない
 戦後75年の特集記事をようやく目にすることがなくなった。
 日本陸軍の中枢に存在した一部の人間により開戦が決定され、日中戦争以降の軍人、一般人、内地の人々の戦没者は約310万人…。南方で補給路を断たれ、飢えてマラリアに苦しみ亡くなっていった兵隊さんの話や、機銃掃射に逃げまどう市井の人々の話はあまりにも辛く、途中で新聞を閉じたこともあった。
 わたしの父は通信兵としてニューギニアに赴き、生還したから今の自分は存在する。
 生前は戦争の悲惨な体験を口にすることはなかった。総国民が「神風日本」とマインドコントロールされ、竹やりで敵機を撃ち落とす特訓が行われていた時代…。反戦を声高に訴えた人々も、中にはいたのではないだろうか…。反戦論者はどのような末路を辿ったのだろうか…。
 現代でも、社内で異議を申し立てる人間は左遷される。そして、有能なイエスマンたちが集められ、会社は間違った方向へ舵を取り、最終的には沈没していく。あの有名企業も一流企業もみんなそう。
 昔から取り巻く組織風土は変わってはいない。(二ツ木・石井裕子)

さいだ~(六高台)

あじさいねぎの事広めたい
 先日JAの広報紙を拝見し、「あじさいねぎ」を初めて知りました。
 広報紙によると、「江戸時代の後期、柴又辺りから北小金周辺に伝わったねぎ」。昭和40年代に本格的に生産されるようになり、商標登録は平成16年に受けています。名前の由来は近くのあじさい寺で有名な「本土寺」から頂いたそうです。白身が長くて太い「矢切ねぎ」と違い、細くて青い部分が多い葉ねぎです。味(あじ)もよく 彩(さい)も良いと言う意味が込められているそうです。シャキシャキとした食感、やわらかさ、深い香り、辛み、そして爽やかな風味も味わえます。
 日頃、松戸市の先輩諸氏から「松戸市民は松戸愛に欠けるのでは」と意見されている身としては、これから挽回できる絶好のチャンス到来です。これを機会に「矢切ねぎ」はもちろん、「あじさいねぎ」も食卓に乗せて、松戸だけでなく県内・県外にも広めなければと思っています。(ねぎは一番 77)
板倉鼎・須美子の作品見て思う
 松戸市の美術コレクションの一部が市立博物館の企画展で公開された。いずれも松戸にゆかりのある作家たちの作品で、絵画、彫刻、工芸品、版画、写真、インテリアと多岐にわたっていた。その中で画家・板倉鼎(かなえ)・須美子(すみこ)の油絵が印象に残った。
 板倉鼎は小学校から東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒業まで松戸で育った。鼎は明治34年埼玉県に生まれ、小学生のとき父親(開業医)の転居に伴い松戸に移り住み、現在の松戸中部小学校に通った。県立千葉中学時代に油彩画を学び、東京美術学校西洋画科へ進んだ。そこで岡田三郎助に学び、在学中より第3回、第4回帝展に連続入選した俊才だった。第4回に入選した「木影」は写実的で温かい雰囲気を醸し出し、ルノアールを思い出させる。その他、中和倉の風景画も残している。
 大正13年同校を卒業。板倉家は代々医者で父は鼎を医者にしたかったが、鼎が帝展に入選するなど画家として力を発揮したため父も理解しパリ留学など応援した。翌年、須美子(18歳)と結婚した。
 須美子は明治41年東京生まれ。少女時代は内気ではにかみやだった。大正10年、自由教育を標榜する文化学院入学。同学院では文学をこころざし、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻や山田耕作の教育を受けた。大学部に進学していたが親戚に鼎を紹介され結婚。結婚式は与謝野寛・晶子夫妻の媒酌で執り行われた。鼎の留学に合わせ文化学院を中退した。
 昭和元年、板倉鼎・須美子はハワイ経由フランスに向かった。鼎が松戸でキリスト教会の日曜学校に通っていて、そこの牧師・藤城歌之助がハワイに移住しており、フランスに渡る途次ぜひハワイに立寄るように言われて4か月間ハワイに滞在した。そこで作品を40点制作、売れた金額を留学の費用の一部に充てた。
 パリではアカデミーランソン美術学校に通った。ここで鼎の画風が変わっていった。日本での写実画から抽象画に変わっていき、鼎もその変化を由としていた。パリでは藤田嗣治や、特に美大同期の岡鹿之助と親交を深めた。
 鼎はサロン・ド・メンヌに「秋の果実」で入選を果たし、在巴里日本人美術家展に出品。
昭和2年9月より須美子は鼎の残り物の画材を使い、鼎の手ほどきを受けながら油絵を始めた。そして10月に鼎と共にサロン・ドートンヌに入選している。油絵を正式に学校で学んでいなかったが、鼎に油絵の手ほどきを受けわずか1か月で入選している。天賦の才があったのだろう。入選の喜びについて須美子は松戸の両親に手紙で知らせている。
 「この度心配しながら初めて出品しました。入選発表は手紙で知らされるので朝昼晩の三度配達を窓から首を出して待っていました。厚い封筒は入選、ウスッペラい封筒は落選と聞いていました。ウスイ封筒だったらどうしようと心配していました。厚い方の封筒が届きました。日本の帝展と違い世界的なサロンなので選ばれることは大変難しいと言われておりました。パリにはおよそ七万人の画家がいると言われていますので…(後略)」。
 その年の12月に長女一(かず)が誕生した。須美子は育児と家事をこなしながら昭和3年にもサロン・ドートンヌに入選している。同年、鼎は第9回帝展で『雲と少女』が入選。翌年の第10回帝展で須美子を描いた『画家の像』が入選。
 パリで一流の画商ギャラリー・コレット・ウエイルで絵を寄託出来ることになった。この画商は当時、日本人では藤田嗣治の作品しか扱っていない権威ある画商だった。
 鼎は松戸の両親に次のように誇らしげに報告している。
 「一号四十フランで買うと言ったが、『売れたら払う』という寄託にした。バロキエ、べラマンクなどは八号で八千フラン、フジタは三十号で三万フランで売っていた」。
 鼎へのオファー、一号四十フランはいかにも安いと思ったのであろう。
 昭和4年サロン・デ・ザンデパンダンに「黒椅子による女」を出品、サロン・ナショナルに「静物」を出品。ブリュッセルの美術展にも出品と活発に活動した。男爵薩摩治郎八の資金で藤田嗣治会長の仏蘭西日本美術家協会展に2人で出品している。須美子は藤田嗣治からも大いに評価され、展覧会場では藤田が須美子を褒め称えたとのことである。
 鼎は昭和4年9月29日に突然倒れ、10日間の闘病の後パリで客死。享年28歳。同年12月、須美子と長女一は松戸に帰ったが、翌5年1月に一を急性脳膜炎で亡くした。6年6月、正式な手続きを経て須美子は実家に復籍したが、9年肺結核のため自宅で死去。享年25歳。短い人生だった。
 鼎も須美子も順当に人生を全うしたら、日本を代表する画家になったに違いない。そんな画家が松戸にいたのである。
 ※参考資料=松戸市教育委員会『板倉鼎・須美子書簡集』(八ヶ崎・松田賢)

ママさん(高塚新田)

庶民のサンマはいまどこへ
 年々サンマの漁獲量が減っているが、今年はさらに少ないという。値段もわたしには手が出ない。
 三陸生まれのわたしの子どもの頃は、港が近かったのでサンマが港にあがると、トラックに山のように積んで方々に運んでいた。そのトラックの通った後には、サンマが何本も落ちていた。拾って持ち帰ると、母が七輪でやいて夕食の膳にのった。頭も内臓も綺麗にたいらげて骨だけ残ったのを母は、こんがりと焼いてくれ、「そりそり」といただいた。
 安いのでたくさん買ってきて、ぶつ切りにし、つくだ煮風に煮てくれた。それを梅干しだけの弁当箱に入れてくれ、学校で昼食時にお弁当箱をあけるのが楽しみだった。貴重なカルシウム源でもあった。何とも言えない、庶民の日常生活。夕方になると、隣近所からサンマを焼く匂いや煙が立ち込めていたのも、今は遠くなった。
 今は、サンマを焼いた後のかたずけや、煙や匂いが嫌やと焼くのが少なくなっているかもしれない。漁獲量が減り、価格も高騰、高級魚なみになってしまった。サンマでなくとも、栄養やカルシウムのある食品がたくさんあるので、考えよう。(松戸住民)

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