松戸の伝説・昔話
だいだらぼう
「でいだらぼっち」とか「だいだらぼう」と呼ばれる大男の話が松戸や柏には残っている。雲の上に顔があり、晴れた日だけ顔が見えるという大男、つまり巨人だった。
だいだらぼうは、いつも「はらへったぁ。はらへったぁ」と言って歩いていた。
ある干ばつの年、小金、大谷口、中金杉の村人は雨ごいをすることになり、その準備をしていると、どこからか、だいだらぼうが「はらへったぁ。はらへったぁ」と言いながら歩いてきて、台地にあるがけっぷちに腰かけて動かなくなってしまった。こんなところで、だいだらぼうに倒れられたら困ると思った村人たちは、家にある米をかき集め、三俵分の握り飯
を作って、だいだらぼうに食べさせた。だいだらぼうは「うめぇ、うめぇ」と言って、三俵分の米をあっという間に食べてしまった。
だいだらぼうは、喜んではねて行った。その左足の足跡が中金杉の広徳寺の下に、右足の足跡が大谷口の達磨下に、次の足が東平賀の東雷神社、次が栗ヶ沢の赤坂下、次が小金の大清水、次が八ヶ崎の釜段谷津と、足跡が次々についていった。
すると、不思議なことに、だいだらぼうがつけた足跡に水がボコボコと沸き上がり、干ばつで干上がっていた田んぼを水で満たした。村人たちは大喜びで田植えを済ませ、その年の秋は豊作になったという。
村人たちは、豊作はだいだらぼうのお陰だと感謝して、広徳寺の足跡のところに祠を建てて、毎月1日と15日におこわ(赤飯)をお供えしたという。
現在の広徳寺には、だいだらぼうの祠も池もない。石川光学住職に以前聞いた話では、明治時代頃に寄進された祠があるが、だいだらぼうを祀ったものではない、という。池については、門の脇に小金城の高城氏ゆかりの弁財天が祀られているので、おそらくその前あたりに池があったのではないか、という。
「腹切坂」の悲恋
北総線の矢切駅の前を走る県道は市川市国府台の方に続いているが、矢切駅前のロータリーを過ぎてすぐに上り坂になっている。昔はこの坂下の低いところには清水が流れ、小高い山にはキツネや青大将が住んでいたという。
坂を上りかけてすぐ、道路の脇に石造物が並ぶ一角がある。その中の1つには、「道喜霊」と刻まれている。小さな石碑で風化が激しく、かなり薄くなっているが、なんとか読み取ることができる。
近くの里見公園は、昔は国府台城という里見氏の城だった。この城の武士が上司の意に背き、この坂で切腹をしたという。それで、この坂は別名「腹切坂」とも呼ばれ、石碑は武士の供養のために建てられたという。
後の世のこと。矢切神社のお祭りの日に、村の若者・太郎と美名子はお互いを意識する仲になった。二人は人目を忍んで逢うようになり、田んぼ道を肩を寄せ合いながら栗山坂下の方に歩いていく姿がよく見られたという。
ところが、美名子の方に金持ちの息子との縁談が持ち上がり、話がトントン拍子に進んでしまった。
婚礼の夜、美名子は花嫁姿のまま逃げ出し、太郎のもとへと急いだ。翌朝、太郎と美
名子は道喜霊の石碑に持たれるようにして静かに眠っていた。桜の咲く春の朝で、二人の上には花びらがひらひらと舞い落ちていたという。
小金城のお姫様
戦国時代、小金城の高城氏には二人のかわいらしいお姫様がいた。高城氏は、豊臣秀吉の関東攻めの際、小田原の北条氏に味方していたため、滅ぼされた。
一人のお姫様は下谷の芦原の中に逃げたが、差向の底なし沼に入ってしまい、力尽きた。もう一人のお姫様は二ツ木の山の中に逃げたが、大きな松の木の下で力尽きた。
後の世、下谷の橋のそばでは、お姫様の幽霊が出るようになった。
橋のそばに住んでいた綿屋さんがかわいそうに思って、自分の土地に祠を建てて供養すると幽霊も出なくなったという。
二ツ木の松の木の下で力尽きたお姫様の松は枯れてしまった。枯れた松の根本に不思議な形をした松ぼっくりができた。それは、お姫様が二人座っているような形をしていた。
この松ぼっくりを見つけた名主は、これは小金城のお姫様かもしれないと思い、祠を作った。この祠はその後、蘇羽鷹神社に祀りかえられて、今でも大切に供養されている。
小金城の跡には毎年赤いかやが生えるので、戦の時にたくさん血を吸ったからではないかと、土地の人にうわさされた。
幸谷の黒観音
幸谷の福昌寺には行基作と伝わる十一面観音像が安置されている。行基が東国に下り、船でこの地に来た時に海中に黒く光る木を見つけ、これを拾い上げて観音像を彫ったという。同寺は、天正5年(1577年)開山の曹洞宗のお寺。黒観音は秘仏で、12年に1度、午の年の4月18日の大祭に御開帳がある。
また、同寺には「斬られ地蔵」の伝説がある。ある晩、酒に酔った湯浅淳平という武士が妖怪出没のうわさがある同地にさしかかった時、怪しげな物音と人影に切り付けた。翌朝になってみると、お地蔵様の額に刀傷があった。驚いた武士は福昌寺住職に頼み、報恩供養の法要を盛大に行ったという。
お話の内容は少し違うが、「上本郷の七不思議」にも、本福寺の「斬られ地蔵」がある。
ギロ沼の主
日大松戸歯学部周辺の地は、昔はギロと呼ばれていた。台風のたびに水害にあうような低地だったが、村人は稲作のほかに、どじょうや鮒、うなぎを獲って生活していた。
ギロの沼にはなにか得体のしれない沼の主がいると村人はうわさしていた。台風が来るたびに、田んぼに2メートル幅ほどの大きなものが暴れた跡のようなものができて、稲が荒らされていたからだ。
大正6年9月に大暴風雨の中で村の兄弟が漁をしていた。すると、なにか大きなものが網に引っ掛かった。これは土左衛門(死体)ではないかと思った兄弟は恐くなって網をそのままにして、帰ってしまった。次の日、網を引き上げてみると、こいのぼりみたいに大きな鯉が網にかかっていた。兄弟はその大きな鯉を荷車に乗せて、上野の不忍池の神様に奉納した。村人たちは、これがギロ沼の主ではないか、とうわさしたという。
小僧弁天
享保の頃(1716~1735年)に義真坊という6歳の子どもが馬橋の萬満寺に弟子入りした。利発な少年で、和尚に可愛がられたが、いたずら好きで寺男には恨みをかっていた。13歳の時にいたずらが過ぎて寺を追われ、実家への帰路、2人の寺男に捕えられて、米俵につめられて川に投げ込まれてしまった。義真は「この恨みは必ず子孫にたたってやる」と叫んで死んだ。
死体は古ヶ崎村に流れ着き、享保16年(1731年)6月20日、円勝寺住職によってねんごろに葬られた。その後、古ヶ崎の村人の夢枕に義真が立ち、「弁天にまつり供養せよ」と告げたので、坂川のほとりに祠を建てて祀り、「小僧弁天」と呼ばれるようになった。2人の寺男は7日間熱病に苦しんで悶え死に、子孫にも災難が続いたという。
一説には、義真は過度の勉学修業で心身をこわし、川に身を投げたといわれる。古ヶ崎に流れ着いた死体は村人によって葬られ、傍らに1本の松が植えられた。村人の浄財で建てられた祠が小僧弁天で、義真の霊は時折白蛇となってあらわれた。これを見た人には良いことがあり、また子を失った母が祠に詣でると、夢に生前のわが子があらわれるという。
また別の説には、和尚が言った冗談の一言を寺男が悪用し、義真を米俵につめて川に投げ込んだ。義真は女の子のようにかわいらしかったので、「小僧弁天」として祀られたという。
古ヶ崎五差路の近くの坂川のほとりに小僧弁天はある。昭和9年には萬満寺境内にも池が掘られ、弁天の祠が祀られた。
和尚と大蛇
萬満寺には、子どもの病気が治るとして始まった「仁王の股くぐり」や、「和尚と大蛇(おろち)」の伝説も伝わる。
動物も人間と同じように大切にした和尚は、寺の裏の池に住む大蛇もかわいがっていた。ところが、食いしん坊の大蛇は寺に来た人を飲み込もうとした。それを見た和尚はカンカンに怒って、大蛇を江戸川に追っ払った。大蛇は和尚が恋しくて、いつも馬橋の方を見ていた。
その後、江戸川の渡し船では馬橋の人が乗ると船が進まなくなった。馬橋の人が手ぬぐいなどを投げると、大蛇がうれしそうにくわえ、水にもぐり、再び船が進むようになったという。
けいせい塚
聖徳大学の正門を入って左手、花壇の中に2つの塚と「相模台戦跡碑」と記された石碑がある。塚はけいせい塚(軽盛塚・経世塚)と呼ばれている。
天文7年(1538年)10月7日、小弓公方足利義明は子義純とともに、相模台で小田原の北条氏と戦い、壮絶な戦死を遂げた。この戦では千人以上が亡くなったという。
義純の乳母(めのと)れんせいは、悲報を聞いてこの地を訪れ、塚の前で一夜を泣き明かしたが、夜中、夢に血まみれの義純があらわれ、れんせいを慰めたという。
現在の聖徳大学や中央公園のある相模台には、大正8年に陸軍工兵学校が創立された。この時に何も知らず塚を壊してしまい、その後いろいろな怪しいことや、不思議な事故が続いたため、再び塚を築き直したという。塚は7つあったが、それが1か所に集められた。「相模台戦跡碑」の石碑も昭和5年に陸軍工兵学校が建てたもの。
聖徳大学のキャンパス内でも校舎の増築などで昭和52年と平成7年に移転している。校舎の建設に伴って発掘調査をしたところ、小塚に使われたと見られる岩石が多数発見された。そこで塚をもう1つつくって祀ることにしたという。
移転の都度法要が行われ、現在も毎月18日に因宗寺住職により法要が営まれている。
※見学希望の場合は☎047・365・1111聖徳大学総務課まで事前に連絡を。
火ぶせのお地蔵様
むかし幸田の坂川で大水が出た時に、一枚の大きな板が流されてきた。板には地蔵が彫られていたが、村人たちはこの板を裏返しにして川の両岸に渡して橋を作ってしまった。
しばらくして、村の一人の男が流山に用があって行き、帰りが遅くなってしまった。提灯に火をともして帰り道を急いでいると、悲しそうな泣き声が聞こえてきた。あたりを見回すと、橋の裏でお地蔵様が泣いていた。
かわいそうに思った村の男は、お地蔵様を助け、近くの華厳寺に祀った。
喜んだお地蔵様は、お礼に幸田の村を火事から守ることを約束した。
それからというもの、幸田の村では火事がなくなり、お地蔵様は今でも「火ぶせの神」として信仰を集めているという。
東平賀では白い動物は飼わない
常磐線の線路沿い、北小金駅を出て柏に向かうと右側に東雷神社の小さな杜がある。
その昔、小金原が放牧場だったころ、雷が鳴って、東の方角から白馬に乗った白装束の若武者が現れ、森の木の上にとどまって輝いた。白糸縅(おどし)の鎧(よろい)が、若武者を美しく、恐ろしく空に輝かせ、その場にいた村人の瞳を射るようであったという。気が付くと、若武者の姿は消えて、ただ森のこずえがキラキラと輝いていた。
村人は若武者を稲を実らせる稲妻様の化身だと信じ、この森の中に東雷神社を建てて、稲作の神として祀り、白い動物を飼ったり、食べたりいたしませんと、誓い合った。
東平賀の村では、長い間、鶏でさえも白い動物であるとの理由で飼ったり食べたりしないといういましめが伝えられていたという。
八柱駅北口の幽霊
戦国時代の永禄7年に起きた、こうのだい(国府台・鴻之台・高野台)の戦いという有名な合戦がある。矢切の台地や栗山、国府台で、安房の里見氏が、小田原の北条氏と戦った。この時、小金城の高城氏も北条方の武将として武功を挙げている。里見氏は敗戦し、北条氏が勢力を伸ばした。
敗走して日暮まで逃げて来た里見方の武士たちが徳蔵院に立てこもり、山の中で切腹して果てた。近在の人たちが今の八柱駅北口付近に藤の木を植えて藤塚稲荷として祀ったが、たたりがあると言われていた。駅前の開発で、藤塚稲荷は徳蔵院境内に移された。
新京成線が開通したころには、幽霊を見たとか、鬨(とき)の声が聞こえる、人玉を見たといったうわさが流れたという。
今でも八柱駅北口の東側に藤塚稲荷の名残をとどめる小さな石碑が立っている。【戸田 照朗】
※参考文献=「松戸の寺・松戸の町名の由来・松戸の昔ばなし」(松戸新聞社)、「まつどのむかしばなし」(大井弘好・再話、成清菜代・絵、財団法人新松戸郷土資料館)、「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「松戸のむかし話」(岡崎柾男)、東京聖徳学園学園報第336号(平成9年5月26日)「軽盛塚」から「経世塚」へ(聖徳大学川並弘昭記念図書館参与・椎名仙卓)