松戸 川と水の物語
古来「四十八渓の澗水をあつむ」と言われた坂川の水は、台地下に湧き出る水が集まって川の流れとなった。宅地開発で湧水(ゆうすい)はほとんど姿を消してしまったが、市内にはいくつかの湧水の名が今でも残っている。新松戸から古ヶ崎にかけての水耕地帯は、昔は下谷(したや)と呼ばれた。『昭和の松戸誌』(崙書房出版)の中で、渡邉幸三郎さんは、子どものころに見た古ヶ崎の風景を「松戸の水郷」と呼んで懐かしんでいる。【戸田 照朗】
坂川の源流
いくつかの湧水の中で坂川(富士川)の源流だと言われているのが、松戸市小金1709の1番地先の大清水湧水と流山市市野谷の牛飼いの池だ。
大清水湧水は柏市と松戸市の市境、栗ヶ沢小学校の近くにある。松戸側が丘陵になっており、その麓の小道沿いに湧水があり、小川を作っている。
「大清水の湧水を復元し周辺の自然環境をまもる会」が建てた看板がある。また、「富士川に清流を取り戻す会」が建てた「富士川源流地点」の標柱がある。以前は写真のように水車もあったが、再訪してみたところ、なくなっていた。
この小川の流れは、富士川(藤川)として北上し、流山市柴崎(松戸側は幸田)で流山から南下してきた流れと合流し、坂川となる。
富士川は時に暗渠(あんきょ)となり、住宅街の中を進む。川の近くに「イボ弁天」がある。柏市が建てた説明版があり、ここに弁天様が祀られた年代は明らかではないが、初代の高橋源左衛門という人が長く病気にかかり、弁天様のたたりだと言われたため、氏神として祀ったのが始まりだという。
祠の前に池があるが、これは伝説の巨人デーダラボッチの右足の足跡だという。池は長さ10メートルで、西方に向かって歩いた時のものと言われている。柏市逆井(さかさい)の観音寺近くの弁天様の池は左足跡と言われており、逆井から酒井根まで一歩で歩いたことになる。
この池の水はイボ取りにも効果があると言われ、一時はかなり賑わったようだ。また、別名お多福弁天ともいわれ、願い事が叶えば財が増え、福が多いという。
富士川は国道6号線につきあたる辺りで、左手に根木内歴史公園が広がる。ここは、根木内城跡だ。
根木内城は、戦国時代の武将、高城氏の居城だった。寛正3年(1462)に高城胤忠が築城した。以降、天文6年(1537)に胤吉が小金城を完成させ、移り住むまでの75年間、高城氏の拠点だった。公園となっているのは城の一部で、城は国道6号線をまたぐように広がっていた。城の東側を流れる富士川は天然の堀の役目を果たしていたかもしれない。
根木内城跡と川の間は湿原になっており、ザリガニ採りに興じる子どもたちの姿をよく見かける。
国道6号線、常磐線を超えると視界が一気に広がる。遥か遠くまで畑が続き、遠くに豊かな緑が見える。散歩道としておススメの場所だ。この景色はこの先2キロ、富士川の終点、坂川との合流点まで続く。
合流点から川を少しさかのぼると、北千葉導水路の出口がある。28・5キロ先の利根川から水を地下の巨大なパイプで引き、手賀沼と坂川の流量を確保し、手賀沼と坂川の水質の浄化に貢献している。26年をかけた大工事は平成12年に終わった。
利根川の水が勢いよく噴出しているここは、野々下水辺公園として整備されている。
さて、この先にあるはずの坂川のもう一つの源流、牛飼いの池だが、現在はつくばエクスプレスに伴う開発で消滅している。
この辺りでは、坂川は松戸市と流山市の市境となって流れている。小金北中の近くに幸田湧水がある。幸田貝塚などがある台地を下りた坂の下、道の脇に池とベンチなどが整備されている。
治水のための人工の川
坂川は治水のために掘られた人工の川だ。大谷口新田(新松戸)までは昔から自然にあった流れで、同地から伝兵衛新田字一本橋(今の旭町小の辺りか?)までは、延宝期(1673~81年)に掘削されたようだが、はっきりとは分かっていない。
赤圦樋門までは、文化10年(1813)に開削工事が行われた。
下谷の村々が初めて幕府に坂川の掘り継ぎを願い出たのは、これをさかのぼること32年、安永10年(1781)3月のことだった。流山村、鰭ヶ崎村、木村、馬橋村、小金町、三村新田、七右衛門新田、大谷口新田、九郎左衛門新田、主水(もんと)新田、伝兵衛新田、古ヶ崎村の12か村が、鰭ヶ崎村の庄左衛門、流山村の重左衛門、九郎左衛門新田の久左衛門の3人の名主を総代として松平伊豆守奉行所に訴えたが却下された。その後も何度も勘定奉行所に訴え出たが、なかなか認められず、時だけが流れた。
しかし、やっと実現した文化10年の開削工事が終わった後も、坂川の水はうまく流れなかった。幕府は水がうまく流れないのは水藻のせいだとして、藻刈りを村々に指導したが、藻刈りをしても、水は予定通りに流れなかった。
戦後、建設省が赤圦樋門の改修のために川床の岩盤を削ったところ、水がよく流れるようになったという。『松戸市史』は「赤圦付近の落差の調査がもう一度丁寧に行われ、解明が遂げられていたならば、これから後の坂川の歴史は変わったかもしれなかった」と記している。
掘削運動の中心人物であった鰭ヶ崎村の名主・渡辺庄左衛門は、享和元年(1801)に出願した国府台下まで掘削して江戸川との落差を利用して坂川の水を流れるようにするという案を実現するしかないと考え、運動を始めた。
天保4年(1833)になって、普請役3人が松戸に来て水盛が行われたが、松戸宿西側裏から小山村にかけて水盛をしている時に事件が起きた。かねてから下郷の小山村、上・中・下の三矢切村、栗山村はこの工事に反対しており、水盛作業をしていた古ヶ崎村の百姓ら7人に打ちかかり、死傷者を出した。打ちかかった下郷の村々の人の中にも入牢中に牢死するものが出た。
その後、奉行所の仲裁で上郷の12か村と下郷の5か村が話し合い、工事は開始されたが、上郷の村々は下郷の村々に対しての様々な補償など、厳しい条件をのむことになった。
渡辺庄左衛門は54年間、3代にわたり1187両を立て替えたがどの程度の金額が戻ったかは定かではない。
工事費は3600両で全額地元負担となったが、後に幕府が年賦で負担したようだ。
初の出願から56年をかけ工事が完了した日、村中を1日休みにして喜び合ったという。
しかし、下谷の村々では正徳4年(1714)から昭和56年(1981)まで90回の水害があったという。明治の終わりに、蒸気の排水機場が樋野口にできてからは水害も減ったが、北千葉導水路事業の一環として行われた坂川放水路の工事が昭和53年に終わるまでは水害があった。
下谷と呼ばれる地域は、海抜2~5メートルで、いったん大水が出ると、一面湖のようになってしまう。排水が悪いので、水が引くまでには一週間はかかった。
農家は自宅の敷地内に盛土をした小山をつくり、そのてっぺんに倉のような建物を建てた。
この「水屋」の中に重要な家具などを入れておき、大水が出た時はここに家族全員が移った。米、みそ、水があれば1か月はしのげたという。
昔は水害のために3~4年に1度しか米の収穫ができず、馬橋などの台地に畑があり、小麦やサツマイモを栽培して食糧にしていたという。
坂川の再生
坂川は戦後の都市化の中でヘドロと悪臭の川となってしまった。水質汚染の目安となるBOD(生物学的酸素要求量)は1970年、赤圦樋門で136を記録した。90年頃までは20~40前後で推移し、95年に環境基準の10を切る。2006年は1・8と劇的に改善している。
東京、埼玉、千葉の人々の水源となっている江戸川の水質汚染は深刻な問題だった。江戸川の水質汚染の原因の50%は坂川の汚染水だと言われていた。坂川の水質の改善は松戸市だけでなく近隣自治体や、国にとっても急務だった。水質改善には、市や河川愛護団体による啓蒙活動や、下水道の普及のほかに、98年に古ヶ崎浄化施設と流水保全水路(ふれあい松戸川)が完成したことが大きい。99年には、利根川から水を引く北千葉導水路も通水している。
坂川の水は古ヶ崎浄化施設で浄化され、流水保全水路を通って、小山可動堰で再び坂川に戻される(小山可動堰を境に、水は坂川の上流と下流にそれぞれ逆方向に流れていく)。
この水の循環が水質浄化に大きな役割を果たしている。一時は、大きく育ったアユやカワセミの姿も見られるようになった。
しかし、現在は古ヶ崎浄化施設の老朽化で稼働しておらず、今後どうするかについては、未定だという。
※参考文献=『松戸市史 中巻』、『松戸市史料第二集』、『松戸の歴史案内』(松下邦夫)、『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎・崙書房出版)、『これが坂川』( NPO法人まちづくりNPOセレガ)