わたしのページ(読者投稿)2020年4月26日

さくらさんの作品

あの時代は二度と戻らない
 小学校高学年のころ、土曜日の8時はとても楽しみな時間だった。
 「8時だョ!全員集合」は、ドリフターズのコント、ゲストと一緒の少年少女合唱団のコーナー、体操の時間などがあり、盛り沢山の生放送番組だった。コントのセットが変わるタイミングで、生バンドをバックに歌手が本物の歌を聴かせてくれた。
 収録や、CG技術のなかった時代。大人になってあらためて見ると、本当に現場は壮絶だったのだろうな、と思う。
 今の時代、歌謡番組を見ていると『口パク』ではないかと疑うものは多く、ドラマや映画はCG技術が取り入れられ、どこまでが本当の映像なのかわからない時もある。
 芸能生活45年の志村けんさんが新型コロナウイルスに罹患し、命を落とされた。70歳という若さだった。
 45年前に思いを馳せると、「過労死」「幼児虐待」「地球温暖化」など全くなかった時代だった。
 志村けんさんの功績をたたえ、感謝するとともに懐かしいあの時代は二度と戻らず、もの悲しい気持ちでいっぱいになった。(二ツ木・石井裕子)
はやく安心して住める世の中に
 とうとう緊急事態宣言まで発令されてしまった。
 2月3日に友だちと上野の文化会館にクラシックを聴きに行った時は、娘も軽い気持ちで「ママ、マスクちゃんとやっていった方がいいよ」と言ってくれたくらいで、わたしも新型コロナなんてすぐ終息すると思っていた。でも、その考えが甘いことはすぐに思い知らされた。
 毎日、学校に行けない孫の相手をしていて、わたし自身も疲れて、お昼は買ってきたお弁当を食べる毎日。 ワラにもすがる思いで仏壇にお線香をあげながら「早く良い薬が見つかって皆が安心して住める世の中にしてください」と祈っている毎日です。(八ヶ崎・匿名希望)

山澤優(岩瀬)

1秒でも早く収束すること祈る
 新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急経済対策として、家族全員分に対して一人当たり一律10万円が給付されることになりました。
 申請も簡素化するということですが、郵送はわかるがオンラインと言われても今まで関心のなかった高齢者は大変な作業と思います。そして、この給付金が社会に対して消費され、町の活性化に少しでもなればと思っています。
 早く一時も1秒でも早くコロナウイルスが無くなることを一万円札の肖像画の福沢諭吉に10人分願掛けて終息、そして収束することを祈っています(胡録台・収束)
人生、何が起こるかわからない
 まさか突然こんなことになろうとは…。
 パソコンが壊れた。急に動かなくなった。昨日までは普通に使えていたのに。
 メーカーに電話して、いろいろ試してみたが駄目で、残るは初期化ということに。このまま初期化すると、保存してあるデータが全て消えてしまう。が、やるしかない。
 初期化した結果、パソコンは直り、データは消えた。時間はかかったし、その後の作業も大変だったが、やってよかった。勉強にもなった。
 幸い消えて困るデータはなかったが、 残しておきたかった写真などは多少あった。日頃の備え、バックアップの重要性を痛感した。
パソコンが壊れた時は焦ったが、悲観したところで状況は変わらない。今できることだけに集中した。すると心が落ち着いた。
 人生、何が起こるか分からない。まさか新型コロナウイルスがこんな大ごとになるなんて、誰も思わなかっただろう。
 不安をかかえ、多大な苦労をされている方々がたくさんいる。いろいろ大変だとは思うが、今大切なのは、一人ひとりがちゃんと考えて、行動すること。そして、必ず良くなると信じることではないだろうか。
 過去を悔やんでも今の状況は変わらない。大事なのは、今、最善を尽くすことだ。そうすれば、今は大変でも今回のことがきっかけで、これから良い方向へ変わっていくのではないだろうか。
 きっと来年は桜を見ながら、みんな笑顔で、去年はあんなこともあったよね、と話していることだろう。
(稔台・たぬき)
簡単には捨てられず困っている
 わたしが子どものころに、アメリカとの戦争が始まった。戦中、戦後は物資が欠乏して中々物が手に入らなかったから、今でも物を簡単には捨てられずに困っている。
 我が家は空襲では幸運にも焼け残った。それが幸いして衣類には遍迫(ひっぱく)せずに済んだが、シャツが買いたくても買えなくて、ボロボロの肌着を着ていた人がいた。体にはシラミがたかって着替えたくても替えられず悲惨だった。
 そのようなことを過去に見たり聞いたりしていたので、わたしは物を大切にする。
 今の日常生活の中で靴下に穴があくと、安く売っているから捨てようかな、と思うのだが、穴は底の先の部分だけで後はしっかりしているから、とつい捨てずにいる。
 小さな穴などは、糸を通した針で穴の周りを縫い付けて絞る。そこに糸を絡げて縫い上げると穴は塞がる。わたしは事を簡単に済ますのが好き。靴下は少しゴロゴロするかなと思ったが、大した違和感もなく履けている。
 周辺に小さな穴があけば、また同じようにして2~3回は繕って使っている。些細な物にこだわって…、と苦笑しながらも捨てられない。
 わたしは決してケチではなく、始末や(倹約する)と言いたい。それとも、資源保護のためにとも。始末やの『や』の字は漢字ではどう書くのだろうか。(小金原・小倉芳子)
今年も桜が咲いたけれど…
 今年も桜が咲いた。例年より早い開花で、今は葉が目立つようになった。
 提灯も屋台も無い桜通り、マスクをした人たちがたまにスマホでパチリという姿が目に付く。大きいマスクをしていると、相手も自分も、知人、友人であることに気付かずにすれ違いそうになることがある。会話が少なくなっている今、知人友人に出会うのはうれしい。少しでもおしゃべりが出来る。
 そろそろ御衣黄桜が咲くころと、常盤平団地に向かう。所々に砂場、ブランコ等のある公園、昔は子どもたちが喜々として遊んでいたことだろう。今はほとんど見かけることは無い。広い芝生の中に樹齢60年以上の桜の木がのびのびと枝を伸ばし、排ガスの心配もなく咲いている。ソメイヨシノを始め、枝垂れ桜、八重桜、そして、御衣黄桜が咲き始めている。初めは若草色で、だんだんと黄色みがかり、さらに芯の部分が赤みをおび、花びらは白色に変わってくる。
 その色の変化からきたのか、花言葉は「永遠」とのこと。深い、味わいのある花言葉だと思う。
 しばし世俗から離れて御衣黄桜を味わった。(常盤平・松戸住民)
散々な一日、衝撃3連発!
 日頃、礼儀正しい若い人をたくさん見かけうれしく感じているが、今春のある日は衝撃3連発だった。
 まずは市民相談での専門家の先生。わたしより若いその先生がびっくりするほど上から目線。一般人相手なのだからわきまえてほしいと思った。
 そして帰り道、ある専門店へ。年下の友人への贈り物のことで若いアドバイザーに相談したが、何を聞いても「結局ご本人の好みですから答えかねます」と突き放される。
 何とか品物を選び疲れ果てた帰路。歩道を走る若者の自転車を避けたわたしに放たれた言葉は「チョー邪魔!」、ここ歩道だよ?
 わたしがこれらの残念な体験から立ち直るのにはしばし時間を要した。(牧の原・もなか 56)
捨てて処分する終活を選ぶ
 わたしは今77歳。妻と一軒家での年金生活で、旅行、カラオケ、食活を楽しんでいます。人それぞれの終活がある中、趣味の多いわたしは捨てて処分する終活をしました。還暦を機に住居と少額の金と墓とマンションを残して。
 本、書籍、古茶道具器具、テニス、将棋や囲碁、盆水石類は市や団体に寄贈した。相続した不要な土地、株、債権や車、ゴルフ用品、切手、古銭、骨董品、カメラ、和服等は全て現金化。そのお金でマンションを買い、賃貸に。15年かけて、全国の名所、旧跡、城、神社、寺巡りをした。全て人生の思い出となった。
 マンションと住居は、2人の子に遺言書を作成した。他は残さないとした。
 先祖の墓を造り、生前戒名を受け、寺に永代供養料を払い、子に伝えた。
 子らは納得して喜んでくれ、今はホッとし、菜園作りと旅行等で豊かな老後をおくるべく多くの趣味を捨て、楽しい生活をしている。
(稔台・鈴木正道)
松戸市の人口が50万人へ!
 松戸市の人口が本年中に50万人に達するのではないかと思われる。本年3月1日の人口は49万8375人で、あと1625人で50万都市になる。
 千葉県では、千葉市、船橋市に次いで第3位の人口を有している。この人口は東葛地方では第1位の人口で、県内JR常磐線沿線の中心都市として、ますます発展する要素が含まれている。
 また、自動車の「松戸ナンバー」が5月から使用開始される。図柄入りのナンバーも新しく作られ、フルカラーで、矢切の渡しの渡し舟と桜の花とアジサイをあしらっている。同じ絵柄でモノトーンも利用できる。もちろん通常のナンバーもあって、松戸市の車を各方面でもPRできそうだ。
 さらに、2021年に延期された東京五輪に向けたホストタウン交流で、ドミニカ共和国とルーマニアとの交流も継続される。実際の開催時のころは、50万都市としての面目を発揮されるだろうし、盛り上がれば市民間交流にも発展されると思われる。
 いずれにしても、東葛一の松戸市として、わたしたちも誇りと自信を持って邁進して参りましょう。
(高塚新田・松毬)
肩の温もりは未だに残っている
 二十歳の頃だったと思う。もう55年以上も経っている。
 季節は肌寒かった春のある夜。さほど親しくなかった幼なじみのA君と、たまたま両方の知り合いを訪ねる事になりました。その帰り道の出来事でした。
 当時の田舎道には外灯などなく、夜ともなれば真っ暗闇だった。田舎を離れ、ネオン輝く街を知ってしまった僕達には、真っ暗闇は不思議極まる眺めのように思えました。
 空を見上げても、星も月も全く見えず、一歩足出すのさえ不安に陥った。
 後にも先にも行けぬその状況のなか、勇気を振り絞ったはずなのに、不自然に足は止まってしまう。するとどちらからともなく、スッと腕が出て肩を組んでみた。そうか、これだ、これが良いかも。真っ暗闇対策はこれが一番だった。
 2キロほどの帰路の足元は、窪地さえ見えなかったが、肩を組むという対策は、二人に大きな安心感をもたらしてくれた。
 あれから55年。肩を組んだ彼も鬼籍に入ってしまったけど、肩の温もりだけは未だ残っている。
(友は一番 76)

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