松戸周辺の城跡を訪ねて㉒
国分城跡
市川市の下総国分寺がある台地先端部が国分城(館)跡だという。
台地の下には昨年開通した外環道とその側道である国道298号線が走り、交通量が多い。台地を上りかけた中腹に経王寺があり、台地上には下総国分寺をはじめ、宝珠院、天満宮、稲荷神社がある。この辺りが城域だという。台地上は静かな住宅街だ。それほど広くはない範囲に寺社が複数有り、この台地には古くからの文化の香りがする。城域からは外れるが、国分僧寺からそう遠くない台地奥には国分尼寺跡があり、公園になっている。国分僧寺から国分尼寺に至る道の辻には2か所、木立に囲まれた小さな祠(ほこら)がある。周囲にはまだ畑も残っており、昔の村の風情が想像される。
国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のために各国に建立を命じた寺。正式には国分僧寺を金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と言った。
市川市のホームページによれば、「(国分僧寺は)現在の国分寺とほぼ同じ場所にあり、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・塔・講堂が建てられていた。
昭和40年(1965)から41年に実施された発掘調査では、現在の本堂下から、東西31・5メートル、南北19メートルの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見された。その基壇の中心から北西40メートルにあたる現在の墓地内に、東西26メートル、南北18メートルの講堂の基壇があり、さらに金堂の基壇の中心から西へ39メートルのところに、18メートル四方の方形の塔跡の基壇があった。
平成元年から5年の発掘調査では、寺の範囲が東西300メートル、南北350メートルほどになることや、寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが分かった。
また、国分寺の屋根瓦を焼いた登窯(のぼりがま)の跡も、この近くから発見された。瓦にある文様は、当時瓦の文様に多く用いられていた蓮華文ではなく、『宝相華文』(ほうそうけもん)と呼ばれるもの。宝相華文は中国で考えられた当時の流行文様で、唐草の文様が花のように見えるところからこの名がついている」という。
この地域は下総国の中心地で国府台には下総国府があった。
平安末期から鎌倉時代にかけて、この地域は後に国分を名乗るようになった千葉常胤の五男・胤通(国分五郎)の支配地だったという。千葉氏は下総に下向した桓武平氏の末裔(まつえい)で、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵では、頼朝を助け、鎌倉幕府創設に貢献した。
下総国分寺の境内には、明徳4年(1393)10月26日と応永5年(1398)11月日在銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基がある。これが国分五郎の供養塔だと伝えられている。以前は石塔坂(松香園という施設の前の坂)の坂上左にあったといい、また、近くのぶどう園内に3基あったともいう。明徳4年の宝篋印塔には、福寿女・如意尼・朝賢・松下坊範澄・宗貞・宗光鏡海・渓圓などの名があり、永応5年の宝篋印塔には良真・法然・妙意といった法名が刻まれているというが、残念ながら風化のため文字がうっすらとして判然とせず、読み取ることができなかった。
その後、戦国時代にはこの土地を小金城主・高城氏(高城氏も千葉一族と思われる)が支配したという。戦国時代には「国府台合戦」という大きな合戦があり、国分寺も一時荒廃していた時期があるという。高城胤則は寺の復興に努めた。
下総国分寺の近くの住宅街の中に手作りの赤い鳥居のある小山があり、小山の上には市川市の保存樹木となっている見事なスタジイ(別名・雷神木)の大木と、その根本に小さな祠がある。この土地は石塔坂を下りたところにある造園会社の所有とのことで、話を伺った。スダジイの左隣には大きな切り株がある。以前はこの2本の大木がこの土地を覆うほどの枝ぶりを見せていたが、諸事情でやむなく切られたという。
この小山は古墳(おそらく円墳)だとも言われているが、発掘調査が行われたことはない。造園会社のご主人は、土器のかけらを見つけたことがあるという。
また、いつも参考にさせていただいている千野原靖方さんの『東葛の中世城郭』(崙書房出版)によれば、この小山は城の櫓台(やぐらだい)跡だという。この小山に隣接する土地は台地縁(崖)に向かって小さな空き地が広がっているが、ここにも土塁のような盛土が見られる。
家や樹木で直接は見えないが、この小山の隣には小さな稲荷神社がある。稲荷神社も小高い場所にあり、社殿入口の両脇には御神木と思われる樹がある。1本は枯れて子どもの背の高さほどで上部がなくなっているが、この樹も大木だったのかもしれない。小さな手水舎(ちょうずしゃ)の石には「天保五歳 午二月初午」と刻まれていた。
【戸田 照朗】