本よみ松よみ堂
三秋縋著『君の話』
久しぶりにSFを読んだ。哀しく切ない青春小説のようでもある。著者の作品を読むのは初めてだと思う。
近未来の話。新型アルツハイマー病の治療薬として粉末状のナノロボットが開発された。それを飲むことにより、過去の記憶をなくしたり、新たに自分にとって都合の良い記憶を植えつけたりできる。人はその偽りの記憶を「義憶」と呼んだ。やがて、病気には関係なく、人生の欠落した部分を補うように人々は義憶を買うようになった。美容整形のように。
主人公の「僕」は愛情の薄い家庭で育った。両親は義憶に耽(ふけ)り、離婚後、母は「僕」の記憶まで消してしまったようだ。
19歳になって半年経った頃、「僕」はそれまでの人生を振り返り、思い出らしいことが何もないことに改めて気が付く。そして、アルバイトで貯めたお金で6歳から15歳までの記憶を完全に消すことにした。クリニックに行き、長いカウンセリングを受けた。しかし、届いた薬(ナノロボット)は、何かの手違いで、夏凪灯花(なつなぎとうか)という架空の幼馴染の記憶を植え付ける薬だった。灯花は「僕」にとって完璧な少女だった。「僕」のことを100%理解して、いつも隣にいてくれた。
家族から愛されず、仲のいい友人も恋人もいなかった孤独な「僕」にとって、灯花は唯一のよりどころとなる記憶(義憶)のはずだが、「僕」はそれが本物の記憶でないことに虚しさを感じる。
クリニックには違ったものが送られてきたことを伝えて、灯花の義憶を消す薬と、本来の目的だった6歳から15歳までの記憶を消す薬が送られてきている。
だが「僕」は灯花の義憶を、飴玉を舌の上で転がすようにしながら、まだ薬を飲まず(飲めず)にいる。
そんな時、夏祭りが行われている神社の人ごみの中で、浴衣を着た灯花を見かけた。義憶の中で15歳で別れた時よりも少し大人びた灯花。しかし、彼女は「僕」の頭の中にだけに存在する架空の人物のはず。「僕」は混乱する。
ネタバレしないように、最初のほんの触りだけを書いた。
この物語には義憶技工士という魅力的な職業が登場する。依頼者の履歴書を丹念に読み込みながら、依頼者にとって理想的な義憶を作っていくという仕事だ。物語を紡(つむ)いでいくという面では小説家と似たところがあり、対比させて書かれたところもある。「夏凪灯花」という義憶の中で、もしあの時、あの場所に、「僕」のそばに灯花がいたら、あの現実はこんな展開を見せたのではないか、という架空のエピソードが積み上げられていく。
読んでいて、人間にとって、人生にとって「記憶」とは何かという問いにも思いを巡らせた。数年前に子どもの頃から可愛がってくれた大叔母(祖母の姉)を亡くした。認知症で、施設を見舞った時には、既に私のことが完全に分からなくなっており、風貌もすっかり変わっていた。私という記憶を完全になくした大叔母と話した時の何とも言えない空虚感。既に私の知っている大叔母はもういないのだと感じた。
そして、この小説のもうひとつの大きなテーマは、本当に理想の相手に生きているうちに出会えるのかという問いのように感じる。物語の世界ではイエスだが、現実の世界ではノーの場合が多いだろう。理想の相手がこの世に1人くらいいるのかもしれないが、ほとんどの人が出会わぬまま死んでいく。そんな人は本当はどこにもいないのかもしれないし、出会った人を愛せるようになればいいという現実的な見方もあるだろう。しかし、この小説を読んだ後には、そんな理想の相手がどこかにいて、いつかふとしたきっかけで出会うのかもしれない、という甘やかな希望を感じる。
【奥森 広治】