松戸周辺の城跡を訪ねて㉑
平将門伝説が残る大野城跡
JR武蔵野線、市川大野駅の前にある舌状台地上に大野城があったという。
武蔵野線はこの台地を貫通して通っている。台地は谷津と言われる切り込むように細く入りこんだ細い谷によって、いくつかの弧を描いている。都市化が進む前は、台地上から流れ込む湧水で谷が潤され、美しい谷津田が広がっていたのではないかと想像する。
この台地には斜面林があり、「大野緑地」という名前がついていた。都市化で緑の少ない市川市ではこういった斜面林を緑地として保存しているのだろう。台地上の縁(ふち)には市川市万葉植物園がある。
また、この台地緑辺部にある市川市立大柏小学校の敷地内では土塁の跡などが発見されているという。小学校から台地下に降りる坂道の下の道路脇には「南無妙法蓮華経」と刻まれた古い石碑が建っていた。現在は近くに移転してしまったが、小学校の隣地にあったという本将寺のものと思われる。
大野城の中核は市川市立第五中学校の敷地だという。同校の正門の脇には、市川市教育委員会が平成30年3月に掲げた説明板がある。
それによると、
「この説明板の立つ台地は、かつて「城山(しろやま)」と呼ばれていました。
また一帯には、御門(みかど・大手門)・殿台(とのだい)・殿内(とのうち・領主の館)・迎米(むかいごめ・米倉)・馬寄場(うまよせば・馬場)・一ノ谷・二ノ谷(外堀)・楯台(たてだい・守備陣地)・根古屋(ねごや・従者の居住地)などと、中世の城跡をしのばせる地名や、空堀の跡・土塁(土を盛った囲い)・或いは抜け穴等の跡が各所に残されていました。なお、これらの地名表記は、大野村の元禄検地帳で確認できます。
しかし、この城跡がいつの時代に、誰によって造られたものか、現在、確証できるものはありませんが、昭和四十四年に第五中学校、同五十四年に第五中学校と大柏小学校の一部を発掘調査した結果では、中世戦国時代に相当する城跡と考えられます。
また一説には、日蓮上人に帰依した、曽谷教信(そやきょうしん)が、法蓮寺(ほうれんじ)を建て、この地で没したり、さらに一族によって礼林寺(らいりんじ)が建てられていることから、曽谷氏に関係ある城であった可能性もあります。
ただ、地域には、関東を支配しようとした平将門が、下総国の南西部(市川市周辺)の鎮圧のために築いた城とする伝承があります。将門伝承は、大野城に限らず、広く市川市域に伝来しています」とある。
第五中学校の校舎の裏も台地の縁で、斜面林が台地下まで続いている。校舎の裏の斜面林の上には城跡を示すものなのか、小さな祠がある。学校の方にお願いして見せていただいたが、祠のある林は私有地とのことで、写真の掲載は控えることにする。
この斜面林の下は同校のグラウンドとなっており、グラウンドを挟んだ向こうにも小山のような舌状台地がある。この台地が天満天神宮で、平将門が天慶(てんぎょう)元年(938)に京都の天満宮(北野神社)をこの地に勧請(かんじょう)したものだと伝えられる。
※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)【戸田 照朗】