松戸周辺の城跡を訪ねて⑲戦国史に残る合戦の舞台国府台城跡

里見公園の国府台城跡の碑

里見公園の国府台城跡の碑

 矢切のとなり、市川市国府台にある里見公園は国府台城の一部だったと言われている。戦国時代でも有名な2つの合戦の舞台になった国府台城は松戸市の戦国史とも深い関係がある。国府台城の見所を紹介する。【戸田 照朗】

 桜の名所としても知られる里見公園は国府台城の跡だったと言われる。城域は、南北に約650メートル、幅の一番広いところで約230メートルと広い。里見公園や総寧寺、天満宮のある南側から、北側は本久寺近くまで栗山の斜面林沿いの台地上に細長く築かれていたと思われる。
 里見公園内には大きな土塁のような起伏が見られるが、第二次大戦中に首都圏防衛のための高射砲陣地が築かれていたため、深く掘り下げられたものと思われ、戦国時代の土塁がどの程度のものだったかは分からない。
 文明10年(1478)12月に下総境根原(柏市)の合戦で扇谷上杉氏の家宰・太田道灌(資長)が仮の陣城を国府台の丘に構え、翌年に臼井城を攻めた際に本格的に築城したと考えられるという。
 さらに天文7年(1538)の相模台の合戦と永禄7年(1564)の国府台の合戦という関東の戦国時代を代表する大きな合戦を経て、国府台城は小金城主高城氏の支配下に入っていったと考えられる。
 戦略的に重要な城で数々の戦乱の舞台となった国府台城は戦国時代には堅固な城郭として整備されたと思われるが、城主や城代が常駐する城だったのか、城主が誰だったのかなどは分かっていない。

相模台の合戦

里見公園内の土塁のような起伏

里見公園内の土塁のような起伏

 戦国時代の関東地方は、室町幕府の関東における拠点として置かれた鎌倉府の鎌倉公方(初代は足利尊氏の子・基氏)の兄弟の争いや、その補佐を担当した関東管領・上杉家との勢力争いに戦国大名たちが加わって、複雑な様相を呈していた。
 永正15年(1518)には、古河公方足利高基と弟の義明が対立。義明は上総武田氏に迎え入れられる形で小弓城(千葉市)を攻撃した。
 当時、小弓城を守っていたのは千葉氏一族の原氏で、原氏は「家老」筋の高城氏とともに城を追われ、小金城に拠点を移すことになった。この時、原氏・高城氏は身内から多くの戦死者を出している。
 義明は小弓公方と呼ばれるようになった。
 小弓城で苦杯をなめた原氏と高城氏は、千葉氏とともに小田原の北条氏に接近するようになった。一方の小弓公方義明側は、安房国の里見氏と連携するようになる。北条氏は扇谷上杉氏から河越城(埼玉県川越市)を奪い、続いて葛西城(葛飾区)を攻略して、江戸川を挟んで松戸市域の対岸まで勢力を伸ばしていた。
 両軍がついにぶつかったのは天文7年(1538)10月7日。小弓公方足利義明・里見氏の連合軍は2日に国府台城に入った。三昼夜をかけて防護工事をし、主力を松戸の陣ヶ前に置いたという。一方の北条氏綱軍は7日朝に松戸対岸に着き、江戸川を渡って進軍。松戸中央公園のある相模台や松戸駅周辺が激戦の場となった。
 この戦いは多くの軍記物語に描かれているが、それによれば北条軍は7千騎、義明軍は3千騎だったという。午後4時から3時間に及ぶ激戦の末、義明軍は義明本人、嫡子、弟も戦死し、滅亡した。里見氏の損害は限定的だったという。
 この戦いの結果、原氏は小弓城に戻ることができ、高城氏が小金城の主となった。
 相模台の聖徳大学敷地内にある経世塚は相模台合戦で戦死した小弓公方足利義明ら戦死者の塚だといわれ(2回ほど移転)、伝説がある。

国府台の合戦

 永禄3年(1560)に越後の上杉謙信が関東に進軍してきた。
 謙信は山内上杉氏を継いで関東管領に就任することを望んでおり、翌年に小田原城を大軍で包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行った。
 北条氏は謙信の帰国後、勢いを増して武蔵の城を次々に攻撃する。武蔵松山城を追われた太田資正と太田新六郎(道灌の孫)は、上杉謙信から要請された里見義弘に助けられ、ともに北条氏と戦うことになった。
 永禄6年(1563)の末には、里見氏は市川に陣取り、太田氏への救援の兵糧の準備をしていた。永禄7年正月、江戸城の北条氏直臣遠山氏と高城氏は里見氏が兵糧の調達に手間取っていることを察知し、今こそ討ち取るべきだと北条氏に進言する。
 戦を決意した北条氏康は電撃作戦を敢行する。急いで大軍を組織し、6日午後2時頃に小田原を出立。先陣は早くも7日午前10時頃葛西芝又に着いた。
 里見軍は13日の出兵予定を繰り上げ、6日午前8時頃に出発し、7日午後6時頃千葉市検見川あたりに着いた。
 8日午前8時頃、矢切の渡しのからめきの瀬を北条軍が渡り、大坂(野菊の墓文学碑のある西連寺下の急坂)あたりで里見軍と戦闘が始まった。結果は里見軍の大勝。北条軍の遠山氏らが討ち取られた。

 大勝に気をよくした里見方は、夕方から雨が降り出したこともあり、疲れもあって、次の合戦は翌日だと考え、鎧(よろい)を脱ぎ、馬に飼葉(かいば)を与えて油断していた。そこを北条氏政の軍が包囲し、夜襲をかけた。里見軍は徹底的に打ちのめされ、義弘と太田資正も危うく落ち延びた。
 この合戦の時、太田氏の案で、里見軍は安房で瓦人形を焼き、これを船で運ばせて、国府台から栗山までの1キロの崖淵に並べさせて軍兵に見せかけたという説がある。
 また昭和39年10月、下矢切のとある宅地の地下から段ボール20箱ほどの大量の古銭が発見された。唐、宋、明銭で、中には100枚1本にわらしべを通したさし状のものもかなりあったという。国府台の合戦で里見軍と北条軍がぶつかった大坂の近くでもあり、里見軍の軍用金ではなかったかといわれている。

「夜泣き石」の伝説

夜泣き石。台座の石は明戸古墳の石棺の蓋(ふた)

夜泣き石。台座の石は明戸古墳の石棺の蓋(ふた)

 国府台の合戦で戦死した里見弘次の末娘の姫が父の霊を弔うために、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどりついた。
 まだ12~13歳だった姫は、戦場の跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついに息絶えた。
 それから夜になると毎日この石から悲しい泣き声が聞こえてくるようになった。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになった。
 その後一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったという。
 しかし、国府台の合戦の記録では里見弘次は15歳の初陣で、戦死したことになっている。弘次の慰霊碑が、もとは明戸古墳の石棺近くに夜泣き石とともにあったことから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われる。

里見軍将兵の供養塔

里見軍将兵の供養塔

里見軍将兵の供養塔

 国府台の合戦で里見軍は里見広次(弘次)、正木内膳らをはじめ、5000人の戦死者を出したという。
 その後長く戦死者の霊を弔うものもなかったが、江戸時代の文政12年(1829)になって里見諸士群亡塚(写真左)、里見諸将群霊墓(同中)が建てられ、年代は不詳だが、石井辰五郎という人によって里見広次公廟(同右)が建てられた。

 

明戸古墳の石棺

明戸古墳の石棺

明戸古墳の石棺

 明戸(あけど)古墳は、全長40メートルの前方後円墳。周辺から埴輪(はにわ)が採集され、埴輪から6世紀末ごろに造られたことがわかる。2基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っている。古い写真から石棺の蓋(ふた)と思われる板石は、「夜泣き石」の台座になっていることがわかる。石材は黒雲母片麻岩(くろうんもへんまがん)で、筑波石(つくばいし)とも呼ばれるもの。石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦、手賀沼、江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われる。
 この2基の石棺は天保7年(1836)に発行された『江戸名所図会』にも描かれている。概略すると、「北側が里見越前守忠弘の息子、里見長九郎弘次の墓だという。もう一つは誰のものかは分からないが、一説には里見義弘の弟、正木内膳の石棺だという。中世に土が崩れて今は石棺が地上に出ている。櫃(ひつ)の中から甲冑太刀の類、金銀の鈴、陣太鼓、土偶などが得られ、そのうちの一つ二つが現存し総寧寺に収蔵されている。思うに、古代の人の墓だ。里見長九郎及び正木内膳の墓とするのは何れも誤りである」と書かれている。

安国山 総寧寺

 里見公園の隣にあり、城跡の一部でもある総寧寺は、もとは、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師(つうげんぜんじ)を開山として、近江国左槻庄樫原郷(さつきのしょうかしはらごう)(滋賀県米原市)に建立された曹洞宗の寺院だった。
 天正3年(1575)に小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県野田市)に移した。
 関宿の地は水害が多かったため、寛文3年(1663)に4代将軍徳川家綱に願って国府台に移った。
 総寧寺の住職には全国曹洞宗寺院の総支配権が与えられ、歴代住職は10万石大名の格式をもって遇された。

国府台天満宮

 城跡台地にある国府台天満宮には辻切り行事が伝わる。
 同天満宮は文明11年(1479)に太田道灌持資(おおたどうかんもちすけ)が同地の鎮守として建てたもの。もとは法皇塚の墳頂部に祀られていたが、明治8年(1875)に大学校設立用地として周辺地域が買い上げられた時に農家とともに現在地に移された、という。
 「辻切り」とは人畜に危害を与える悪霊や悪疫が部落に侵入することを防ぐため、部落の出入口にある四隅の辻を、霊力によって遮断する行事。
 千葉県南部地方では注連縄(しめなわ)を道に張る部落が多いが、市川など県北部では大蛇を作る部落が多いという。
 同天満宮では、毎年1月17日に藁(わら)で2メートルほどの大蛇を4本作り、御神酒(おみき)を飲ませて魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付ける。大蛇は1年間風雨にさらされながら、町内安全のため目を光らせる。

 

羅漢の井

『江戸名所図会』にも描かれた「羅漢の井」

『江戸名所図会』にも描かれた「羅漢の井」

 天保5年(1834)に完成した『江戸名所図会』にも描かれている城跡台地南側にある湧水。
 絵は、浮世絵師、長谷川雪旦・雪堤父子が描いた。
 羅漢の井の前には、江戸川の東岸から一気に台地上に上る切通し状の坂道があるが、堀切・空堀跡の名残と考えられる。

 

 

北原白秋の紫烟草舎

北原白秋の離れを移築した「紫烟草舎」

北原白秋の離れを移築した「紫烟草舎」

 城とは関係がないが、里見公園内には北原白秋の離れ「紫烟草舎」が移築されている。
 「からたちの花」「砂山」などの作詩で親しまれている詩人・北原白秋(明治18年~昭和17年)は大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続けた。
 「紫烟草舎」は白秋自身が名付けたもので、江戸川の改修工事のために取り壊され、解体されたままになっていた。所有者の湯浅伝之焏氏の厚意で市川市が提供を受け、白秋を偲んで、家の間取り、木材など全て当時のままに復元した。
 白秋が里見の里の風景を愛していたことなどから、この地に復元された。
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 ※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)、そのほかに市川市、市川市観光協会、市川市教育委員会が里見公園内に建てた説明板を参考にしました。

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