松戸周辺の城跡を訪ねて⑯
野田市関宿城

復元された関宿城天守閣(関宿城博物館)

正面入口から見た関宿城博物館

 ちょうど利根川と江戸川が分岐する地点に関宿城はある。本シリーズでは唯一といっていい、天守閣のある城跡だ。と言ってもこの城は後に復元されたもので、内部は千葉県立関宿城博物館となっている。関宿城跡は、江戸川の堤防上のサイクリングロードを流山・松戸方面に少し行ったところの堤防沿いにある。
 関宿城博物館には、関宿城に関する遺物も展示されているが、どちらかというと江戸時代には主要交通路だった利根川と江戸川の水運と治水についての展示物が多い。

関宿城趾の碑が建つ関宿城跡入口付近

関宿城跡全景。遠くに関宿城博物館の天守閣が見える

 天守部分は展望台になっており、晴れていれば遠くに筑波山や日光男体山、赤城山などもよく見える。この城が建てられた中世から江戸時代にかけても、この景色は変わらなかったのではないかと思う。
 関宿城博物館の向かいの中州には橋がかかっており、「中の島公園」がある。移築した昔の江戸川の橋などがある。また、関宿水閘門からは利根川から江戸川に水が注ぎこむ様が見える。
 関宿城跡の入り口には、関宿城趾の石碑と野田市教育委員会が建てた「関宿城の歴史」の説明板などがある。
 以下、説明板の説明を引用する。

関宿城趾の碑

 「関宿城の起源は明確ではありませんが、長禄(ちょうろく)元年(1457)には簗田(やなだ)氏によってこの地に城が築かれていました。関東平野の中心に位置し、水上交通の要衝(ようしょう)であることや乱流する大河を天然の要害(ようがい)とする強固な守りを持つことから、『この城を手に入れるのは一国を得ると同じ』と称され、戦国時代にはたびたび争奪戦が繰り広げられました。
 簗田氏による支配は100年ほどにわたりましたが、天正2年(1574)に後北条氏の支配下となります。小田原征伐の際には、豊臣・徳川連合軍の手に落ち、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に際して、家康の実弟である松平康元が2万石の領地を与えられ関宿藩主として入封します。以後は、板倉氏、牧野氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永2年(1705)に久世重之が入城してからは、明治維新まで久世氏が藩主を務めました。
 江戸時代の関宿城は本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪(はったんくるわ)のほか侍屋敷が置かれ、三層の天守を中心に、多くの建物が築造されていました。明治2年(1869)の藩籍奉還後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられました。
 市内には埋門(うずめもん・市指定有形文化財・東高野=ひがしごうや)や本丸御殿(実相寺客殿)などが現存しています。また、本丸の3分の2が関宿城跡(市指定史跡)として残されています」
 関宿城跡からは関宿城博物館の天守閣がよく見える。
 【戸田 照朗】

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