松戸周辺の城跡を訪ねて⑭

 国道16号線沿いに点在する野田市内の城跡を紹介する。

【戸田 照朗】

 

野田市 木野崎城

木野崎城址の標柱

 利根川西岸の低湿地帯に面した台地上にある。城跡内には、大門、倉庫、水牢などと呼ばれる箇所があり、周辺には城下、萱場、菩提、高根、向山、炭塚などの字地名も残る。
 伝承によれば、元亀年間(1570~72)に一色氏は幸手城から下総国相馬郡に移り、さらに対岸の葛飾郡木野崎に入ったという。小田原の北条氏方にいた木野崎城は天正18年(1590)に豊臣秀吉に攻められて落城。城主の一色数馬は野田市大殿井に所在した祈願寺の真福寺に入り自害したという。

木野崎城跡台地(右端「城山」)を利根川堤防より望む

 話は少々ややこしいが、下総に進軍した秀吉の家臣・浅野長吉(長政)の配下に一色義直がおり、徳川家康が関東に入国した後、幸手に5160石を安堵された。義直は後に木野崎へ転封となり、子の照直に家督を譲って隠居したが、照直が早世したため、再び家督をとり、外孫の直氏を養子とした。さらに元禄11年(1698)、一色家は三河国設楽郡に転封となり、木野崎城は廃城となった。
 城跡台地には青木姓の家々が多く見られるが、残留した一色氏の家臣・青木氏の子孫だと伝えられる。そのうちの一軒のお宅には直氏の位牌と一色家ゆかりの天神様が祀られている。

「城山」が屋号の青木さん宅の城山大権現

 また、屋号が「城山」という青木姓のお宅があり、こちらには城山大権現の祠が祀られている。その隣家の青木さんにお話をうかがったところ、以前は台地下の水田は一面の沼地だったという。天然の水堀の役割を果たしていたのかもしれない。また、台地北端にある天神社付近には土塁のような跡も見られた。
 ※近くの目吹城も一色氏ゆかりの城だが、紙面の都合で次回紹介する。

 

 

 

 

 

野田市 山崎城

海福寺の山門(山崎城跡)

 東武野田線・梅郷駅の近く、曹洞宗無量山海福寺の敷地と隣接する梅の台公園を中心とする一帯が城跡。遺構などは残されていない。
 城主の岡部長盛は徳川家康の有能な家臣の一人で、家康が江戸城に入った後、上総・下総の両国に1万2千石を賜った。天正19年(1591)に築城したと伝えられる。
 後に長盛は丹波亀山藩、丹波福知山藩、美濃大垣藩、和泉岸和田藩と移封になるが、慶長4年(1599)山崎城跡に海福寺を開基して生母(月宮院殿桂庵宗法大姉)を葬ったという。

山崎城主・岡部長盛の生母の墓

 海福寺の境内には生母の小さな墓がある。その隣には岸和田藩岡部家13代の岡部長寛の立派な墓もある。
 住職のお話によると、海福寺は長い間無住で、昭和19年の火災で寺に伝わる岡部家由来の品々も焼けてしまったという。再び住職が住み始めたのは昭和46年からだという。
 現在は松や芝が美しい庭のある境内が広がっている。

海福寺にある岸和田藩岡部家13代・岡部長寛の墓

 

 

 

 

 

 

 

 

野田市 三ヶ尾城

利根運河沿いの三ヶ尾城跡の台地

 国道16号線を北上すると、柏市と野田市の市境は利根運河になる。運河を渡ってすぐ右側(利根川方面)に運河沿いのサイクリングロードを走ると左側に谷津というこの地方独特の風景が残されており、下三ヶ尾飛地の台地先端部に城があったと伝えられる。利根運河の対岸には以前に紹介した猪ノ山城(柏市)が対峙している。
 かつては土塁跡、犬走り跡などが残されていたというが、現在は遺構らしきものはない。築城年、城主などは記録がなく不明。
 ※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方著・崙書房出版)、「幸手一色氏ー系図から伝承までー」(幸手市教育委員会)

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