昭和から平成へ【68】
花の季節に思い出す一期一会
昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(68)
昭和の森博物館 理事
根本圭助
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
今年の桜の開花時期には、寒暖はげしく入り混じって、気温の変化に悩まされた。
あまりにも寒い日が続いたので、この分では桜の開花も遅れるのではないかと思っていたが、予想に反し開花は例年より早く、さっと咲いたと思ったら、駆け足で桜の季節は通りすぎてしまった。
数年前から腰痛のため歩行が一寸つらくなり、人込みも苦手になったので、桜の花ともご無沙汰勝ちになってしまった。もっとも私は2月で満83歳になってしまったのだから、「今は100歳人生!」とおだてられても、もう立派?な年寄りになって居り、元気だった若き日に思いが行くのも無理からぬことと自嘲まじりに思っている。「痛いというのは生きているという証拠です! 痛くなくなったらおしまいですよ!」いつも口癖のようにそう話していた「九段の母」の大ヒットで知られる往年の歌手塩まさるさんの声がなつかしく甦ってくる。
塩さんとは、塩さん70歳の頃から親しく交流を続け、「塩まさる・武藤礼子の手づくりコンサート」で始まり、一年おきに開かれたコンサートは「塩まさる90歳の青春」まで続いたが、その火付け役の一人として、塩さんからは、私もたのしい思い出を沢山いただいている。
因みに塩さんは、平成15年10月16日、95歳で彼岸に渡っている。私としては道楽のひとつだったが、お陰で多くの往年の歌手との知遇を得た。塩さんの親友だった林伊佐緒さん(「麗人草」「愛染草」「ダンスパーティーの夜」)。「人生これやな」と小指を立てて嬉しそうに笑っていたバタヤンこと田端義夫さん(「かえり船」他)。「童謡はクラシックです」そう言っていつも胸を張っていた私と同年の川田正子さん(「みかんの花咲く丘」他)。「恋をしてなくちゃだめよ」何回も私を励ましてくれた二葉あき子さん(「別れても」「水色のワルツ」他)。ひょんなことで義姉弟の盃を交わしたトンコ節の久保幸江さん。菊池章子さん、三条町子さん、池真理子さん、胡美芳さん…書き出したらキリがない。
歌の世界に限らず、気が付くと身近な親しかった人達もかなり姿を消している。
これは私自身そういう年齢にさしかかったことに他ならないと思う。生きるということは、恥をさらすことに他ならないと言った人が居たが、私自身もう充分に恥をさらして来た。
戦時下と戦後の混乱、飢餓時代に幼、少年期時代を過し、それ以後の世の移り変わりは凄(すさ)まじいの一語に盡きるが、どうも私は少し生きすぎたのではないかと近頃ふっと思うことがある。
さて桜の話に戻るが、もうかなり昔の話になるが、桜にどっぷり漬かった年が数年続いたことがあった。京都、奈良の吉野山、長野高遠の桜…などなど、久々に古いアルバムを取り出して、なつかしさにひたっている。
人との出会いと別れに限らず、森羅万象すべてのものとの一期一会の出会いを、桜の花は思い出させてくれる。花から教えられるその無常感をこの年齢(とし)になってみると一層身に沁みて感じさせられる。
特に会う機会を逸してしまった人達に対する思いは悔いとともに切なく胸にせまる。
たとえば「アンツルさん」こと安藤鶴夫先生のお嬢さんはる子さんとは電話と手紙で、かなり親しく交流したが、とうとうお会いする機会を逸してしまった。一度新橋演舞場の吉右衛門劇団の切符が入手したからと言ってお誘いをいただいたが、どうしても私の方で時間がとれず「いずれ又近いうちに―」と約束していたが、思いがけず訃報に接してしまった。送っていただいた数々の本やテープ、DVDを見るにつけ切なさに胸が痛んでくる。
送っていただいた中には、落語が好きだったというフランク永井さんの自演テープの落語などめずらしいものまで入っていた。
出会いと別れは人智では測り難く、所詮人生とは「運」と「縁」とで定められた道をとぼとぼ歩いて来た自分の姿を想像してしまったりする。
20歳の頃、私は偶然手にした榛葉英治氏の「蔵王」と「誘惑者」という作品に出会い、夢中になってしまった。これも私が最も多感な年頃に偶然巡り合ったもので、小説でも映画でも、その巡り会いの時期によって、受けとる側の状態が全く変わる筈で、まさに一期一会の言葉通りである。
昭和33年、「赤い雪」で第39回の直木賞作家となった榛葉先生が、実は柏市に引っ越して来られたことを知り、図々しくお電話したことがあった。
平成5年頃の話である。3度目かの電話で、先生が電話口に出られた。先生は仕事場を房総の方に持っていて普段はそちらで暮らしていることも初めて知った。「誘惑者」の話が出たが、「あんな通俗小説は忘れてください。それより『八十年現身(うつしみ)の記』というのが出版されたばかりだから、それをぜひ読んでほしい」と電話口で熱っぽく話してくれた。この作品は読売文学賞の候補になったが、賞はとれなかった。榛葉先生の初めての自伝だという。
数回お話して、お会いする約束はしたが、これも果たせなかった。
榛葉先生は、平成11年に他界している。
桜の話から又もや脱線してしまった。花との巡り会いもこれ又一期一会である。
その頃私は仕事の打ち合わせで関西へ出かけることが多かった。京都の円山公園の近くのひっそりとした宿がすっかり気に入り、女将に頼みこんで、桜の季節特別に一週間泊まりこんだことが2年程あった。仕事の合間に、京都中の桜を堪能することが出来た。かねてより親しくしていたM子さんの方は娘さんの学校の関係で、その頃「だんじり」で有名な大阪の岸和田に住んでいた。
宿まで訪ねてくれたので、二人して、京都市内を花の姿を求めて歩きまわったりした。
後に大阪へ宿をとり、ここを起点として、奈良の桜、吉野山の桜をゆっくり見て歩くことも出来た。京都の宿の女将の気配りで「都をどり」の切符も用意してくれて、舞台の華にも酔うことが出来た。友人に紹介されたS子さんは京都育ちなので、京の町を色々案内してくれた。
桜というと忘れられないお二人である。
足が不自由になり、あんな強行軍は、もはや夢となってしまった。
嵐電に乗って桜のトンネルの通りぬけも味わった。少し後には、上七軒歌舞練場だったか「北野をどり」に出向いたこともあった。
私は東北の方の桜には出向いたことがない。弘前城の夜桜や、秋田角館の桜などは夢でしかなくなった。逆に北海道函館の桜は五稜郭の中の美術館で師の小松崎茂先生の展覧会が開かれた折丁度満開だったが、講演も頼まれていて、多忙で桜どころではなかった。
冒頭の芭蕉の句のように桜はさまざまの事を思い出させてくれる。前号まで数回、初めて連載の形をとって幼児からの思い出を綴り、高校入学まで辿りついたが、今月は一息入れて、サクラ、さくら、桜の思い出に浸ることにした。
実は先月ひょんなことから、松戸市八ヶ崎のびわ亭で、親しい人達により、私を囲む会というのが開かれた。当日は56人もの人が集まり賑やかな会になった。私自身有難いこととたいへん感激したが、この御報告と前号掉尾(とうび)に一寸書いた「隣りの玉ちゃん」が中途半端なので、これも来月報告させていただくとして、今月は惜春賦(せきしゅんふ)とも言える桜の思い出で稿を終わらせていただくことにする。
日当たりも日陰もありて八十坂 榛葉英治